小生は、村が徳川方との一戦を全滅することを承知の上で行ったものと推測しており、その理由は、この事件の記録が何も残されなかったことからの推定です。

 農民達はもとより全滅を覚悟の上での抵抗であるから戦闘は激しいものであったろうし、たかが農民と油断した徳川方が手痛い反撃を受け、かなりの損害を被り面目が潰れ、その失態を伏せる必要があったため、何も記録を残さなかったのではないかと推測しています。 そして村人を皆殺しにしたのも、反撃を受け被った傷の恨みを晴らすためと口封じに行ったと考えれば理解しやすいのではないでしょうか。

 かように郷士や農民達の覚悟や戦いぶりが見事であったため、また、その最後が凄惨なものであったため、周辺の人々の記憶に強烈に刻まれ、そして外様の為政者である徳川家よりも、佐竹を慕う地域柄から、この事件に対する同情は深く長く、記録が残されないまま依上保の人々の中に浸透し、伝承として息づいて行ったのだと考えます。

なお、その時期は前記の理由から、佐竹移封後2年たった慶長9年(1604年)もしくは慶長10年(1605)頃ではないでしょうか。

徳川家の状況からしても、慶長7年11月に水戸領主となった武田信吉(家康の5男)は、慶長8年に水戸で病没し、その後を徳川頼宣(家康10男)が継ぎますが、水戸領内4家老の内紛などがあったりして、慶長9年の水戸領内は騒然とした雰囲気が有ったものと想像されます。そして、慶長10年頃になると新たな当事者徳川家の統治の方針がはっきりしてきた時期であろうと思われます。受け入れ難い抑圧と為政者側の混乱に乗じての反乱であったと考えています。