茶禅一味と茶核一味

茶核一味を考えるにあたり、当然茶禅一味とは何かが問題となります。

このホームページで、一味をどのように英訳するかは、この点に付いて、最初にぶつかった重要 課題でした。日本語では一味という漢字を見て何となく分かったような気持ちになって、いくつかの意味があるだろうぐらいで先にすすめますが、英語国民は、 その言葉だけで意味を明確にしなければ通用しないのです。

鵬雲斎家元の書かれた、Tea Life, Tea Mindには、"The taste of Tea and Zen are one and the same"とあります。一方、熊倉功夫先生が監修された、米国人が書いた本には、"fravour"としていました。今回の英訳では、鵬雲斎家元の考え方 をとっています。

しかし、"taste"も、"fravour"もかなり即物的な感じがします。茶には味も香 もありますが、禅の味や香とは何でしょうか。英語国民にとっては、何となく東洋的な香のする言葉ではありますが、それを一般的に理解しろというのは、不可 能に近いと思われます。禅のtasteやfravourとは何か、理解できないでしょう。

私には、もっと精神的な意味を示すものが欲しいと思い、いろいろさがした結果、 "Trinity"=「三位一体」という言葉を思い付きました。神と精霊とイエスキリストは一体であるというもので、英語国民には馴染みやすいように思わ れましたが、キリスト教について深く知らない為、自信がなくて使いきれませんでした。単純には"spirit"と言うべきでしょう。

英語のもっとも有名は茶書は、岡倉天心の"The book of tea"ですが、残念ながらこの中には茶禅一味を示す内容を見つけることはできませんでした。天心もこれを西洋人に説明するのは難しいと考えたかもしれま せん。

茶道と禅の間に共通するものは、精神的なもの、特に自律本願的なものではないかとも思われま す。修行により、自分を高めて行く姿勢は、禅は浄土宗などの他律本願的なものとは少し違っていて、茶匠の採用するところとなったのではないでしょうか。

昔ポルトガル人のロドリゲスが、「茶道において、禅の宗派を模倣したとはいえ、その宗派に特 有のいかなる迷信をも、また宗儀や儀式をもとらなかった。ただ隠遁的孤独、公的な交渉雑事から身を引くことだけを模倣し、不熱心、無気力、優柔不断を去 り、万事において意志の果断と俊敏さを模倣した」と記しているそうです。(田中仙翁「茶道の美学」)

本件に関しては、茶道と禅だけではなく、核も含めて一味を追求する中で、解決して行く問題と 思い、今後の勉強の最大の課題として残したいと思います。

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