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             母系社会研究会について
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現在の父系的核家族は、誰もが自然に形成されてきた人間的な家族形態、当たり前の制度と思っていて疑う人などほとんどいません。しかし、私達は、仕事を求めて各地に移住が容易な現在の父系社会的な核家族は、市場経済がつくりだし、資本主義が父系的核家族社会を完成させたと考えています。

この競争的市場経済体制がその家族制度として人類に強制する父系社会的核家族制は、3割近い離婚率やシングル族の増大で、「先進国」では既に崩壊し始めていますが、その崩壊過程で多数の人間を「破壊」しかねない家族形態なのです。アダルト・チルドレン(以下AC)の問題はこの象徴的な現象であり、資本主義の拡大とともに世界中にこの問題が蔓延してゆきかねない深刻な問題です。

また現在、少子化による人口減少が、将来の日本社会の安定的存続を脅かす大きな問題となっています。この少子化の問題と、ACの問題は、現在の資本主義社会、父系社会的核家族社会が、家族という社会の根底的な「組織」の形成に「失敗」しつつあること、つまり「労働力」の安定的な再生産ができない破綻社会であることを示しているのかもしれません。


私達は現代社会の問題として今までに取り上げられてきた資本と労働の諸問題や環境問題とともに、家族の問題、子供の養育と老人介護、特に子供の養育問題も深刻な問題だと考えています。現在の父系的核家族の「家族機能」の低下は、子供達に大変な打撃を与え、場合によってはウツ病などの厳しい心理状況に追い込み、長期間苦しめるからです。

このような家族機能の低下した家族で育てられたAC達は「トラウマ」を抱えて、苦闘しています。この苦悩は、対象が家族だけに当事者の子供にとっては大変深刻な問題です。アメリカと日本で、このAC達の治療に携わってきたある専門医師は、ちょっと信じがたいのですが、すでにアメリカと日本の80%の家庭が、子供をACにしてしまいかねない「家族機能」が低下した家庭ではないかと推測しています。


私達は競争がもたらす様々な「不幸」やACの根本的な解決策を考える過程で、母系社会が理想社会になりうる力を秘めた社会ではないかと気づき、父系社会の対極としての母系社会の可能性を考えるようになりました。理想社会の様々な条件を検討して、現代的な母系大家族社会に移行する以外に、「競争」を克服すると同時に家族の問題、ACの問題を根本的に解決する道はないと思い至り、このSMSを立ち上げました。

私達が目指す社会は、母系や父系社会、その他の社会など様々な人々が共存できる社会です。母系社会を希望する人々が母系社会で生きられる環境をつくることが目的であり、母系社会を望まない人々にまで強制しようとは思いませんし、そもそも強制的に母系社会を創るのは不可能です。結果として日本中が、あるいは世界中が母系社会になる場合もあるかもしれませんが、父系も母系も、あるいはその他の社会も共存できる社会が理想的社会だと考えます。


母系大家族社会は、家族全員が協力して子供の養育や老人介護ができる家族制であり、様々な家族の問題を根本的に解決し得る家族制度です。母系社会は母系大家族の共有財産を基盤に形成される小規模の母系家族経営の企業群が経済の中心となる社会となるでしょう。このような全く新しい経済システムを構築し、企業間の競争も抑制する必要があります。

母系社会を実現する為には、まず母系社会のビジョンが必要ですので、このビジョンを構築してゆく過程で母系社会の可能性を検証しつつ、私達が目指すべき現代的な母系社会のビジョンを創りたいと思います。母系社会を雛型とした理想社会の構想は、おそらく今まで一度も試みられてないチャレンジであり、私達の力量を遥かに超えていますので、多くのこの構想に賛同する方々と共に、母系社会のビジョンを創りたいと思います。


私達SMSは言うまでもありませんが、既存のどのような政党とも無関係です。「母系社会」の実現を理念とした政党などそもそもありません。私達SMSは理想的母系社会のビジョンを議論し、その構想をまとめることだけを目的としたサークルなので、実際に現代的母系社会を実現する具体的な活動は予定していません。この構想を実践する場合は、このサ−クルとは別の組織をつくり実行することになるでしょう。SMSの会則は現在必要がないのでありません。今後会員になられた方とともにつくりたいと思いますが、入会や退会は完全に自由という点は、サ−クルの原則にしたいと考えています。


このような「理想的な社会」についての議論、活動は、一種の「義務的」な「自己犠牲的」な運動と思いがちですが、それは錯覚です。テレビなどで、政治活動の大変さを臆面もなく訴える政治家がいますが、そんなに大変なら、遠慮なく即刻政治家を止めればよいのです。労働運動や公害や基地反対運動などの社会運動をする人々は、運動が生活に直結しているので止めたくとも簡単には止められませんが、政治的活動家の場合は全く別で、誰かに頼まれたわけでもなく、自ら望んで、自らの選択で政治家になったのですから、いつでも止められるのです。

人は、自らが不当な差別をされたり、あるいは他人から問題の解決を頼まれたとしてもそれだけでは、政治活動家にはなれません。政治運動をするには必ず特定の政治思想が必要で、人が政治的活動家になるということは、その特定の政治思想を本人が選び、それを単に支持するだけでなく、自ら活動して実現することを望んだということです。自らの選択で、望んで政治的活動家になったのです。

私達は、政治活動をしようとしているわけではありませんが、政治活動に似ているのも確かです。それは私達も不完全ながら独自の政治的な思想や理念を持ち、それを提案したいので、それを主張し提案しています。自らの判断で、自ら望んでしているので、盆栽やテニスの趣味的な同好会と同じレベルで、一つの「生きがい」としてこの「活動」をしているのです。人は生きる糧を得る仕事以外の自発的な活動は、どのような活動であれ、本当にしたくないのであればしないものだと思います。


また、このようなテ−マについての議論は、「正義」の活動のように思いがちですが、それも錯覚です。現実の世界は無数の要素からなり、あらかじめ全ての要素の反応を計算しきれないので、バブル経済の崩壊の時のように、現行の制度をほんのわずか変更しても全く予想外の結果になる場合もあります。資本主義も学者達の予想したビジョンどうりにはなかなか実現されません。

私達の場合も、場合によっては、一旦資本主義にもどり、改めて別の現代母系社会のビジョンを試すケ−スもあり得ます。何度チャレンジしてもうまくいかなければ、最終的に放棄される場合もあります。ですから、この母系社会論が本当により高度な「幸福」や「福祉」を人々にもたらすものかどうか、「正義」かどうかは、実現されてみないとわかりません。逆もありえますので、批判に対しては常に謙虚でなければならないと思います。


私達のビジョンも含めて歴史の検証を経ていないビジョンは、それがどんなに精緻に構想され、それにより実現の可能性が高まることはあっても、それで実現が保障されるものではありませんし、経済システムとして持続可能であっても、本当に理想的な社会かどうかは不明です。究極的な根拠を問われれば私達の心の中にある「確信」だけです。

ですから、社会主義や私達の「現代的母系社会」などの構想のように、歴史的な検証を経ていない構想、人類にとって総合的な有益性が確認されていない構想は、論争などで説得により人々の同意を得て実行するしかなく、暴力の行使により強制的に実行する根拠はありません。全ての新しい構想は、どんなに現実性があるように思える政策でも、「実験」であり、失敗する場合もあるが試してみる価値のある試みとして人々の賛同を得られた時だけ実行されるべきものです。

私達の母系社会論が現実を少しでも捉えられているかどうかはわかりませんが、私達の主張が現実の世界を少しでも捉えているならば、その捉えている分だけ他者にも意味のある活動となるでしょう。

人間の根源的な「共同体」としての家族

親と子の関係が生涯にわたって持続する動物は人間だけです。このような死滅するまで続く親子関係、つまり家族の存在が人と他の動物との大きな相違点です。おそらく記憶力の増大により、母親とその子が相互の関係を死ぬまで記憶するようになった時、サルは人間になったのでしょう。家族は人類の誕生とともに存在し、現在のような国家や宗教は消滅しても人類が生存している限り家族は消滅することはないでしょう。

サルの親と子供の関係は子供の成熟とともに終わるので、サルが肉親の死を経験することは稀にしかありません。しかし人は、家族を持つようになったため必ず肉親の死に直面するようになりました。人は肉親の死という特別に深い悲しみをどう解釈し克服するか、あるいは自らの死や死一般をどのように解釈するかという難問を抱えるようになり、やがてその回答として極めて「高度」な文化的、観念的な体系である宗教が生み出されたのではないでしょうか。

つまり、増大する記憶力が家族を生み出して、サルを人にし、その家族が「高度」な文化体系である宗教を生みだしたのです。しかし、記憶力も文化もサルと人との違いは相対的な差でしかありません。ですから、家族の有無がサルと人との動物と人類との決定的な違いではないでしょうか。


AC達の実存的な苦悩からわかるのは、この家族が人にとっていかに大切な存在でるかということです。親の愛情を子供が十分に感受できないと、子供はウツ病などの心の病にさえかかる場合があります。人は家族との濃密な人間関係性がないと、生物としての危機にさえ陥りかねないのです。家族の存在なしには人は生物としての人にもなれないのですから、家族は人間の根源的な「共同体」と言えるでしょう。

人間はせいぜい趣味や美意識などの世界でしか個人としては存在していません。ほとんどの人は、社会的には既婚者はもちろんですが、独身者でさえ個人としてではなく、家族として生きています。現在の父母兄弟達の家族と将来自らが形成であろう家族の二つの家族の一員として期待に応えられるよう準備をしているのが人の独身時代です。一見個人として存在しているように見える未婚者でも、未来の家族の一員としての社会生活を既に開始しているのです。

ですから、人は社会的には、第一義的には、ある特定の個人としてではなく、ある特定の家族として存在しているのです。ほとんどの人間は社会的には常に現在と未来の家族の一員として、家族として生きているのであって、家族よりも個人として社会的にも存在し行動している人間は、いたとしても極めて例外的な存在です。


社会的な存在としての人間を個人と捉え、「個人としての人間の解放」を求める思想は誤りではないでしょうか。第一義的な社会的な主体は、外見はもちろん個人ですが、中身は家族内の役割を自発的に担う主体としての「個人」、つまり家族です。ほとんどの人々は、自ら家族内の役割を果すことや家族と共に過ごす生活を第一義的には望んでいるのであり、個人は第二義的な意味しかないのではないでしょうか。

ですから「個人としての人間の解放」を第一義的に求める思想は根拠がないのではないでしょうか。国家などの擬似的な価値物が消滅してしまうと、「個人としての人間の開放」は、事実上、家族からの開放となってしまうのではないでしょうか。しかし、家族こそ人間が生きるための「生への意欲」を獲得する場です。家族という極めて強固な共同体内で相互に「拘束」し合うことで、人は初めて「社会的存在」、つまり人間になれるのです。

人は幼児や老人、病人などの世話を必要とする人、つまり家族がいるからこそ生きる意味を、生きがいを見出せるとさえ言えなくもありません。人は個人であることを相互に放棄し、家族内の役割を自発的に果たすことで、はじめて生物として存在できるようになるのですから、この家族は絶対的な存在です。この家族の絶対性が現在の家族(子供)だけでなく未来の家族(子孫)の運命にも無関心ではいられなくし、人間を社会的、政治的な問題に向き合わせるのです。


私達は、人々の生活水準が同じならば、家族と過ごす時間が長い社会ほどより「人間的な社会」であり、より「理想的な社会」だと考えます。もちろん、この「家族生活時間」は労働時間により増減し、労働時間の長短は、生活水準と関連しますので、一概に長ければ長いほどよいとは言えません。

ですから、地球環境を良好に保てる範囲内で、全世界的な協議により、技術的な労働生産性を考慮してこの労働時間を決定すればよいでしょう。労働時間が決まれば、家族と過ごすために使える時間、自由時間も決まりますので、極力この自由時間を延長することを人類的な課題とすべきですし、この自由時間が長い社会ほど理想的な社会と言えるのではないでしょうか。

人間の根源的な「共同体」である家族は人間にとって必要不可欠な存在です。この家族という強固な共同体の存在を前提としてはじめて人間は他のより困難な理念、たとえば分業制の克服のための人間の「全面的な発達」等々の理念への挑戦も可能になるのです。

(注)子供が親を自分の親として認識し確信するのは反照規定的に親がその子供を自分の子供として大切に扱うからです。ですから孤児院で、ある特定の大人が特定の幼児を継続的かつ熱心に世話をすれば、その大人自身の認識に関わりなく、その幼児にとってその大人は正真正銘の「親」であり、精神的にも普通の家庭の幼児と同じ発達過程をたどるでしょう。人間にとっての本質的な意味での家族とは、生理学的な家族ではなく社会学的な意味での家族です。

(注)人類は、「目的意識的労働」が可能ですが、これは人類だけが持つ能力で動物と人類の最大の相違点だと言われてきましたが、 南米に、木に傷をつけて、数日後にこの木にもどり、樹液を食べる習性を持つサル達がいます。またパンくずを見つけても食べずに水面に落とし、このパンくずを食べに水面に浮かび上がる魚を捕まえて食べるカラス、「釣り」をするカラスもいます。このような人類にしか不可能と思われていた未来予測的な「労働」をするサルやカラスもいますので、もしかしたら従来人類だけが可能とされていた「目的意識的労働」は、人類の専売特許ではないかもしれません。もちろん、これだけでしたら例外と見なせますが。

競争的市場社会と母系社会の優位性                

最近様々な問題の解決策として、企業間の経済競争や個人間の競争をより激化せよと唱える風潮が蔓延しています。しかし競争は、一定の効用があるのも確かですが、人間社会にとって激しい副作用もある劇薬のようなものです。

現在の日本のような競争的市場経済は、人間性が競争的だから人間に適した経済制度との意見もあるでしょうが、そもそも経済は人が生きるために行う活動です。しかし、最近急増している経済的破綻による自殺や過労死、凶悪犯罪の増加などの例でもわかるように、激しい経済競争は人を殺す場合もあり、さらに市場や石油資源の争奪などで戦争そのものを引き起こす背景となっています。

このような激しい経済競争を引き起こす世界的な競争的市場経済では、競争に勝ち続ける間はよいのかもしれませんが、競争ですから日本が負ける場合も当然あり、その場合はこれらの評論家達はどうするつもりなのでしょうか。もともと自己責任だとか唱える冷淡な彼らは、おそらく最後まで資本主義が存続するアメリカにでも移住するつもりなのでしょう。スポ−ツや趣味なら別ですが、経済などの人命にかかわる分野での死活的競争はしない方が良いのです。


最近毎日のように報道されている様々な育児や老人介護関係の事件は、現在のような競争的市場社会に最適化された家族形態である父系的核家族を背景に起きているのは明白です。現在、日本では、年間60人以上の子供が虐待で死んでいます。現在の少年の「非行」問題や、ACの問題の原因の多くは、十分に子供の養育ができない現在の父系的核家族制度とそれを生み出した競争的市場経済にあり、彼らはその犠牲者なのです。

母系社会は大家族なので、育児も介護も家族全体で協力して行いますので、このような悲劇が起きにくく、これから本格化する高齢化社会にも最適です。言うまでもなく幼児期、少年期の家庭環境は人生を決定しかねないほどの大きな影響を人におよぼしますので、子供にとって母系大家族ほどの良質な家庭環境の家族形態は他にありません。

母系社会では、 父親の役割の一部を母親の兄弟も担い、親が三人いることになるので、両親が離婚しても子供にとっての家庭環境は核家族より安定的ですし、女性が財産を相続し所有するので子持ちの母親が離婚で経済的に苦境に陥るなどの問題はありません。


現在の日本の多くの女性は、自分自身の親の介護ができません。また老人介護をしている多くの家庭が、家族の超人的な努力でかろうじて支えられています。既存の母系社会では多くの家族は3、4世代の30人から40人位の一族単位で、大きな家屋などに同居しているので、育児も老人介護も一族が助け合いながら行います。

ですから女性も自分の親の介護ができ、今のような育児疲れ、介護疲れが引き起こす悲劇も起こりにくいのです。深刻な病気や障害のある子供を持つ親も、一族が世話をしてくれるので、自分達の死後の心配を余りしなくともすみます。また通い婚的な母系社会では「嫁」は死語となり、人は皆、結婚しても親とともに生涯を過ごすので、やっかいな嫁ー姑の問題も起こり得ません。幼児のいる母親も一族のきめこまかい配慮に守られて働くこともできます。


またいつまでも解決しない女性問題ですが、多くの母系社会では女性が財産の継承権を持ち、さらに女家長制の社会もあるので、女性よりも男性の方が問題なようです。それで男性の尊厳を傷つけないように様々な工夫、配慮がなされています。また母系社会の政治的決定権を男性が握っている場合でも、女性の発言権はかなり強いようです。女性問題の解決には、母系社会と母系家族という社会システムの確立が決定的に重要なのです。なぜならば父系社会という現在の社会の基盤的枠組みそのものが、女性問題の発生源だからです。


人類は狩猟採取から農業、工業へと経済を複雑−高度化し、市場経済を発展させてきました。この歴史の過程は、農村から都市へ人口移動させ、多くの母系大家族社会を父系大家族社会に、そしてさらに父系核家族社会へと変えました。近代から現代にかけて世界の「先進国」で、急速に増大したこの最後の父系核家族は、職を求めて身軽に移動できる家族形態であるため、高度な分業労働を可能にして経済を飛躍的に発展させました。

しかし、一方では父系や母系の大家族社会が崩壊して父系核家族社会となり、地域社会が崩壊して人々の互助的な関係が失われてしまいました。親達は競争的市場経済に翻弄されて余裕を失い、十分な養育や介護を受けられない子供や老人も出現して、幼児期に十分な養護を受けられず心を痛めつけらた人や、孤独死する老人がめずらしくない社会となってしまいました。


現在、急速に世界全体が競争的市場経済化されていますが、この競争的市場経済に適応して生きてゆくために、多くの社会が父系や母系の大家族制社会から核家族制社会へと移行しています。ですから、この「先進国」特有の核家族の「病」も公害の場合と同じように、やがては全世界に蔓延するでしょう。

ACは、親がACだと子供もACになりがちであるため一種の「伝染性」がありますので、ACの問題は世界中で、世代を超えて広がる深刻な問題となるかもしれません。今のような競争的市場経済とその家族形態としての父系的核家族制は、人間と社会を破壊し続ける制度ではないでしょうか。

           子供を犠牲にする現在の父系社会

激しい経済競争を強いる現代は、経済的効率がなによりも優先し、労働生産性の向上が全ての企業、国家に求められます。経済競争は商品の技術的性能の競争だけでなく、価格競争に勝つためにいかに安いコストで商品をつくるかという労働生産性の競争でもあるからです。ですから、生産技術の革新だけでなく低い賃金の労働力を増し、全体として労賃の増加を押さえなければなりません。

それで、不況になると夫の給料が削減され、できるだけ多くの主婦が家庭外で働かざるを得ないようになります。相対的に安い賃金が設定されている女性が就労し、労働人口も増えれば労働生産性が向上して経済が回復しますが、競争相手もより多くの女性を就労させたり、生産技術の向上で労働生産性をより向上させるので、また再び不況になり夫の給与は削減され、共働きをより多くの家庭でせざるを得ないようになります。

このように競争的市場経済では、女性、主婦の就労−労働力化が誘導されて、益々育児などの家事労働は最小限になるよう強いられます。今のような激しい経済競争を続ける限り、世界中の国が労働生産性の向上を強いられるので、現在の日本のように多くの家庭の専業主婦が、パートなどで働かざるを得なくなります。


西欧や日本などの「先進国」は、技術革新だけでなく、いち早く女性の労働力化を実行し、労働人口を増加させて労働生産性を向上させたので「先進国」になれたのです。確かにこの過程で「先進国」では父系社会の枠組みの範囲内であれ、女性の地位は向上しましたが、核家族化も進んでしまいました。

こうして年々多くの幼児がいる家族でも共働きをせざるを得ず、その結果益々多くの幼児が保育園に入れられ、さらに学校から帰っても家に誰もいないなど、児童の世話を十分に出来ない家庭が増えます。日本で本格的に保育園での育児が始まったのは戦後であり、保育についての経験はわずかです。また、胎児期や幼児期の心の発達の問題はまだ不明な点が多いのですから、政府はこの期間の幼児の扱いは慎重にし、保育所の建設より育児のための補助金をより増額し、共働きしなくてもすむようにすべきではないでしょうか。

長い間保育園の増設に消極的だった政府は最近、保育園を大増設すると発表しました。激しい国際的経済競争を勝ち抜く為には結局、育児のための補助金を増額するよりは保育園を造り主婦を労働力化した方が安上がりで、国際競争上、有利だと気付いたのでしょう。少子化による労働力不足もあり、今後益々政府は主婦の労働力化を国家的課題として強力に推進するでしょう。


ですから子供達の養育環境は益々劣悪となり、さらに多くの犠牲を強いられる事になるでしょう。テレビや新聞などで競争をあおる評論家達は、直接、あるいは親を通じて子供達にも教育の場での競争を強要し、少しでも手抜き息抜きをしたら生き残れないと脅迫−洗能して、暗く重苦しい人生観を植えつけています。子供達は、早くから受験競争を強いられ、様々のストレスのせいなのか、子供の自殺まで起こるようになりました。子供が自殺する社会が日本あるいは世界で、過去にあったでしょうか。

この核家族の家族関係のゆがみや離婚による家族の崩壊や共働き、その他の理由による家族機能の低下が子供に与える打撃は、場合により医師のサポ―トが必要になるほど深刻です。子供が人間としての自信や尊厳を傷つけられ、ウツ病などにより命すら奪いかねない苦悩を抱え込む場合もあります。この子供の自殺現象や逆に子供の殺人は、現代の病んだ社会を映しだす鏡です。激烈な競争社会で有名なアメリカでは子供の「うつ病患者」まで最近はいるそうです。日本にも既に子供の「うつ病患者」がいて、認知されていないだけかもしれません。


人間の自己認識は、他人が自分をどう認識しているかで判断されます。DNA検査などしなくても、自分の親子関係を疑わないのは、ただ単にその親が自分を子供として扱うからです。もし小泉首相が首相に選出された後、周囲の人が彼を今までどうりの国会議員としてしか扱わず、何を言っても無視すれば、やがて本人でさえ自分が首相だとは思わなくなるでしょう。

人は、自分がかけがえのない存在として扱われることで、はじめて自分の命を大切だと思うようになり、同時に他の親子関係も自分達の親子関係と同じと推測することで他人の命も大切だと思うようになります。これが逆であれば、場合によっては、自分の命はもちろん、他人の命も大切なものとは思えなくなるでしょう。人は自分が扱われたように、他人を扱うので、手段、道具として扱われたと思えば、当然他人を手段、道具として扱うようになるでしょう。

この自他の命を軽視し、人を物のように、手段や道具のように見なす「傾向」は、結局資本主義的な市場経済という世界が、私達のこの社会そのものが人を商品、モノとして見なしているので、やがて確信となります。一旦この世界に入ってしまうと誰でも、人さえ商品、モノとして実際に機能しているので、人を商品、モノと見なすのが当然だからです。ですから、この冷酷な社会によりこの「傾向」は増幅され、様々な合法、非合法な「犯罪」を、恐怖を生み出しています。


独自の発展過程から先行的にこの父系核家族制に移行し、女性の労働力化をいち早く達成して「先進国」入りした日本は、今や不可解な事件の多発で、人々は恐怖と不安を募らせています。地球環境を破壊してしまいかねないほど経済は高度な発展を成し遂げたので、資本主義的な市場経済は、その基盤的な家族制度である父系核家族制とともに、「先進国」では既にその役割を終えたのです。「先進国」社会では、既に3割近い離婚率やシングル族の増大で、核家族制度は崩壊し始めています。ですから私達の母系社会論は、この崩壊し、消滅してゆく父系核家族制度の受け皿を提案しているとも言えるのではないでしょうか。

          女性問題を生み出す父系社会   

現在の日本や西欧の父系社会諸国は男女平等を理念として掲げ、いつかは実現出来るかのようなふりをしていますが、そもそもその社会の基盤が父系社会なので不可能です。どんな法律をつくろうが、例えば企業内では、女性は出産を断念しない限り、同期の男性と比べ不利となるのは明白です。多くの女性はいつかは、子供を産むかあきらめるか、いずれにせよ後悔の残りそうな選択を迫られます。子供を産んで、仕事も続けようとしたら、子供を幼児から保育園にでも預けなければならなくなるので、子供に悪い影響がでないか心配したり、子供の面倒を十分にみられなかったと後悔し続けなければなりません。

女性は出産という社会の存続にとって決定的に重要な役割を果たすのですから、社会としても特別な配慮が必要です。母系社会では家や田畑、土地などの財産は女性が基本的には相続するので、子育てに必要な経済的条件はパートナーの男性との関係がどうなろうとも確保できる環境になっています。これは人類の大きな知恵です。

財産の女性相続制度のような女性に「有利」な制度が有ることで、初めて男女平等になるのです。男性もこれにより、よりよい環境下で大切な子供の時代を過ごせるのですから、男性が一方的に不利というわけではなく、子供を保護するためには母親を保護するしかないのです。親の離婚や父親の死亡により経済的に厳しい少年時代を母子家庭で経験した男性であれば、このような財産相続制で自分の母親が守られていたらと思うのではないでしょうか。


父系社会や結婚制度、父系核家族などの制度・習慣は私達には、余りに当たり前の事なので、誰も疑いません。しかしよく考えてみれば、夫を主人などと呼んで誰も怪しまない社会は、まさに一つの立派なカルト社会でり、私達はすでに父系社会の思想により「洗脳」されているのです。

父系社会というこの世界の大きな枠組みを変える政治理念を持つ政治家は現在一人もいません。ですから、議員が全て女性議員になり、首相は女性に限られようが、女性問題は解決しません。むしろ、その方が父系社会の維持には都合がよいとさえ言えるのです。というのは女性が政治をしたほうが、男性優位の社会の本質を隠蔽しやすいからです。まさに、これは夷は夷をもって制すという古来からの統治手法です。

日本の父系核家族は年間100人以上の妻を夫の家庭内暴力で殺しています。父系核家族というこの社会の基盤的な制度そのものを変えようとしていない現在の民主主義は、女性を差別し、全てではないが無視できない程の多くの子供から、あたたかい家庭を奪う体制です。ですからどのような理想社会でも、父系社会を前提に構想されている限り、同様の限界があると言わざるを得ません。


現在のキリスト教、イスラム教、儒教などの世界的宗教は、ほとんどが同時期に出現しています。これらの世界宗教は、多くの母系社会が破壊され父系社会に変えられていくなかで、新しい父系家族を維持する為の新しい生活道徳が必要となり、生み出された父系社会的宗教ではないでしょうか。仏教以外の世界宗教はどれも、女性に対して厳しい性道徳を唱導しています。

これらの世界宗教よりも古い宗教は女性に対して特別に厳しいわけでもなく、日本でも沖縄などに残る古い宗教は女性が主体で運営され、特に女性に対して厳しい性道徳を唱導してはいません。 現在の世界宗教が父系社会を維持するために機能していることは明白だと思います。しかし、宗教は日々数十億もの人々の生活を支え、人類の生存にとって大変重要な役割を果たしていますので、宗教は基本的に尊重しなければなりませんが、母系社会建設の障害とならないように対話してゆかなければならないでしょう。

               当面の検討テーマ

私達SMSの当面の研究テーマは、<私達が目指すべき理想的社会は本当に母系社会なのか>という根本的な問題です。

というのは、家族や子供の問題の解決策は地域社会の再建とか、仕事より家族を大切にする価値観の普及、両親の子育て方法の問題などとして考えるのが現在の常識で、母系社会の再建などと考える人は誰もいません。また母系社会が理想だとしても、余りに非現実的、空想的という感想を誰もが持たざるを得ないからです。そこでまず、この根本的な問題から徹底的に討論したいと思います。

母系社会が非現実と思う理由は、現在の核家族制度を誰もが当たり前の事と考えていて、疑う人などほとんどいないからです。むしろこの制度は、日本では第2次世界大戦で大きな犠牲を出して、ようやく獲得した男女平等の民主的なすばらしい家族制度と思われています。こうした核家族への好意的な見方は戦前の専制的な家父長制家族と比較して評価するからです。とにかく誰もが当然で常識と思っている制度を、それも家族制度という私達の生活の根本的、基盤的制度を変えようとしているので、多くの方は非現実的と思わざるを得ないでしょう。

私達はさらに、現在の「一人父親制」とでも呼ぶべき父親のあり方を、「実父とオジの二人父親制」に変えようと考えています。「二人父親制」になれば、親の離婚による子供への打撃を少しでも和らげ、日常の子供の世話役を増やす事で子供が、より多くの家庭的サービスを受けられるようになります。

また、二人より三人の親からの様々な価値観、知識を学べれば、よりバランスがとれた子供の価値観の形成に役立つのではとも思います。しかし確かに母親に比べ父親という存在は、少しあいまいなところがあるにせよ、やはりすでに現在の父親制もその存在、役割ともに定着しており、変えるのはとても無理だとほとんど大部分の方が思うでしょう。

私達はもちろん、すぐにこの「実父とオジの二人父親制」に移行するのは不可能と思っています。ですから徐々にいくつかの段階を、長い期間をかけてこのような家族制度に移行してゆくしかないと考えています。

しかしやはり正直に言えば、私達自身も非現実的ではという疑問を、100パーセント解消しきれません。それは私達が現在、余りに少数グループである事が原因だと思います。もし私達の「母系社会」主義に賛同、または関心を示して頂ける方が多ければ多いほど、こうした孤立感から発生する問題は解消するのではと思います。

私達はだだ、この母系社会というビジョン以外に現在の様々な問題を根本から解決しうる社会がどうしても考えつかないのです。地域社会の再建や仕事より家族を大切にする価値観の普及、両親の子育て方法の改善ではこの問題の根本的解決策にはなりません。競争的市場経済下では、誰もが失業の恐怖からある程度は仕事人間にならざるを得ず、家庭や地域社会の問題は二の次三の次となってしまい、不可能です。

そこでまずこの根本問題の検討から始めたいと思います。私達は、数多くの方が議論に参加して頂き、このビジョンが確信がもてるビジョンに変わることを願っています。とにかく、過去100年から200年ぐらいの間に日本と世界は大きく変わりました。この変化を考えると、この先の100年、200年に世界が今では想像もつかないほど変わるかもしれないという期待が、今の私達の支えです。

具体的な討論の方法としてはまず掲示板の活用ですが、このテーマを中心にしつつも、その他の感想等でもかまいませんので気楽に書き込んで下さい。母系社会だけに限らず、広く社会や家族についての話題であれば、どのようなご感想、ご意見でも大歓迎です。また、私達の考え方に賛同できなくとも、旅行でどこかの母系社会に行かれた方など、何か母系社会についてご存知の方は是非、情報の提供をお願いします。

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