9 いつもの公園で、敦史は今日も煙草を吸っていた。空はどんよりした曇空。一雨降り そうな感じだ。けれども、敦史は今日もいた。そして、その敦史にいつものように明る い声が飛んできた。 「敦史くん、おはよー!」 声のした方を敦史は振り向くと、急いで横の灰皿に煙草を吹き出して、電動車椅子の 電源を弾くように手の甲でスイッチを入れると、スティックを回し、その声の方向に向 け、スイッチを切って車椅子を止めると、頭を下げた。 「あっ、あ、おはようございます」 「こんな朝早くから寒くない?」 「そっ、そうですか?」 「なぁーんか、今日は雨が降りそうだねぇ」 「そっ、そ、そうですね」 真由美の言葉に歯切れの悪い声を出して応える敦史に、真由美は不思議そうにきいた。 「あれ? 今日も言葉がヘンだよ」 「いえっ、いや、別に……」 「そっか。なら、いいんだけど……」 「え、ええ……」 敦史の態度と答えに、いつもと違うものを敦史に感じながらも、真由美はそれを口に することもなく、遠慮げに言った。 「じゃあ、私、行くね……」 「あっ、いってらっしゃい……」 名残惜しそうに真由美の後ろ姿を敦史は見送ると、電動車椅子の電源を再び入れた。 大粒の雨が降り始めた昼下がり、雨合羽に身を包んでいる敦史が、いつもの喫茶店の ドアを棒で押し開けると、香穂が店の奥から急いで出てきて、ドアを抑えながら、驚い たようにいった。 「いらっしゃい……。この雨の中、きたんですかぁ!?」 敦史は香穂に合羽を脱がしてもらうと、恐縮したように謝った。 「すみません……」 「あっ。別に謝ることはないけど、雨の日はみんな滅多にこないわよ」 「あ、そうなんですか……」 窓の外の風景を見ながら言う香穂に敦史は暗い声で応えた。 香穂は軽く微笑むと、敦史を慰めるように優しく言った。 「やっぱり、雨じゃ来るだけでも大変だもんね」 けれども、そんな香穂の言葉は敦史の耳には入ってないようで、敦史は全然関係ない話を、 注文の品の名前を並べた。 「あ、カレーとコーヒー」 「あ、はいはい」 唐突な敦史の言葉に、ハっと気付いたように返事をすると、店の奥に慌てて消えた。 敦史がテーブルに位置を合わせると、車椅子の電源を切った。そして、雨粒が霧散し ている窓に目を向け、ため息をついた。 「お待ちどうさまぁ」 しばらくすると、香穂がカレーとコーヒーをトレーに載せて、持ってきた。 右手でテーブルを布巾で拭き、左手でそのテーブルにカレーを載せた。その左手の薬 指に指輪が光っているのに、呆然としていた敦史だったが、それに気付き、とっさに見 上げて香穂の顔を見た。 香穂はその視線に気がつくと、不思議そうな顔をしてから軽く微笑んだ。そして、コ ーヒーを載せ、カップにストローをさした。それから、敦史の対面にアイスティーの入 ったグラスを置くと、椅子を引っ張ってきて、座った。 敦史はその香穂の行動に意外そうな表情をして香穂の方を見ると、香穂は視線を窓の 方に向けて、いった。 「今日はもうヒマだから……」 表の街路樹の木の枝は風に大きく揺らされ、横殴りの雨に晒されていた。敦史が来た ときよりも風雨が激しくなっていた。香穂は敦史の顔を見て、すこし苦笑いしているよ うな微笑みを見せた。その香穂の微笑みに敦史は少し俯くと、カレーライスの皿に差し 込んでもらったスプーンに手を伸ばし、カレーを食べ始めた。 対面の香穂は、テーブルに肘をついて、敦史の方を見守るように見つめていた。そし て、優しそうな声をかけた。 「どうしたの? なにかあったの?」 「いえっ、なにも……」 香穂の声に顔を上げた敦史は目をまともに合わされてしまい、慌てて急いで下を向き、 口ごもった。そして、なにか言いたげに上目で香穂の方をちらっと覗き見る。しかし、 その視線に気付かれてしまうとまた条件反射のように下を向いてしまい、口にカレー を運んだ。 カレーライスを食べ終わり、スプーンを置く。そして、コーヒーカップにささってい るストローを口にくわえ、コーヒーを飲んだ。ストローから口を離し、一息つくと、上 目遣いで敦史は香穂を見ながら言った。 「あ、あのぉ、香穂さん……」 「口……」 香穂は手を伸ばして、紙で敦史の口を拭いた。なんとなく照れくささを覚えながらも 敦史は遠慮気味に礼を言った。 「あ、すみません」 敦史の口を拭いた紙を畳んで、空になったカレーの皿にのせ、それをトレーに載せる と、香穂は立ち上がろうとした。 「あ、いま下げるね」 「あっ、そうじゃなくて……」 「えっ?」 立ち上がりかけた香穂だったが、敦史の慌てたような声にアクションを止め、席に座 りなおした。香穂は手を両膝にのせて、敦史と向き合った。敦史はまたその視線を避け るように下を向き、上目を落ち着きがなさそうに向けて、訊ねた。 「香穂さん……。その指輪、渡辺さんからですよね?」 そう敦史に言われると、香穂は左手を右手で包むように持つと、すこし驚いたように 言った。 「あっ。知ってたんだ……」 「知ってたって言うか、毎晩、二人っきりでいるの見てましたから、たぶん、そうじゃ ないかなと思って……」 申し訳なさそうに敦史は暗い口調で言い訳でもするかのように言葉を並べた。 そして、さらに敦史は言葉を続けた。 「なんだかんだ言いながら、渡辺さんの香穂さんに対する態度って、他の人への応対と 違ってましたし、香穂さんの渡辺さんに対する態度も特別みたいな感じでしたし……」 最初は呆れたように話していたが、後半は香穂の目を気にしてか、敦史はすこし俯いた。 それから、そのまま顔を伸ばしてストローをくわえてコーヒーを飲むと、意を決した ように背もたれから少し身を起こして、敦史は強い口調で香穂に質した。 「香穂さん、不安とかないんですか?」 「そうねぇ。不安だらけかな」 「じゃあ、なんで!?」 クスっと笑い、あっさりと応える香穂に対して敦史は答えを追求するように迫った。 微笑みながら応える香穂が敦史にはわからなかったからだ。なんで、そんなに軽く言え るのか……。 すこし香穂は間を置くと、照れくさそうに言った。 「渡辺のコト好きだから……。愛してるって言った方がいいのかな?」 「でっ、でも、それだけじゃ!!」 納得できない敦史は声を上げた。 それに対して、香穂はクスっと笑みをこぼすと、真剣な眼差しを敦史に向けて、静か に言葉を語り始めた。 「そうね。これから大変だろうし、好きってだけじゃ生活はできないかもしれない。ま だ、お互いの両親にも挨拶してないしね」 「じゃっ、じゃあ、どうしてっ!!?」 憤りすら感じる敦史のその様相に気付いてか、香穂は顔の緊張を緩め、やわらかく微 笑んだ。そして、間をすこし置いて、静かに言った。 「でもね、好きだから一緒になってもいいと思った。それに、好きじゃなきゃ一緒に暮 らしていけないんじゃないかな? これからずっと……」 すこしおどけたように微笑む香穂の姿に敦史はなにも言えなかった。彼女の嬉しさや 喜びが肌で感じたからかもしれない。 敦史は思った。幸せそうだな、と。けれども、敦史はそれを口にすることもなく、黙 っていた。口にすると、自分の惨めさが実感してしまいそうな気がしたからかもしれな い。