東條中将「国防論」(完結)
東條英機の父と書いた方が通りのよい、陸軍中将(退役)東條英教が識す「国防とは何を為すことか」(『後援』大正2年3月号掲載)も、締めくくりとなる。
今までの内容を大まかに振り返る。
「国防は物質的防禦と精神的防禦がある」では、国防は、国土・国民(その財産)などの「物質」を護るだけでなく、国家の名誉・体面―「精神」―を守ることまで含まれると述べる。
続く「精神的侵害の防禦は出来ぬ」は、国家の名誉・体面への侮辱―精神的侵害―を防ぐことは出来ぬから、それを受けたらまずは相手に謝罪を求め、得られぬとなったら積極的に攻勢に出て打ち負かし、謝罪を勝ち取るべきだと説く。下手なことをすると攻められる、と畏れられるようになれば、精神的侵害は起こりようがないと云うわけだ。
話を日清・日露戦争に転じて語る、「二大国防戦が如何なる場合に起りたるかを回想せよ」は、両戦争の原因が、相手国からの精神的侵害にあったとして、ともに「侮辱に対する国防戦」だったとの見解を示している。
「専守的防禦でなく攻勢的防禦をせねばなるまい」は、先に述べた精神的侵害への対処の観点から、敵を国境外に押し返すだけでなく、敵国に攻め入らねば、国防の目的は達成できないとする。
「協商に信頼して武力を減ずるは誤りなり」では、国家間の平和を約束する協商・協約が、「互いに相手国の武力に畏憚する所あって成立」するものと喝破する。相手の武力が自国の脅威にならぬと知れれば、どんな協商・協約も、先方の胸先ひとつで反故になると警鐘を鳴らす。
「海軍全能的国防主義は真正なる国防の目的ではない」と、「陸海軍は陸戦の歩騎両兵種の働きに似て居る」は、海軍力があれば、陸軍軍備は国境を護る程度のレベルで良いとする主張を否定するものだ。
侮辱に対する謝罪を勝ち取るには、敵国に攻め入り屈服させる必要がある。ゆえに有力な陸軍軍備は欠かせない。海軍軍備の充実だけでは国防は全う出来ないと主張している。
国家の名誉・体面の維持のため、戦争も辞さないと云うのだから、その心性は、「舐められたらオシマイ」な、昔のサムライ、今のヤクザと同じだ。戦争を罪悪視する発想が無く、何かあれば武力に訴えるつもりでいる以上、とにかく必要にして充分な軍備を確保・維持することが大前提となる。
それゆえに結びの文章は、国防が出来なければ何も始まらないと云う、庶民にとっては困った論調になってしまう。
以下、「一、信頼すべき国防が出来て国民国家の事業も出来る」を紹介する。例によってタテの文字組をヨコとし、仮名遣いを改め、フリガナは略し、適時改行を施す。
一、信頼すべき国防が出来て国家国民の事業も出来る
又世人は動もすれば、今日、満洲及び遼東半島に於ける我が国の経営を目して、将来大陸侵略の第一歩なりと見るの傾きがある。而して、これを、「大陸主義」と名づけて嫉視する者もあるようである。
勿論大陸侵害主義が、所謂大陸主義なるものならば、吾輩も、亦、この大陸主義を嫉視するに躊躇する者ではない。併しながら、吾輩は今日の満遼の経営を大陸侵害の第一歩であるとは、目して居らぬ。寧ろ、吾輩は、これを目して、他日、万一必要なる場合に、露、支、両国に向かって、攻勢的戦争を開くに当たり、後れを取らぬ為、地歩を占むる所以なりと認むるものである。
故に、この経営が、我が国の国防主義に照らし、国防上極めて、必要なる仕事たることは言うまでもない。而して、平時に於いて、この事は、露、支、両国に対して威力を示す所以にもなろう。
この頃すでに、日本の「大陸侵略」と云う見方がされていた事に驚く。
満洲・遼東半島は、支那ロシアに攻め込むために保持せねばならぬと云う。本土・朝鮮半島を護るためでは無い、と云うのが怖ろしい。
大陸方面に関して、吾輩は、右の如き見地に立つと同時に、他の一面に於いて、今日、所謂海洋主義者が、頻りに、世間に、頒布広告しつつ在る、世界列国の将来に於ける海軍勢力の増加一覧表ともいうべきものを一読し、我が国海軍の増加率の、他列国のものに比し、大いに遜色あるを見、彼等論者と共に、中心頗(すこぶ)る寒心に堪えぬものがある。
尤も、この表の示す数字の多少が、必ずしも、精密に、将来の海戦場に於ける彼此勢力の優劣を顕わすべきものとは思わぬ。これが為には、士気の振否、教育の精粗根拠地の遠近等、種々なる素質を考うる必要もあろうが、何にせよ、この表面の示す数字に於いて莫大な等差がある。
故に、吾輩は、固より、この表面の示す所を信じ、世間海軍拡張の議論に頗る同情を寄するものである。併しながら、上来述べ来たった理由に照らし、吾輩は、真の国防上には、陸軍の勢力をも、亦、決して、等閑視すべきものにあらずと思うが故に、彼等海洋主義者が、海軍拡張論の鼓吹に急なるの余り今日の陸軍を縮少せんとする議論の、無謀極まるものなることを、遺憾ながら、此に告白せざるを得ぬ。
要するに、海軍拡張の資はこれを他に求むべく、これを、陸軍の縮少に、求めんとするが如きは、怖らく、真の意義に於ける国防の職責を知らぬ者である。
海軍軍備を増やすことには理解を示す(その根拠が、世間一般に流布された情報であるトコロにも注目すべきだ)。しかし、陸軍軍備を減らし、それで浮いた資金を充てることには断乎反対の立場を取る。陸軍のヒトだから当然の反応ではある。海軍は増やす、陸軍は減らさない(本音のところでは陸軍だって増やしてほしい)。では、その元手はドーすれば良いのだろう?
顧みて、諸種の統計に照らして、我が国の経済情勢を窺い又、一方国民奢侈の現況を見るに、吾輩は、今日、我が国の富力が国家の生存を危うからしむるまでに、武力を減せざる可らざるほどの悲境に在りとは認め能わぬ。
我が国民は、須く、彼の、普魯士国(ふろしや)の勃興史を読むべきである。若しも、読んで、同国が、「ナポレオン」一世に蹂躙せられたる以後、王室も、政府も、国民も、相挙って、如何なる程度の質素、倹約を守り、以て、専ら武力を養い、終に、仏国に報復し、今日の如く、独逸国の中堅となり、その威四隣を圧するに至りしかを知るに及ばば、蓋し、大いに悟る所があろう。
苟も、質素簡朴の風を興すに勉めず、滔々として、矯奢華美(きょうしゃかび)に流れる傍ら、動もすれば、国家の武力を減じても、私嚢の負担を軽からしめんとするが如き国民は、これ、亡国の民にあらずして何ぞ。
読者諸賢ご想像のとおり、国民から搾り取るのである。プロシャ(この頃にはドイツ帝国になっている)を見習えと云うのだ。国民が贅沢をやめて倹約に努めれば軍備は如何ようにでもなる。税の負担を軽くするため軍備を縮小しようなんて考えを持つ者は「亡国の民」だと決めつけている。
抑も、軍備は、他の事業と趣を異にし、国家財政の余裕あるだけに、施設し置くべきものにあらずして、寧ろ、宜しく、四隣圧迫の情態に顧み、必要ある程度に施設することを主とし、費用の如きは、これを標準として尋ね求められねばならぬものである。
蓋し、国民は、この覚悟を欠く国家は今日の世界に於いて、完全に生存を続け得る資格のないものである。国家の如何なる事業も、国民の如何なる事業も、信頼すべき国防あっての後のことである。
軍備は特別。財政の状態を問わず、国防上必要ならば第一に整えねばならない。GNPの1%、2%ケチなことは云うな(どこが聞いたヨーな話だ)。軍備充実の出来ぬ国家は滅びるしかない。国家・国民の事業伸張・発展は、信頼できる国防が出来てからの話だと云う。
考えるのも云うのも自由だ。しかし、どれだけの軍備があれば国防は万全、国家は安泰と云えるのだろう?
東條中将が云うように、他国からの精神的侵害を、武力による攻勢で「落とし前をつける」のであれば、当然、西欧列強同等の力が必要になる。「兵を養う」と云う言葉がある通り、それをいつでも使えるようにするにはドーしても国力がないといけない。体裁のいい暮らしにお金がかかるように、強大な軍隊を維持するにもお金は必要だ。そう考えて行くと、軍備充実の前に、国家の事業・国民の事業を発展させる方が先だと、主筆は思ってしまう(物質的侵害を防禦するレベルの軍備は、まっさきに必要なのだが)。
東條サンは、店先で菓子玩具をねだる、「三尺の児童」と変わるところが無い。弁が立つ分タチが悪い(笑)。まずは国力充実が先でしょう、と云えば「それは俺の仕事ではない」とソッポを向くに違いない。
そうは云っても、第一次世界大戦を経て、世界の趨勢は軍備縮小に向かったことは、歴史の教科書に書いてある。差し迫った脅威がなくて、なんで軍備を増強するものか。
(おまけの世迷い言)
中村橋の古本屋で、この『後援』を見つけた時は、まだロシアがウクライナ国境に軍隊を集結させ、戦争が始まるかも知れないと騒がれつつあった頃であった。ロシアがウクライナに侵攻した理由は想像するしかないが、ウクライナの「離反」をロシアへの「精神的侵害」と見て、謝罪(親ロシア政策への転換)を迫りに来た、と見立てることは出来る。それが為されぬ限りロシアは戈を収めぬだろうし、ウクライナの方も、親露政権に変わらぬ限り、少なくともロシア軍を国境の向こうに押し返さねば、戦争を終わらせることは出来ない。戦争はまだ続く。国土・国民・産業は傷つき、向こう何十年恨みが続く。
戦争の代替物は無いものか?
ひとつ残ったお菓子を取り合う。早いモノ勝ちと喰ってしまう解決法?もあれば、「じゃんけん」で決着させる手もある。たかがお菓子ひとつで殺し合いをすることはない。神事で御札を取り合い、最後に持っていた者が神に選ばれし者として称賛・祝福されることがある。当事者が、結果に納得すのものであれば、闘争の形態は実は何だって良い。
戦争をして、互いの国土・国民・財産を毀損しあう。先方の存在をこの世から抹消するのが目的ならばともかく、戦争が国家指導者から一般国民まで「負けた」と思い知らせ、こちらの云うことを聞かせる手段なのであれば、双方が出た結果に従う前提のもと、戦争は他の「勝負事」で代替出来る。
人類の歴史が戦争の歴史であり、人間に闘争本能がある以上、その根絶なんかありえない、と思うのが常識だ。争いを無くすことは無理としても、その手段を変えることは出来る。
戦争からして、石や棒で殴りあっていたのが刀剣・弓矢になり、銃砲で撃ち合うようになる。兵隊を送り込んでチマチマ攻めていく傍らで、爆弾でまとめてやっつける。核兵器の登場で、町ひとつ国ひとつ爆弾一個で壊滅出来るようになる。負けた方を皆殺しや奴隷にしていたのが、武装を解き戦意を明らかにしなければ、見逃すか保護されるようにまでになった。今日では、無抵抗の者を殺戮することは、戦争のさなかであっても犯罪として批判される(建前に過ぎぬとしても)。これくらい戦争の姿は変わっている。
これで決まったのならしょうがないね、と思う闘争手段が見つかり、それで一回やってみて、負けた方が自重してくれれば、案外「戦争」はアッサリやめられるんじゃあないだろうか。
スポーツか、将棋の類か、早食い・大食いなのかは、国際会議でヨーく議論すれば良い(それ自身が興味深いイベントになるだろう)。相手を亡き者にすることだけは出来ないが、それは犯罪であって闘争とは認めないようにする。軍隊は、闘争の結果を受け入れない国や人を脅迫し従わせるために、残さざるを得ないかもしれない。しかし戦争によらず国家間の闘争が成り立つならば、軍隊の存在意義も変わってくるだろう。
戦争から破壊と殺戮を取り除く方法を考え始めるべきだ。百年千年あれば出来る。やり始めれば、「カーボンフリー」実現より早いかもしれない。
(おまけの余語)
「敵基地攻撃能力」の付与だ、国防のために増税だと、国会で決まってしまう。
20年前ならアタマおかしくなったんぢゃあないかと云われるヨーな(国会議員や防衛省のエライ人が口走ったらクビが飛ぶレベルの)事となり、生きてる間に日本が主体的に戦争する―勝つ結末が予想出来ない―のを見なければならぬのかと、生きてるのが少しイヤになる。
タバコも値上がりか(防衛力向上のため、タバコをもっと楽しもう、なんてキャンペーンが始まるんぢゃあないのか?)。
(おまけの最初から読みたい方へ)
物質的・精神的侵害と「国防」
人に人格、国に国格
「純然たる国防戦」
専守防衛では勝てぬ
「協商・協約は国家武力の産む所」
「海軍全能的国防主義」は真正の国防にはあらず
陸海軍は陸戦の歩騎両兵種の働きに似て居る