【栄光のル・マン】
製作年 1971年、米
監督  リー・H・カツェン
出演  スティーブ・マックィーン → 砲艦サンパブロ ブリット
【あらすじ】
 1台のポルシェ911がル・マンを目指して走っていた。運転しているのは今年もル・マン24時間耐久レースに出場するレーサーのマイク・デラニー(スティーブ・マックィーン)だった。花屋の前でリサを見かけるが、彼女の夫は去年のレースで事故死し、マイクも大けがを負った。マイクは事故現場を訪れるが真新しくなったガードレールだけが去年の事故を物語っていた。
 今年の大会はポルシェとフェラーリの一騎打ちで、マイクはポルシェの20号車に乗り込んだ。午後4時にスタートすると予想どおりポルシェとフェラーリは激しいデッドヒートを繰り広げた。マイクは同僚のブルーノと交替すると、食堂に赴きリサとバッタリ出会った。彼女は今大会に出場しているフェラーリのオーラックと一緒に来ていたが、あまり幸せそうではなかった。夜に降り出した雨は夜が明けると止んだが路面は濡れていて危険だった。1台のフェラーリがスリップした前の車を避けきれずコースを大きくはみ出して大破した。運転していたのはオーラックで炎上前に脱出したものの大けがを負った。マイクも同じ箇所で事故に遭いリタイヤした。救護所には2度の不幸で放心状態のリサがいたがマイクは自分のトレーラーに乗せ、しつこいマスコミからもかばってやった。フェラーリに追いつきたいポルシェの監督はマイクに21号車を運転するよう命じた。先頭を走っていたフェラーリはパンクでリタイヤし、ポルシェ22号車が先頭になった。猛追するもう1台のフェラーリをマイクの21号車がブロックし、ポルシェの22号車が優勝した。
【解説】
 スティーブ・マックィーンは当初F1を舞台にした映画を撮る予定だったが、レース仲間でもあるジェームズ・ガーナーが「グランプリ」を完成させたため、ル・マン24時間レースを舞台にしたものに変更した。マックィーン自身は実際のル・マンにも出場するつもりでいたが、事故を恐れた製作サイドが反対し、代わりにマックィーンが所有するポルシェ908がカメラ・カーとして出場することとなり、フィルム交換のために何度もピットインしたにも関わらずクラス順位2位、総合8位の好成績を収めている。監督は「荒野の七人」「大脱走」でも組んだジョン・スタージェスが登用されたが、ほとんどレースシーンばかりの台本にあきれて降板した。実際、映画の中でセリフが出てくるのは40分近くも経ってからで、ほとんど1970年のル・マンのドキュメンタリーと言っても過言でない作品である。当然アメリカでの評価は散々だったが、日本ではル・マンへの憧れとマックィーンの人気で大ヒットしている。マックィーンはこの後、大作「タワーリング・インフェルノ」(74年)などに出演し高い人気を誇っていたが、1980年に50歳の若さで亡くなっている。
 F1モナコ・グランプリ、インディ500と並ぶ世界3大カーレースの一つル・マン24時間レースは1923年に第1回が行われた。大戦により40年〜48年まで中止となったが、49年から復活し現在に至っている。ル・マン市はパリの南西200qにある小さな田舎町で一部公道を使った全長13.880qのサルテ・サーキットが毎年6月になると熱戦の舞台になる。出場する車はプロトタイプカー(レース専用設計車)とグランドツーリングカー(市販車改造車)の2つの大きなカテゴリーに別れている。第1回優勝車の走行距離は2200qだったが、現在は5000qを越え最高速度も400qを越すようになったため、名物だった6qの直線コースには2つのシケインが設けられるようになった。
 ポルシェは1951年に初めてル・マン24時間レースにエントリーしたが、まだ大戦から間もない頃でポルシェ博士もヒトラーと親密だったこともあり風当たりは相当強かったが、それでもクラス優勝を果たしている。念願の総合優勝は本作品の撮影を行っていた70年にポルシェ917が成し遂げ、以後98年までに最多となる16回の総合優勝を果たし自他共に認めるル・マン24時間レースの顔になっている。 
 本作品にも事故のシーンが登場するが、1955年にメルセデス・ベンツが観客席に飛び込み80人以上の死者を出す大惨事が発生し、以後長らくメルセデス・ベンツは一切のレース活動を休止している。その大会で優勝したのは事故のきっかけを作ったと後に非難されたジャガーのマイク・ホーソンだったが、引退の翌年公道を走行中、前の車を追い抜こうとしてスリップし事故死した。前を走っていた車がメルセデス300SLだったので、怪談めいた出来事として語り伝えられている。メルセデス・ベンツは89年に34年ぶりに復帰し総合優勝を果たすが、99年にマシンが宙を舞う事故を起こし再び撤退している。