第一の謎は、その時期が、慶長7年(1602)から元和7年(1621)まで様々な説がありはっきりしないこと。ただ事件があった日は、何故か旧暦10月10日とされており、このことについては特に異論がありません。

 この時期がいつかという問題は、なぜ彼らが為政者と戦ったのかを検証する上で非常に重要な意味を持ち、佐竹が秋田に移封された1602年か、幕藩体制が安定した1621年かでは、この事件が現代の我々に対して持つ意味が大きく変化します。

時代が下がれば下がるほど、単なる年貢等のトラブルによる徳川時代にどこにでもあった一揆の様相が強くなり、早ければそれだけ別の要素が強くなると思われます。

 近年飯嶋和一氏が本事件を題材にした「神無き月十番目の夜」(河出書房)を発刊されましたが、同氏は、生瀬一揆衆は自らの信仰と文化を守るため、新たなる為政者に対して戦ったのだとの立場をとられ、そのため佐竹が秋田に移封された直後の1602年発生説を採るというようなことです。

 第二の謎は、このような事態を生じる事になった原因は何かと言うことです。

 通説では、年貢徴収役人を誤って殺してしまった事が原因であるとされ、またある説では検地にかかるトラブルが原因であるとされているがはっきりしません。

ただ、一つの村が老若男女を問わず子供まで皆殺しにされるほどに、時の為政者との間に険悪化した事態を生じた事だけが事実です。

 第三の謎は、何故村民がこうなる前に逃げ出さなかったのかと言うことです。

 戦国時代には、全村逃散という逃げの一手もあり得たはずであり、また、小生瀬の土地を歩いた人は、この村が深い森と山に囲まれ、しかもかなり広い面積を有している事を発見するでしょう。そして四方の峠口から攻撃されたとしても、寄せての数はせいぜい村民の2〜3倍の 7~1000程度と想像され、しかも他所から来たばかりで地元の地理にあまり詳しくない軍勢では、地域の生活者たる村民が、周囲の山や森から隣接する村や町に逃げ出す事を阻止するのは容易ではないと直ぐに判断出来るでしょう。

 にも関わらず、村民は村の中心部に比較的近くて発見されやすいと思われる、しかも行き止まりで逃げ場が無い地獄沢(この事件後この谷はそう呼ばれています)にあえて集団で逃げ込み、そしてそこで全滅したと伝えられています。


地獄沢絵図(常陸国北郡里程間数之記:国立国会図書館蔵)

 そして最後の謎はこの事件が、何故長い間この事件が公私の記録に留められることなく、歴史の谷間に400年間も沈んでいたのか。そしてそれにも係わらず何故完全には忘れ去られず、周辺の人々に伝承として語り継がれたのか、どこに周辺の人々の共感と同情を呼び起こし、代々語り継がれるだけの価値があったのかという謎です。