【テルマ&ルイーズ】 製作年 1991年、米 監督 リドリー・スコット → ブラックホーク・ダウン 出演 ジーナ・デイビス → カットスロート・アイランド スーザン・サランドン ブラッド・ピッド |
【あらすじ】 アーカンソー州の小さな町に住むウェイトレスのルイーズ(スーザン・サランドン)は、友人のテルマ(ジーナ・デイビス)を誘って山小屋への週末旅行に出かけた。テルマは専業主婦で口うるさい夫に旅行のことを話すことが出来ず結局書き置きして家を出た。2人は食事のためカントリー・バーに寄るが、ハーランという男が悪酔いしたテルマを介抱するふりをして暴行しようとした。現場に駆けつけたルイーズは銃を突きつけて制止させたが、罵声を浴びせられたので思わず引き金を引いてしまった。2人は車を急発進させてその場を離れたが、週末旅行が一転逃避行になってしまった。 ルイーズはメキシコへの逃走資金として恋人のジミーに金の送金を頼むが、ジミー本人が現れルイーズを困惑させた。テルマはヒッチハイカーのJ.D(ブラッド・ピット)と一夜を共にするが、翌朝ジミーが持ってきてくれた金と共にJ.Dは消えてしまい、ルイーズは絶望のあまり泣き出した。責任を感じたテルマは、大胆にもスーパーで強盗を働き一線を越えてしまった。 警察の捜査も厳しくなり2人もお尋ね者になったことを悟ったが、ルイーズはテキサス州を経由せずにメキシコに向かおうとするためどうしても遠回りになり捜査網は次第に狭められていった。テルマはルイーズにテキサス州で何があったのか聞いたが、ひどく怒るばかりで話してくれなかった。待ち構えていた州警察のパトカーを振り切ると、とうとう、アリゾナ州のグランド・キャニオンまでたどり着いた。回りを何十台ものパトカーで囲まれた2人は覚悟を決め、大峡谷の方に向かってアクセルを踏み込んだ。 |
【解説】 監督のリドリー・スコットは、映画界に身を投ずる前はテレビCMを3千本も製作した売れっ子の映像クリエイターで、光と影のコントラストが際だった「エイリアン」(79年)や「ブレードランナー」(82年)といったSF作品の大ヒットで一躍名を知られるようになった。「ブレードランナー」の芸者の看板や、大阪を舞台にした「ブラック・レイン」(89年)など、日本に対する関心も高い。一時期低迷していたが「グラディエーター」(2000年)がアカデミー作品賞を受賞するなど高い評価を受けて見事に復活、以後も「ブラックホーク・ダウン」「ハンニバル」(2001年)と立て続けにヒットを飛ばしている。作風は違うもののスモークを多用するなど映像の作りには弟トニー・スコット監督と共通するものがある。 「華麗なるヒコーキ野郎」にも出演していたスーザン・サランドンは、年下のティム・ロビンズと共に政治や社会問題に積極的に取り組む活動家としても知られ、イラク戦争の時にも反戦の立場を貫いている。そのロビンズが監督した「デッドマン・ウォーキング」(96年)ではアカデミー主演女優賞を獲得している。 音楽のハンス・ジマーは「レインマン」「ドライビング・MISS・デイジー」「デイズ・オブ・サンダー」も手掛けておりこの時期のロードムービーを一手に引き受けていた感がある。フジTVの”料理の鉄人”にも使われていた「バックドラフト」(91年)や「クリムゾン・タイド」「ザ・ロック」(96年)など重厚なサウンドの作品もあり「タイタニック」のジェームズ・ホーナーと並ぶ売れっ子の作曲家である。 2人と運命を共にするのは66年型フォード・サンダーバード・コンバーチブルである。1955年にロードスターとして投入されたサンダーバードは、58年からGTカーに、72年からはラグジュアリーカーへと変貌を遂げた後、97年モデルを最後に一旦消滅したが、最近復活した。 |
【米ビッグスリー・フォード】 デトロイト郊外の貧しい農家に生まれたヘンリー・フォードは、発明王エジソンの技師長などを務めた後、1903年自ら設立した会社で自動車の製造を始めた。08年に投入したT型フォードはコンベア方式の組立ラインや、炭坑や鉄鉱石鉱山まで自社で所有するなどの徹底した合理化で、価格を庶民の手が届く範囲まで下げたことで大ヒットとなりフォード社は業界トップとなった。このT型フォードは27年まで生産されるが、さすがにこの頃になると時代遅れとなりGMが投入した大衆車シボレーにより業界1位の座は奪われたものの、累計生産台数は1500万台に達した。 32年に投入したV型8気筒エンジンのフォードV8もよく売れたが、固陋なヘンリーの経営で収支は逆に悪化した。45年に社長に就任した孫のヘンリー2世は、積極的にモータースポーツに取り組むようになり、ル・マン24時間レースでは、エンツォ率いるフェラーリとしのぎを削った。64年に投入したマスタングは記録破りの売上げとなり、ポニーカーブームの火付け役となった。 |