3 伝票を見て、渡辺は財布からお金を取り出して、テーブルの上に置くと、車椅子のブ レーキを軽快な音と共に外して、言った。 「ほな、今日はもう帰るわ」 「おつかれ」 間髪入れずに何事もないように応じる元下に対して、敦史は慌てたように言った。 「えっ? 渡辺さん、もう帰るんですか!?」 「ああ。じゃあな」 渡辺は後ろをすこし振り返り、小さく手を上げると、ほとんど惰性で出入口まで行く と、その場に止まり、すこしカウンターの方に視線を向けた。そして、なにもなかった かのようにドアを開けて、喫茶店から出ていった。 しばらくして、香穂がビールの入った露に濡れているグラスを銀のトレーに載せて持 ってきた。 「お待ちどうさまでした」 「あー、香穂ちゃん。あと、リゾットいい?」 テーブルの上にグラスが置かれると、元下は煙草を灰皿にもみ消してそう言った。 「あ、はい」 香穂は軽く微笑んでそう応えると、カウンターの方に歩いていった。 その香穂の足がふいに止まり、敦史たちの方に振り返った。そして、確認でもするか のように、言葉を並べた。 「あ。今日は、先に渡辺さん、帰られたんですね」 「ああ、そうみたいね」 「そうですか……」 「あ、これ、勘定だってさ」 「あ、はい……」 渡辺が帰る時同様に何事もないように普通に答えた元下に香穂は軽く笑みを見せて、 テーブルの上のお金と空になったコップとお皿を手にし、一礼すると、カウンターに消 えた。 そんな香穂の様相を目で追っていた敦史は、元下の方に向き直って、真剣な顔をして 質した。 「元下さん……。渡辺さんと香穂さんって、なんかあったんですか?」 「なんかって?」 「いや、だから、あの……」 敦史はまた口ごもった。うまく言葉にできなかったのであった。 相変わらずの敦史の態度に元下は呆れかかった。そこに、店のドアが開き、ドアの鈴 が軽やかな音を響かせ、アイラと聖子が入ってきた。 「こんばんはぁー」 深々と頭を聖子は香穂に下げると、そのままその場で話し込み始めた。 アイラは話途中で軽く切り上げて一人だけで敦史達のいるテーブルの前に滑り込んで きた。すると、元下はビールの入ったグラスを少し掲げると、言った。 「ちわ。お先にやってまーす」 「オー、元下、もうイッパイやってるんですかー」 敦史も慌てたように頭を下げ、いった。 「あ、アイラさん、こんばんは」 「おおー、敦史ぃっ!今日もきてたのー?」 「そっ、そんなに驚かなくてもいいじゃないっスか」 「ハハハっ。まァ、気にしない気にしない。でも、驚きネ」 そこに聖子がやってきて、話に割り込んできた。 「へー、毎日きてるのぉ?」 「とっ、突然きて、なんですかっ!べっ、別にいいじゃないっスか!!」 強い口調で敦史がそう言うと、聖子は少し引いたように、言葉をこぼした。 「そんな言い方しなくたって……」 「おおー、敦史っ!お嬢ちゃんに嫌われちゃうヨー」 そう言ってアイラは冷やかすように笑った。 アイラは掌の部分だけで煙草を取り出し、両手の掌で煙草を挟んで口にくわえた。す ると、横から元下がライターを差しだし、アイラの煙草に火を点けた。それにアイラは 手を上げ、いった。 「あー、サンキュー」 香穂がリゾットをテーブルに持ってきて、載せる。 「元下さん。お待ちどうさま」 愛らしい微笑みを見せながら香穂は元下の前にリゾットの器を添え、フォークとスプ ーンをセッティングした。その時、聖子が香穂に向かって、両手を合わせて丁寧に言っ た。 「あのー、私はボンゴレと紅茶を頂けますぅ?」 セッティングを終えた香穂は顔を上げ、聖子の方を向き、応えた。 「あ、はい。で、アイラさんは何にします?」 「あー、なんでもいいですヨ。そろそろ忙しくなる頃でしょ。お任せしまーす」 「お任せしますって言われても……」 アイラの言葉に香穂は思わず苦笑いした。すると、アイラは少し慌てたように即座に 言葉を並べた。 「あー、はいはい。あ、じゃあ、カレーとコーラとお願いしまーす」 「あ、はーい。ボンゴレとカレーと紅茶とコーラですね。わかりました」 「ワタシはカレーとコーラで、ボンゴレと紅茶はお嬢さんネ」 「わかってますわかってます」 「足りなかったら、また後で注文するヨ」 香穂は軽く頭を下げてカウンターの奥に行こうとした。が、足を踏みとどめ、髪を揺 らして振り返り、いった。 「あ、敦史くんはコーヒーだけでいいの?」 「あ、じゃあ……」 敦史が口を開いてなにか言葉にしようかとしたその時、その言葉を遮るように元気の よさそうな真由美の声が割って入ってきた。 「すみませーん。お勘定」 席から真由美たちが立ち上がり、カウンターから出てきた香穂の方を見ていた。 「あ、はーい」 それに香穂は大きな声で応えた。そして、再び敦史の方を向き、駆け寄ってきた。しか し、その前に敦史は慌てたように言った。 「あっ、あの人達のお勘定の方を先にっ」 「そう? じゃっ……」 香穂は片目を閉じ、敦史に向かって片手を上げると、すこし早足でレジへと向かった。 そのレジの方に敦史は視線をすぐにずらし、呆然と見ていた。すると、横から聖子が 不思議そうに敦史に声をかけてきた。 「あっちゃん。なに、ボーとしてるの?」 ハっと気がついたように敦史は慌てて振り向き、視線を聖子に向け、苦笑いした。そ して、文句ありげな、問うような言葉を呟いた。 「あっちゃんって・・」 「敦史だから、あっちゃん。なにか?」 「いっ、いえ、なんでもありません」 平然と答える聖子に敦史は苦笑いしながら、応えた。 聖子はすぐさま質問を繰り返した。 「で、なにを見てるの?」 「なっ、なんでもないっスよ!」 「なにムキになってんのよ……」 必死の形相で否定する敦史に対して、聖子は驚いたように身を引いて、不満げに言葉を 呟き放った。 ドアの鈴がなり、真由美たちが喫茶店から外に出ていく。その一瞬、敦史の動きが止 まった。そんな敦史を見ていた元下がなにげないように言葉をこぼした。 「ふ〜ん。真由美か……」 すると、敦史は急に慌てた。 「ちょっ、ちょっと!元下さん、待って下さいよー!」 「ん? 俺はまだなんにも言ってないぞ」 元下はそう言うと、眉間を寄らし、上目遣いで敦史に視線を向けた。すると今度は、 聖子が手を合わせて、うれしそうに言った。 「えーっ、あっちゃん、そうなのぉ!?」 「なにが`そうなの、なんですか!!」 敦史は苦笑いしながら、強い口調で言った。 その時、敦史の後ろから香穂の声が割って入ってきた。 「盛り上がってますね」 コーラと紅茶がテーブルに置かれる。アイラはそのコーラのグラスを自分の方に引き 寄せ、笑顔で香穂に言った。 「敦史の疑惑を追求しててネ」 すこし屈んで香穂は短い髪を揺らし、敦史の方に大きな瞳と笑顔を向けて、優しそう な声できいた。 「敦史さん、疑惑なんて懸けられてるんですか?」 「ちっ、ちがいますよー」 一瞬、香穂の瞳に捕らわれたように言葉が出なかったが、すぐさま照れたようにその視 線を外し、質を否定した。 軽く香穂は微笑むと、敦史に聞いた。 「で、なんにします?」 「えっ、あっ、あー、僕もカレーで……」 店のドアが開き、やわらかな鈴の音が響いた。客が入ってきたのに香穂は気づいて、 腰を上げ、敦史に明るく言った。 「カレーね。じゃあ、真相が解ったら、教えて下さいね」 トレーを胸に抱いてウィンクすると、いま入ってきた客が座った席にへと香穂は去っ ていった。 それを見送るように見ていた敦史は下を向き、一息つくと、今度は顔を上げ、アイラ の方を向き、改まったように聞いた。 「そーいえば、アイラさんは知ってます?」 「ん? なにをデスか? 敦史と真由美サンについてですカ?」 「ちっ、ちっがいますよー! 香穂さんと渡辺さんの関係なんですけど……」 「ハァ? 今は敦史と真由美サンについての話をしてるんじゃないんデスか? そんな コトはカンケイないじゃないデスか!!」 「いや、だから、それの話とは関係なくて、きいてるんじゃないですかっ」 すこし困ったように敦史は言った。 それに対し、アイラは怒ったように敦史に言い放った。 「今はそんなコトはどーでもイイじゃないですか!! ダイタイ、なんでワタシがそんな コト知ってなくてはいけないんデスかぁ!? そんなのは本人に聞けばイイのではないデス か!!」 「あっ、アイラさん。そんな怒らなくても……」 敦史は憤慨しているアイラに困った表情を浮かべ、なんて言おうかと言葉に迷った。 その時。アイラの横から聖子が両手でカップを抱えたままの姿勢で、落ち着いたよう な淡々とした口調で話に口を挟んだ。 「高校の時の同級生みたいよ」 「えっ!? そうなんですか!!?」 敦史は驚いたような声を上げた。 「へー、そんなに年上だったんだ。すこし年上ぐらいだと思ってた。で……?」 そして、興味にそそられたような表情を露にし、さらなる言葉を敦史は期待した。 しかし、聖子はそんな敦史の期待をあっさりと蹴るように淡々と言葉を加えた。 「詳しくは知らないけどね」 そして、聖子はカップに口をあて、静かに紅茶を飲んだ。