万葉集に登場する江崎の沖の〔借島〕
天平10年(西暦738年)8月の歌として長門守であった作者が任地の名所を詠んだとされる借島(かりしま)はどの島をさすのか今では不明であるが、江崎付近の島であることはほぼまちがいない。
万葉集巻六 (第1024番)
長門守臣普倍対馬朝臣 作
”長門なる沖つ借島 奥まえて 我が思う君は 千歳にもがも”
この’かり島’は後の<五代集歌枕>や<奥義抄>にも名があげられている。これとは別に細川幽斎(細川玄旨法印)の<九州道の記>に海路を石見から長門に入った直後に〔借島〕を詠んでいる歌がある。この〔かり島〕はそのあと見えてくる小畑浦(萩)や瀬戸崎浦(長門市)が記される前であり、石見につづく海である事から江崎沖と考えられる。
細川幽斎 作
”とかくして、長門の国にいたり、磯のうへ島島を見わたして行くに、かりしまというとあり ときく、たれも世の無常なることをおもひ出でて、皆人の命ながとと、頼めども、世は 借島の浪のうたかた”
江崎沖には有名な島として’名島(なじま)’があり松の生えた美しい姿をしていた。この島が借島であると地元では伝えられている。万葉人や都にまで轟いていた’借島’であったが、1200年前頃は海上交通が主流であり江崎港は天然の良港として栄えたが時代と共に陸上交通が主となり名所も忘れられたものと思われる。
縄文時代より江崎港が栄えていた証明に’
江崎のまるきぶね’の出土がある。国指定の重要有形民族文化財として防府市の資料館に保存されている。
県内で唯一出土した‘江崎のまるきぶね’は7メートル以上あり国内最古最大級で外洋形に樅の木を刳り貫いてあり縄文人が日本海から東シナ海を往来していた事をしのばせます。
江崎のまるきぶねの詳細は
http://www2.coresite.ne.jp/hofubunkazai/shousai.asp?id=097