11 珍しくTVもついてない静かな自室で敦史は大きく息をつくと、天井を見上げた。す ると、人の顔と言葉が遠いところから流れ来るような感じがした。そして、その声はだ んだん大きくなり、敦史の脳裏に響いた。 『はっきりしねー奴だなあ』 『オー、自分に自信を持ちなさいナ!』 『やれる時にやりたいことはやるの!』 『やらないで後悔したくないからな』 『少しでもあいつらに感化されたらいいな、と思って……』 滅多に自分に見せることのない真剣そうな一面。それだけに本音に近いものがあるの だろうな、と敦史は思った。けれども、自分には……。 その時、ふっと香穂の笑顔が浮かんできた。 『好きだから……』 敦史は見上げていた顔を下げ、フッと息をついた。そして今度は、肩を落としてうつ むくように下を向いた。その時。 敦史の視線の先、ベッドの下に絵はがきが落ちているのに気がついた。敦史は棒で絵 はがきを引き寄せると、キャスター(足台)を棒の先の金具に引っかけて上げて、足を 下ろすと、その絵はがきを屈んで拾った。 ウェディングドレスの女性とタキシード姿の友人の写っている写真がプリントされて いる絵はがきだった。敦史はその絵はがきをなんの気なしに裏返した。自分の住所と名 前が書かれている。そして、その宛名の下に文が見えた。 〔おまえもがんばれよ!〕 しばらく敦史はその部分を見入って、動けなかった。 天気のよい朝。小鳥の声が遠くに聞こえ、樹々の間からは柔らかな木漏れ日が洩れて いる。敦史はその日差しの中、公園のいつもの定位置で道路の方を見つめていた。 同じく朝日の中を、真由美は同僚の女性と明るい声で喋りながら歩いてきていた。そ の真由美の姿が敦史の視界に入ると、敦史は電動車椅子の電源のスイッチを入れ、真由 美たちに向かって、移動させた。そして、歩道に面した公園の入り口を少し出たところ で、近づいていた真由美に、おなかの底から絞り出すように声をかけた。 「あっ、おはようございます!」 「あ、敦史くん、おはよー」 前日までの真由美とは違い、いつものように頭の後ろから出ているような声で、テン ションの高そうな明るさで、応えた。すると敦史は、言葉を必死で繋ぐように声を漏ら した。 「あっ、あの……」 「なあに?」 普段のように明るく真由美は問い返した。 敦史は意を決したように、しかしながら真由美の目線を避けるように俯きながら、長 い髪の下からちらちらと見上げ、いった。 「あのっ、今度の土曜日にっ、えっ、映画見に行きませんかっ?」 「え……?」 真由美は一瞬、言葉を失った。そしてすぐさま、瞳を横に動かし、隣にいる同僚の女性 の様子を伺うように、見た。 そんな真由美の様子をまともに見れていない敦史が知る由もなく、必死だった。もう 頭の中は自分の事で一杯で、真っ白に近かった。 「だっ、だから、僕と……」 「あ、ごめーん。その日、彼とデートなんだぁ!」 真由美は両手を合わせてそう言うと、照れたような笑顔を見せた。 その言葉を聞いた敦史の心臓の鼓動は早くなり、頭の中が白くなっていく。そんな中、 真由美は手を振ると、そそくさとその場を立ち去った。 喫茶店に入ってこようとする敦史の姿が目に入ると、香穂はいつものようにドアに駆 け寄り、ドアを抑え、微笑みを浮かべて、いつものように言った。 「あ、いらっしゃい」 しかし敦史は、頭をぺこっと不愛想に下げると、沈んだ表情で店の奥のいつもの場所 に、入り口に背を向けるように着けた。そこに水を持って、香穂がきた。 「今日はなんにする?」 「あ……。フレンチサンドとコーヒー……」 「はい」 今にも消え入りそうな敦史の呟きに香穂は静かに応えると、カウンターの奥へと立ち 去った。敦史はそれを気配で感じとったのか、その香穂の気配が消えると、大きくため 息をついて、うなだれた。 しばらくすると、香穂がフレンチサンドとコーヒーを持ってきた。そして、その皿を うなだれている敦史が気づくように、敦史の目前に置いた。 その皿に敦史は気づき、顔を上げると、そのまま見上げるように香穂を見た。香穂は 不思議そうな顔をすると、膝を曲げて屈んで、敦史に訊ねた。 「今日はどうしたんですか?」 「あっ、いえ……、なんでもありません」 いつもとは明らかに違う様相で、敦史は弱々しい声で応えた。 香穂は敦史の対面に椅子を持ってきて、その椅子に腰掛けた。そして、フレンチサン ドにフォークをさし、食べ始める敦史の顔を見つめていた。 「ふ〜ん……」 「なっ、なんですか?」 「いつもの敦史くんじゃないからさ」 「そっ、そんなことないっスよ」 香穂の問を覆い隠すように、敦史はわざとらしくおどけながら応えた。そして、話し の矛先を変えようと、別の話題を振った。 「あ、そういえば、香穂さんって、昔、渡辺さんをフったんっスか?」 「え。誰が言ってたの?」 トレーを抱えたまま戸惑ったような表情を香穂は浮かべた。 敦史はその反応に意外そうな顔をすると、すこし困ったように言葉を発した。 「あ、渡辺さんですけど……」 「そっか……。まだ、敦史くんの年の頃の話なんだけどね……」 すこし照れているのか、そう言うと香穂はうつ向いた。 フレンチサンドを口に運び、むしゃむしゃサンドを食べながら、その話に耳を傾けて いた敦史は、口の中のものを飲み込むと、質した。 「どうして、また?」 「なんでかなー。若かったのよね、お互い……。それに、本当に好きだったから、ほん の些細なコトも許せなかった。結局は小さな誤解の積み重なりだったんだけどね……。 当時はそれを素直に認められなかったし、納得できなかった……」 「今は? 同情ですか?」 「敦史くんって、そんな顔してキツいこと言うんだね」 敦史は自分がしている質問が香穂にとってキツいものであるのかどうかなんて考えも していなかったので、言われて改め考えてしまい、すこし戸惑ったように言った。 「あ、べっ、別に、そういうつもりじゃ……」 その敦史の応えに安堵したのか、敦史の動きに香穂はくすっと笑った。 「そんなコト、渡辺に言ったら嫌われちゃうよ。今度は私が彼に……。そんなんじゃな いわよ。ただ……」 「ただ?」 「ただ、あの頃より自分に素直になれるようになったのかな」 テーブルに肘をついている両手を頬に当てると、香穂は微笑んだ。しかし、敦史はそれ に対して、なにも言えずに、ただ香穂を見つめていた。 ドアの開く音が響き、車椅子が入ってきた。その音に腰を上げ、そっちに向かって手 を大きく振った。そして、香穂は明るい声で敦史に言った。 「あ、きたわよ」 「えっ……」 その言葉に電動車椅子をすこし動かし、入り口の方を振り返ると、そこには渡辺の姿 があった。今さっきまで話のネタにしていた渡辺が、それも普段来るはずのないこの時 間帯に現れたということで、敦史は一瞬にして焦りを露にした。 香穂に変わって、敦史の着いているテーブルの方まで来ると、ピタっと車椅子を止め、 左手で左の車輪を前に回し、右手で右の車輪を後ろに引き、位置はほとんど変わって いないのにこっちを向いた。そして、開口一番、明るくこう言った。 「よっ、敦史。ほんまにこんなに朝早くから来てるんやな」
つぐ
急に敦史は無口になり、口を噤んでいた。そんな敦史にからかうような口調で、きいた。
「なに、しけたツラしてるん?」
「僕は渡辺さんたちに騙されましたよ」
敦史は渡辺の意に反すように無粋な声の言葉を上げた。
それに渡辺は素っ頓狂な声を出した。
「はぁ?」