10 喫茶店の入り口の開く音が店内に響いた。香穂はその音に条件反射的に立ち上がった。 「あ、敦史くん、ごめんね」 「あ、はい……」 敦史に両手を合わせて謝った香穂はそのまま入り口の方に向かった。そして、笑顔で 声を上げるが、途中で歩を止めた。 「いらっしゃい……。あ、元下さん……」 「あ、ども」 元下はウォーカーを押して、奥の席へと向かって歩いてきた。香穂が脇にどくと、元 下は軽く頭を下げて、脇を抜けて、敦史の隣のテーブルの椅子に腰掛けた。そして、テ ーブルの上の灰皿を引き寄せ、くわえた煙草に火をつけた。 そこに香穂が水を持ってきて、なにか期待しているような笑みを浮かべて、言った。 「今日でしたよねぇ? どーでした?」 「あ、あー。渡辺とおんなじでよく覚えてんねー」 そう元下は笑いながら言うと、煙草を口にくわえたまま手をクロスして見せた。 香穂はすこし表情に陰を入れて見せるが、明るく言った。 「そうだったんですか……。残念でしたね。じゃあ、なんにします?」 「あ、香穂ちゃんの奢り!?」 「えーっ。サービスはしますけど、奢りませんよ」 軽く香穂は笑うと、そう言った。 元下はすこし薄笑いを浮かべて、人差し指を立て、言った。 「んじゃあ、サービスで一発やらしてくれる?」 「なに言ってるんですか。あのコに言っちゃいますよ」 「ぶっ。なんで香穂ちゃんがそんな話知ってんだよ!? あ、渡辺だな」 元下は香穂に問うように言ったが、香穂はそれを軽く聞き流して、訊ねた。 「それより何にするんですか?」 「あ、じゃあ、ビールとミックスピザ」 「また呑むんですかぁ?」 「いいじゃないの。帰り、置いてある車椅子借りてくね」 「はいはい」 呆れ顔で香穂は返事をすると、カウンターの奥へと消えた。 元下が再び煙草をくわえ、ふかした。そして、窓側に顔を向けると、言った。 「おー。なんだ、いたのか」 「あ、ども。いたのかって……」 「黙ってっからわかんねえんだよ。いつもいつも」 「なっ、なんですか!? いつもって?」 反論でもしたげに言う敦史を元下は横目に見ると、煙草をふかして、言った。 「言わせたい?」 敦史は元下の視線から逃げるように自分のテーブルの方を向き、コーヒーを飲んだ。 そして、ストローから口を離すと、遠慮げに元下の方を向き、質問した。 「あ、あのぉ。元下さんは渡辺さんと香穂さんの事知ってるんですか?」 「ハァ? 知ってるもなにも、この裏だぜ。渡辺の家」 「えっ、えっ? そうなんスっか?」 敦史は驚きを隠せず戸惑っていたが、元下はなんでもないような感じだった。 落ち着きを取り戻した敦史はまたおそるおそる元下に訊ねた。 「バツって……、なにがダメだったんですか?」 「バツ? んなこと言ったか?」 「いや、さっき、手をこう……」 そう言って、敦史は不自由な手をクロスしているようにした。 元下は煙草をふかし、煙を噴くと、煙草を灰皿にもみ消しながら、淡々と言った。 「ああ。就職だよ」 「あっ、すみません。そうだったんですか……」 敦史が口ごもるのを見ると、元下はあきれたように言い捨てた。 「ナニ暗くなってんだ? おめェのコトとはカンケーないだろーに」 「いや……」 そのまま敦史は俯いた。 元下はけったるそうに息をつくと、新しい煙草をくわえた。が、その時、香穂がビール とグラスを持ってきたのに気付いた。元下はくわえた煙草をシガレットケースに戻すと、 香穂がテーブルに置く前にグラスを取り、自分でテーブルに置いた。そして、テーブルに 置かれたビール瓶に手を伸ばした。 ピザを食べ終わり、ビールも三本ほど空にし終わると、元下は側に香穂が置いておい てくれた車椅子に乗り移った。見た目は顔面も赤くなく、まるで素面のようだが。 そして、漕ぎだそうとする前に、なにかを思いだしたように敦史の方を向き、真面目 そうな声で言った。 「ああ。真由美に言っておいてやったぞ」 「えっ? なにをですか!?」 敦史は驚きの声を上げ、元下に聞き返した。 元下は軽く笑うと、応えた。 「おめーが好きみたいだってさ。じゃあな」 「えっ、えっ!? ちょっ、ちょっと……」 制止しようと敦史が上げる声も耳に入っていないようで、元下は笑い声を上げて、去 っていった。 すっかり暗くなった外の風景の中の雨は小降りになっていた。香穂は店の外の通りま で元下を押して、元下が暗闇に消えるまで見送ると、店の中に戻り、テーブルを片付け にやってきた。敦史はその香穂に話しかけた。 「そんなに呑んで、元下さん、大丈夫なんっスか?」 「う〜ん……。身体にはホントはあんまり良くないらしいんだけどね。これぐらいなら……。 それに、普段と比べたら全然すくないし……。本当はもっと呑みたいはずなのにね」 そう言うと、香穂はクスっと笑った。敦史はそんな香穂の態度に複雑な表情を浮かべ ると、意を決したように香穂に訊ねた。 「やっぱり、障害者の就職って、大変なんですかねぇ?」 「そうね……。障害者って言っても、ピンから桐だけど、彼の場合は特にっていうか……。 今は安定しているのにね……」 歯切れの悪い言葉を香穂は並べ、応えた。 敦史は率直にその言葉に疑問の声をぶつけた。 「特にって……?」 「んん……」 答えにくそうに言葉を濁し、香穂は目線を避けるように横にずらした。敦史はその態 度のちぐはぐさに、ようやくある事を思い出した。そういえば、それは敦史が聖子に聞 いたことだった。 「そっか。元下さんは……」 敦史の脳裏に聖子の声が響く。 (進行性の……) 暗い顔で俯いた敦史に、香穂は敦史の思いを覆すように、真っ直ぐ敦史の方を見て、 優しくいった。
つまず
「でも、だからって、一度や二度の躓きぐらいじゃ彼は負けないと思う。就職もそうだ
けど、彼女に対しても、ね」
「そっ、そうですよね」
にっこりと微笑み、片目を閉じる香穂の顔に、敦史には暗いながらも言葉を短く返す
のが精一杯だった。
あくる日、敦史は近所にある久美の家に来ていた。しかし、敦史は黙り込んでいた。
その敦史を久美はただ見ていた。敦史が話を切り出すのを待って。
敦史は呟くように、下を向いたまま言った。
「みんな頑張ってるんですね……」
「そりゃそーよ。あいつらはそんな素振りを見せるのを嫌がるけどね」
落ち着いた口ぶりで久美は応えた。
敦史は力なく、髪の下から上目を久美に向け、ぼそっと聞いた。
「久美さん。久美さんは結婚って、どう思います?」
「なに言ってんの? そんなのしたければ、すればいいじゃないの。ヘンな子だね〜」
「そんなもんっスかね……」
さらりと答える久美に、ようやく敦史は顔を上げ、疑問混じりの声を出した。久美は
その重々しそうに話す敦史に向き合って、いった。
「そんなもんもなにもないよ。誰かそんな相手でもいるのかい?」
「いや、そういうんじゃ……」
「お嬢ちゃんかい? それとも、あの真由美って子かい?」
口ごもる敦史に久美は更に質問を具体的にして、きいた。
それに敦史は焦りを覚え、弁明しようと言葉を並べようとした。
「べっ、別に……。だっ、だから、そんなんじゃないですよE」
「…………。あいかわらずはっきりしない子だね〜」
「すみません」
「別にあやまることはないよ。ただ、敦史が少しでもあいつらに感化されたらいいかな、
と思ってたから……」
「そっ、そうなんですか?」
「それもあって、あそこにおまえを連れていったのは確かだね」
「でっ、でも……、僕にはできません……」
そう言うと、暗く敦史は欝向いた。