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この事件を考えるに当たっては、まず第一に水戸徳川家はこの地域では外様だったという事を抜きにしては考えられません。 その上で全滅という最悪の状態を、何故避けられなかったかという問いを考える時、可能性としては3通りあると思います。 まず第一の推論としては、村民が為政者側の怒りや思惑を知らず、徳川勢の攻撃を全く予想しない状況で突然の不意打ちを受け、全滅したということが想定されます。 この推論が成り立つ時期は、数百の戦支度の軍勢が、水戸から小生瀬までの約50キロの道を数日かけて移動しても、特に目立つことなく怪しまれない時期、すなわち佐竹移封直後の混乱期の1602年旧暦10月10日が最も可能性が高いと考えられます。 しかし、この時代の村々は、藤木久志氏の「戦国の村を行く」(朝日選書)あるとおり、決して無防備の単一集落ではなく、時の為政者の暴力に対しそれなりに村落同士のネットワークや対応策を備えた集団であり、そのような村が何の情報も入手出来ず、対応もなく全滅するというような状況は想定が困難です。 佐竹が移封されたのがこの年の5月、事件が起きたのが10月(旧暦)であり、年貢や検地を巡ってこの数ヶ月間に村が徳川と悶着を起こしていたとすれば、村は緊張状態にあり徳川勢の動きには当然注意を払うでしょう。 そして、この地域が後述するような、歴史的に争乱の地という背景を持った地域であることを考えれば、当然そのような戦の臭いには敏感であるはずであり、為政者の徹底的な報復を招くような事態を引き起こしながら、その認識がないということはほとんど考えられないため、不意打ちによる全滅の可能性は少ないと考えられます。 第二の推論としては、村民が圧倒的に不利な状況を承知の上で覚悟を決め、あえて勝ち目のない戦を挑み、自らの何物かを守って全滅していったと言う推論です。(森鴎外の「阿部一族」にも似た状況でしょうか) この考え方の根底には、この村は当時、陸奥の国白川郡依上保(よりがみほ)と呼ばれた地域に属し、、結城氏、佐竹氏、伊達氏の勢力争いの舞台となって戦乱が絶えず、そのため、通常の村よりも独立心の強い半農半士集団として、独自の文化を保有するようになったのではないかと言う推測があります。 |
地獄沢入り口付近 |
この推測に従うとすると、事件の発端には、為政者の統治に郷士(又は独立農民)として受け入れがたい何かがあり、彼らは武士(又は独立農民)の誇りの示すところに従い、抵抗したのであるとの推測ができます。この場合の一揆の発生時期については、佐竹の移封から数年以内の早い時期に起きた可能性が高いと考えるのが妥当と思います。 その理由は、こうした場合、村と為政者側との軋轢が佐竹移封後の数年間で年貢や検地の実施などにより高まって行ったとの想定が自然であり、為政者がどうあっても、村人たちにとって価値あるものを保有することを許さないと言うことがはっきりした段階で、未だ戦国の荒々しい気質が残る村人達が爆発したのでは無いか。それ故徹底抗戦して全滅も辞さなかったのではないかと考えます。 三つ目の推論としては、前述の飯嶋氏の説になりますが、同氏は上記の歴史的なものを背景にした上で、独立精神の旺盛な村が、徳川家相手の戦に勝算が有るとの誤った判断の下、この地域に生きてきた民として、自らの信仰や文化を為政者に認めさせるための戦いを行い、敢え無く敗北していったとの立場をとっておられます。 時期は、まだ徳川家の力や性格が読めなかった混乱期の1602年説をとっておられるが、妥当な所かと思います。 |