ONE,TWO AND MORE JAPANESE MATRIARCHY! |
|
|
||||||||
|
||||||||
|
|
|||
Report of Idealistic Scheme of Association |
13号 「母系社会の可能性」 {04年3月} |
私達は、アダルト・チルドレン(注1、以下AC)の根本的な解決策を考える過程で、父系社会(注2)の対極としての母系社会(注3)に注目するようになりました。そして母系社会がACの問題だけでなく、現代社会が抱える他の多くの問題の解決策になることに気づきました。私達は子供までが自殺する現在の日本社会を根底から造りかえるために理想的な現代的母系社会の構想づくりを広く呼びかける思考実験サイトです。 <核家族的人間観と福祉社会の批判> 私達は、仕事を求めて各地に移住することが容易な、現在の父系社会的な核家族は、市場経済がつくりだし資本主義が完成させた家族形態だと考えています。現在、核家族をめぐる事件が多発していますが、核家族そのものを疑う人などほとんどいません。むしろこの制度は、日本では第二次世界大戦という大惨禍を経てようやく獲得したすばらしい家族制度と思われています。 ところが、こうした核家族への好意的な評価は戦前の「封建的」な家父長制家族と比較した評価でしかありません。私達は、長い間、戦前の日本社会を嫌悪し、欧米の「民主的で自由」な父系社会的核家族を理想と崇めてきました。私達は大人の男女の自由や自立のあり方を主な課題にし、極めて核家族的な人間観、核家族的個人主義の倫理観を信奉してきました。ですから、「老後も子供の世話にならない」などといって自ら老人ホ−ムに入るような人生を理想としたり、どこにも存在しない「本当の自分」さがしをしてきたために、社会的弱者である子供と老人を忘れていたのです。 しかし、すこし落ち着いて考えてみれば直ぐにわかるように、私達は独身時代でさえ個人としては生きてはいません。常に現在と未来の家族の一員として、家族として生きてきたのです。私達は意識の中でしか個人としては存在できません。ほとんどの人々は幼児や老人、病人なども含めて世話を必要とする人、家族が身近にいるから生きる意味を見出せるとさえ言えるのです。 母系であれ父系であれ、大家族自体を自由を奪うものとして疎ましく思う人々も多いでしょう。しかし、この私達の大家族観は、親の世代と子供の世代の価値観が大きく異なる現代社会という特殊な時代の産物なのです。これまでのほとんどの人類史は、長い狩猟採取時代はもちろん、農業を始めた以降の社会でさえ、ゆっくりと変化は進行したのです。 激しく社会が変わり、親子の価値観も違ったりした時代があったにせよ、ほとんどの時代は、親の世代と子供の世代とが、全く同じではないにしても、ほとんど同じ価値観で生きてきたのです。ですから、現代のように時として親子間に「激しい」摩擦が生じるのは稀な時代なのです。親と子の世代間に大きな価値観の違いがなければ、家族が助け合って生きてゆける大家族制が、今日のように多くの人々から疎ましく思わられるようなことはないはずです。 市場経済やそれが生み出した父系社会的な核家族、地域社会の崩壊は、毎日のように起きている子供の虐待問題や子供の「非行」や「犯罪」のような事件の主要な原因、背景と言えるでしょう。政府や自治体は、こうした家族をめぐる諸問題に対して不十分であれ、保育施設や老人介護制度の整備、地域社会の再建などの福祉社会政策で対応しようとしてきました。しかし父系社会的な福祉社会では、場合によっては、親の介護を他人にさせたり、子供の世話を他人にさせたりする費用を稼ぐために、他人の親や他人の子供の世話するという根本的な矛盾が生じます。 人間にとって家族からのサ―ビスに勝るものはなく、誰が老人介護をしようと社会としては同じ「負担」です。公的な機関の援助を受けつつも、基本的には家族自身が主に介護や養育ができる母系社会では、家族単位の労働により老人でも、あるいは幼児のいる母親でも希望すれば、家族のきめこまかい配慮に守られて働けますので、母系社会は私達の福祉社会よりもはるかに優れた福祉社会なのです。 また、単なる福祉社会化だけでなく、企業に対して夫にも産休制度を利用しやすくさせて、妻と夫が平等に子供の養育できるように提唱したり、仕事より家族を大切にする価値観の普及や子育て方法の様々な改善策などを提唱する専門家もいます。 しかし、このような対策だけでは、この問題の根本的解決策にはなりません。競争的市場経済では、常に日本が経済競争に勝ち続けられるとは限りません。日本のような父系社会では、競争に負けた場合は、倒産するよりは良いとして、このような男性社員の産休制度などは真っ先に廃止されるでしょう。またこの競争的な市場経済社会では、誰もが生活の基盤を失う失業の恐怖から、ある程度は仕事人間にならざるを得ず、家庭や地域社会の問題は二の次、三の次となってしまうのです。 <子供の養育とAC> 資本主義では、経済的効率がなによりも優先し、技術だけでなく、コストの削減-労働生産性の向上が全ての企業に求められます。そして全世界的な競争的市場経済化の進行は、日本にも労働生産性の向上を、より一層厳しく求めるようになりました。ですから、日本も今後、何度も繰り返される不況を理由にした賃下げにより、 労働力を増やして労働生産性を上げるために主婦の就労−労働力化がより強力に誘導されるでしょう。 もちろん、家事労働は妻だけでなく、夫も平等に担うべきであり、夫が「主夫」として主に育児などの家事を担当してもよいのですが、どのように家事労働を分担するにせよ、現在のような厳しい経済競争を続ける限り、多くの人々は育児などの家事労働は、必要最小限しか出来なくなるでしょう。政府は、少子化による労働力不足もあり、今後益々保育園の増設や保育所の規制緩和などにより、主婦の労働力化を国家的課題として強力に推進し、子供の養育環境をより劣悪にしようとしています。 現時点では、胎児から乳幼児期の心の発達はまだよく解明されていないのですが、吉本隆明によれば、胎児期も含めて、一歳未満までの乳幼児期は、幼児にとって、ニ層に分かれる無意識層(記憶)の内、最根底の特別に重要な無意識層を形成する大切な時期なのだそうです。母親の精神状態までが胎児の無意識に刷り込まれ、この無意識層の形成のされ方が、その後の様々な心の病の発症に関わるそうです。 また、その後の幼児期に、二つ目の無意識層が形成され、これらの二つの無意識の層に蓄積された様々な記憶は、その後の人生に強い影響を及ぼし、これらの胎児−乳幼児期は人生の中でも特別に重要な時期だそうです。要するに、昔から良く言われてきた「三つ子の魂、百までも」の諺は正しいと言うのです。 もちろん、現時点ではこの吉本説が正しいとは断言できませんし、吉本も保育所で育てられた子供は、病気になるなどと単純な主張をしているわけではありません。しかし、この時期の幼児の意識の問題は、まだ十分には解明されていないのも確かですから、一歳未満のゼロ歳児の保育所での養育が、何の問題もないとも誰にも言えないのです。少しでも危険な可能性があるのですから、社会としてはその危険を極力回避すべきでしょう。 しかし、現在でも約60万人の乳幼児が保育所に預けられ、そのうちゼロ歳児が何人いるのか、統計さえありませんし、政府は保育所を増設しようとしています。このままではやがて、ゼロ歳児保育が当たり前と見なされ、裕福な家庭の乳幼児以外は皆、ゼロ歳児保育が実施されるようになるかもしれません。その場合、保育施設が無数につくられるので、「劣悪な」保育所を完全には排除し得ないでしょう。政府としては保育所の増設の方が安上がりなのでしょうが、保育所を増設するよりも、乳幼児のいる家庭への直接の援助金を増やし、ゼロ歳児保育をなくすべきです。 競争を万能の特効薬であるかのように唱える風潮は、子供達に一生競争は続き、少しでも息抜きをしたら生き残れないという人生観を植え付け、ストレスのせいか子供まで自殺するようになりました。子供が自殺する社会が過去にあったでしょうか。この子供の自殺現象や逆に子供の殺人は、現代の病んだ父系的核家族社会を映しだす鏡です。 現在の日本のような競争的市場経済社会では、多くの親が競争社会で子供が生き残れるようにと、幼児期から子供に教育競争を強いるのも無理はありませんが、激烈な競争社会で有名なアメリカでは、子供の「うつ病患者」までいるそうですので、日本にも既に子供の「うつ病患者」がいるかもしれません。 既に「先進国」の父系社会的核家族は、3割近い離婚率やシングル族の増大により崩壊し始めていますが、その過程で多数の子供達の心に深刻な「トラウマ」を刻み込みかねない家族形態です。ACのある有力な専門医師は、にわかには信じがたいのですが現在のアメリカと日本の家庭のなんと80%は、子供をACにしかねない「機能不全家庭」と推測しています。 ACは、この核家族崩壊の象徴的な現象であり、資本主義の拡大とともに世界中に蔓延してゆく深刻な問題です。私達は、資本主義の問題として今まで注目されてきた資本と労働の諸問題や環境問題などよりも、家族が愛憎の対象となるACの「実存的苦悩」の方がはるかに深刻な事態ではないかと判断しています。資本と労働の諸問題や環境問題なども深刻な問題ですが、「機能不全家族」の問題も、場合により「心の病」まで発症させる大変深刻な問題なのです。 <女性問題と母系社会> 現在は、女性に対して子供を保育所に預けて働くように仕向けている日本の父系社会は、長い間、男女の差別的な賃金制度などにより、仕事を継続したい女性も、やむなく退職して専業主婦化するように誘導して父系社会を維持しようとしてきました。 母系社会では、家族単位の労働により幼児のいる母親でも希望すれば、一族のきめこまかい配慮に守られて働けるるので、多くの女性が育児と仕事を両立させられる唯一の社会なのです。様々な女性問題は、父系社会という現在の社会の基盤的枠組みそのものが、この問題の発生源なので、母系社会の確立なくして根本的解決は不可能です。女性の首相や天皇が生まれようが、父系社会の矛盾を覆い隠すだけになりかねません。母親は子供にとって重要な役割を果たすのですから、財産の女性相続制度で安定した環境を保障されるべきです。男性もこれにより、よりよい環境下で大切な子供時代を過ごせるので、一方的に不利というわけではなく、母親の保護は子供の保護となるのです。 母系社会では「嫁」は死語となり、結婚しても実の親とともに生涯を過ごすので、やっかいな嫁ー姑の問題も起こり得ません。日本の多くの女性は、自分の親の介護ができませんし、介護老人のいる多くの家庭が、主婦の超人的な努力でかろうじて支えられています。母系社会では育児も介護も一族が助け合いながら行なえます。女性も自分の親の介護ができ、育児や介護疲れが引き起こす悲劇も起こりにくく、これからの高齢化社会にも最適です。 <私達の現代的母系社会の素描> 私達の構想には、母親が子育ての主たる担い手となるのを望むという前提があります。私達は母系社会は母親の子育てを守る社会と考えていますので、子育てを母親が主体となって行なう事を望まないのであれば、母系社会の根拠はなくなります。 また、私達の現代的母系社会の構想は、常に暫定的な構想でり、さらに市場経済を廃止した母系社会にまで進めるかどうかは現時点では不明ですが、いずれにしても人類はより良い社会を求めて様々な試みを続けるでしょう。ですから、場合によっては「母系社会」主義という理念そのものも、放棄しなければなりません。理念より現実の人間の方がはるかに大切だからです。 母系大家族の協力を得ながら、子育てを母親が主体となって行なうためには、母系大家族は集合して居住し、そこから通える範囲に一族の経営する自営企業がなければなりません。こうした企業や土地、住居などの財産は、主に一族の女性から女性に相続され、子育てを主体として担う女性の経済的な基盤が維持されてゆきます。ですから母系社会は、主としてこの母系大家族の男女のメンバ−により運営される中小の母系家族「企業」が中心となる社会です。 この社会では、多くの人々は結婚した場合、当面は二人だけで生活するにしても子供が生まれたら、妻は自己の一族が集合して居住する家に戻り、一族の支援を得て子供を育成します。夫も生活基盤を元の自己が所属する一族の集合住宅に戻して昼間は自己の一族が経営する母系家族「企業」やその他で働き、夜間は妻の住む家に通います。 男性は自分自身の子供だけでなく、姉妹の子供の親としても何らかの父親的な役割を担います。ですから、子供は実の両親が離婚しても父親的なオジがいるので、子供にとっての家庭環境は私達の社会より安定的です。また深刻な病気や障害のある子供を持つ親も、一族が世話をしてくれるので、自分達の死後の心配をしなくとも済みます。 もちろん、母系社会には自動車や船舶などを生産する「大企業」も必要なので、自動車などは雇用労働を最小限化するために、大規模な協同組合型「企業」が生産すれば良いでしょう。ですから、母系大家族のメンバ−は、男女ともに一族が経営する「企業」で働くこともできるし、こうした協同組合型「企業」で働くこともできます。あるいは医者などの個人経営体も必要ですので、こうした職業を選択した人は、場合によってはやむなく一族が住む故郷を離れて、現在のような核家族を形成する人もいるでしょう。 家族単位の労働が主となる母系社会は、人々が仕事を求めて各地を素早く移動するのが困難な社会なので、今より低い経済効率となり、激しい経済競争には耐えられません。ですから、村岡氏の<協議経済システム>などによる市場経済の克服が可能になるまでは、経済的合理性を維持する為に市場経済を採用しつつも、極力「ゆるやかな競争」を実現するために、市場経済に厳しい制限を加えて使わざるを得ないでしょう。 この制限は、母系社会の連帯性を維持し共生的母系社会を構築する為にも必要です。その為には、様々な国家間の経済活動を調整する国際的な協議会を設立して経済活動を制御し、出来るだけ競争が緩和された市場経済にしてゆく必要があります。 現時点での私達のおおよその構想はこのようなものですが、現存する母系社会には、結婚制度だけでも様々なタイプがあります。ですから、地域により様々な種類の母系社会が形成されれば、これにより人々は多くの経験を共有できるので母系社会の発展のためによいと思います。 いずれにしても家族の問題は、政治的に多数決で決めて強制してはなりませんし、そもそも不可能です。あくまでも一人一人が自らこの家族形態を選択するしかありませんで、様々な広報活動により実現を目指すべきです。 <終わりに> 少子化の問題は、人類の父系社会と資本主義への無意識的な「生物学的スト」であり、父系社会の成立以来、数千年、あるいは数万年の時を経て、ついに始まった人類史的な父系社会への「反撃」なのかもしれません。現在、日本の人口は数十年後に8000万人ぐらいまで減少し、安定化すると予測されていますが、今までの様々な未来予測はことごとく外れましたので、この予測もどうなるかわかりません。ですから、この少子化は、必要な「労働力の再生産」が十分に出来なくなる父系社会、あるいは資本主義の自壊、自滅現象かもしれません。 私達は、母系社会という途方もないビジョン以外に現在の様々な問題を根本から解決しうる社会がどうしても考えつきません。とにかく、過去200年間に世界は大きく変わりましたので、200年後の世界も、想像もつかないほど変わるかもしれないという期待が私達の支えです。今までの社会主義の構想は、無意識的にであれ父系社会な核家族を前提にして構想されてきたのではないでしょうか。母系社会の人々が社会主義的な視点から、理想社会を構想したらどのような社会を構想するのでしょうか。 誰が何と言っても人類の理想社会は、社会主義的な視点からしか形成しえないのは間違いありませんので、社会主義の歴史に学びながら、本当に母系社会が理想的な社会になりうるのかという根本的な問題も含めて検討するために数多くの方が議論に参加して頂ける事を、心より希望します。 (注1)親が様々な依存症や嗜癖などの問題を持ち子供に虐待を行なうと、子供は共通する心理的な傾向を持つようになります。ACとは、このような心理的な傾向を持ち、心に大きな苦しみを抱える人の意味で、病名ではありません。虐待の原因が親でなく自分にあると思い込んでしまう場合が多いためか、ACの心理的傾向としては、確信が持てない、情け容赦なく自分を批判する、楽しめない、親密な関係の構築が困難、他人からの肯定や受け入れを常に求め、衝動的などがあると言われています。ACの一部は、不眠症、パニック発作、解離性障害、身体化障害、抑うつ・無気力と自己嫌悪、自傷行為と自殺未遂、対人恐怖症などの病状を抱え、自己治療としてのアルコール・薬物・ギャンブル・摂食障害・恋愛嗜癖などの嗜癖問題を持つ場合もあるようです。 (注2)社会学では、日本は双系社会と分類されてますが、このサイトでは、日本や 欧米の社会も含めて主に父親の系統を軸に家族が形成される社会を父系社会、主に母親の系統を軸に家族が形成される社会を母系社会とします。また、父系社会を二分し、韓国などのように主に父親の系統を軸に家族が形成され、父親の血統を何代か前までさかのぼって共通の祖先を持つ一族が、共通の祖先の祭祀を共同で行い、日常的にも助け合う機能をもつグループを創り、主に財産の継承を男性だけに限定する父系的父系社会と日本のように主に父親の系統を軸に家族が形成され、特別の祭祀を共同で行うグループはつくらないが、事実上、財産の継承を男性に限定しつつも、男性がいない場合は、女性にも財産の相続を認める社会を父系的双系社会とします。 (注3)母系社会は、現在でも全世界に存在し、人口では圧倒的に少数派ですが、世界の民族(集団)を563に分類する方法では、約15%の84集団が母系社会です。母系社会には様々なタイプがありますが、共通性は母親の系統の血縁者を中心に形成される大家族からなる社会で、母親の兄弟(オジ)も父親的な役割を果たし、財産は主に女性相続されることで、女性が家長となる母系社会もあります。ただし、財産の経営はその一族の男性に任され、村長などの地位は男性が多いようですが、村長自身の息子には継げず、村長の姉妹の息子に継承されます。結婚後の居住方法で分類すると、訪妻婚(通い婚)、妻方居住婚(婿入り婚)、夫方(夫の母親の実家)居住婚の3タイプがあります。母親は経済的に夫からほとんど完全に独立し、生涯を「夫」ではなく兄弟姉妹達と助け合いながら生きてゆきます。おそらく日本は、「先進国」のなかでは最後に父系社会化し、つい最近まで母系社会的な価値観が色濃く残存していた社会です。 |
12号 「非武装主義こそが最高の安全保障政策」 {04年2月} |
朝鮮半島の軍事的緊張を理由として、様々な安全保障関係の新法や憲法9条を変えようとする策動が激しくなっています。しかし、憲法9条は母系社会が成立するためには、必要不可欠な憲法条項です。理想的な母系社会は、世界的な安全保障体制が確立され、戦争や内戦が消滅した平和な世界でしか存続できません。ですから私達は、世界的な安全保障体制のビジョンも構想しなければならないのですが、とりあえずこうした平和な世界の構築の為に、日本あるいは「母系社会」主義国家日本が採用すべき憲法9条を軸とした安全保障政策について、再度考えたいと思います。 世界的安全保障体制の構築のためには、なんらかの世界的な安全保障条約なり、世界的な「人類共同体」の構築に向けた努力が必要ですが、同時平行的に世界的な軍縮の推進も必要です。この世界的な軍縮の推進の為に、日本は他国に脅威を与えない非脅威国となることを安全保障政策の理念とし、一方的な軍縮政策の実行により他国に対して軍縮を促してゆかなければなりません。現在の日本国憲法9条の「他国に脅威を与えない」という理念は、未来の母系社会の安全保障政策の理念でもあるのです。 この「他国に脅威を与えない」という政策の第一の目的は、他国の国民に対するその国の政府の戦争扇動をしにくくするためです。 戦争には、必ず「大義名分」が必要です。「大義名分」のない戦争は、いかなる独裁国家でさえ不可能です。まして民主主義を標榜する国家ならば、相手国の地下資源の奪取が本当の狙いの場合でも、それを隠して別の、国民が同意してくれそうな理由、「大義名分」を提示して自国民の同意を得ようとします。しかし、軍縮中の国家や事実上非武装となった国家に対して、軍事侵攻をしようとしても、自国民の支持が得られる「大義名分」は見つからないでしょう。 また、そもそも日本には全国にちらばる52基もの原子力発電所があるため、現在の日本は正規戦(正規軍どうしの戦争)による「自衛戦争」「防衛戦争」すら、リスクが大きすぎて実行不可能な特殊な国です。もし日本を占領しえるほどの膨大な軍事力を日本へ投入する能力のある国が、日本に軍事的侵攻をすると宣言したら、政府は最終的には抵抗はせず、亡命政府となるか地下にもぐり一旦は軍事的な占領をさせるしかないのです。そして占領軍に対して、もし軍事的に抵抗するしか占領をやめさせる方法がなければ、正規軍ではなく、現在のイラクのようなゲリラ戦で占領軍に抵抗する方法が最も人的にも物的にも被害が少ない抵抗手段となるでしょう。ですから、日本が念のためにしばらくある程度の「戦力」を備えるとしても、他国の脅威となる現在の自衛隊のような重武装の軍ではなく、他国の脅威とならないゲリラ戦が可能な程度の軽武装の部隊や警察軍、民兵組織で十分なのです。 正規軍どうしの本格的な戦争で日本の各地にある52基もの原子力発電所のうちの一つでも破壊されたら、最悪の場合数百万人の死者と1000万人単位の日本人が難民となる可能性があります。チェルノブイリの原発事故では、1平方Km当り15キュ−リ−以上の汚染を基準にして強制移住が実施され、日本の大阪府と京都府、福井県の面積に相当する地域がほとんど無人の荒野となり、本州の60%に相当する地域が1平方Km当り1キュ−リ−以上も汚染されたそうです。これでは防衛戦争に勝ったとしても、日本は海上国家となり、多くの日本人が船上で暮らすしかありません。ですから、原発は事故でも、核爆弾となりかねないので一日も早く廃棄しなければなりません。 原子力発電所は、たとえどんなに高性能な100発100中のミサイルで防御していても、その防御用のミサイルの数を上回る大量のミサイルや砲弾を同時に着弾させる「飽和攻撃」をされたら攻撃を防ぎようがなく最悪の場合、核兵器で攻撃されたのと同じ結果となるのです。ですから、日本にとって自衛隊のような戦力を維持する事は、人々に正規戦による防衛戦争の誘惑を引き起こし、日本が文字どうり破滅する事態に直面させられかねないので非常に危険です。 ところで私達一般人は、もしどこかの国が警告や宣戦布告をせずにいきなり奇襲攻撃をかけてきたら、その国を卑怯だと非難しても奇襲攻撃を許した自衛隊を非難する人は少ないでしょう。ところが、軍人の常識は違います。宣戦布告の有無にかかわらず他国からの奇襲攻撃を防げなかった軍人は、いかなる理由があれ軍人としては失格という価値観があるのです。軍人達は24時間、常に他国から奇襲攻撃されないか他国の軍事行動を監視し、高度の緊張状態にあります。もちろん、どんな国にでもスキがあれば奇襲攻撃をかけようとしているのではありませんが、奇襲攻撃は、された方が軍人としては愚かと考えるのです。 アメリカは、現在の同盟関係がどうあれ、全てのアメリカの脅威となる軍事力を持つ国との戦争計画を策定しています。戦争計画の立案には相当な時間がかかるため、万が一の事を考慮してあらかじめ用意しているのです。ですから、アメリカはあのイギリスとの戦争計画さえ持ち、定期的に更新しています。もちろん対日戦の戦争計画も用意し、定期的に更新しているでしょう。日本に対しても、ICBMの正確な誘導に必要な日本各地の地磁気の変化や低空を飛ぶ巡航ミサイルの誘導に必要な地形や建物の変化を定期的に調べ、デ−タの更新をしているはずです。(最近はGPSも誘導に利用していますが)要するにどんなに友好的な関係が築かれていようが、自らの指揮下にない軍事力に対しては、奇襲攻撃をしてこないか常に警戒するのが軍人の常識なのです。 ですから、日本のように限定的であれ他国への軍事攻撃が可能なほど重武装した現在の国民国家どうしは、すべて常に「開戦前夜」状態にあるのです。このような状態では、やはり、戦争が起きる可能性を否定できません。83年の旧ソ連による大韓航空機のような撃墜事件は、このような武装国民国家の軍事的な緊張状態の実態を垣間見せたのだと思います。万が一あの旅客機に核兵器が搭載されていたらと、最悪のケ−スを想定してアメリカも含め世界中の軍人達は内心、旅客機であろうと撃墜をやむを得ないことと思ったはずです。 国土が狭い上に原子力発電所が50基以上もある日本の重武装軍である自衛隊は、政治的構想力や世界的な戦略的思考の欠如した軍事至上主義者の「おもちゃ」でしかなく、実戦に使用できないばかりか、むしろ周辺国に脅威を与え日本の安全保障上、マイナスに作用しています。彼らの「常識」に反して海洋という自然の防壁に囲まれた島国の日本の最高の安全保障政策は、自ら一方的な軍縮政策をとり、武装国民国家である事を止め非脅威国となることです。 軍縮を進める日本に対し万が一、軍事力で威嚇するようなことをすれば、日本は軍縮を中止し、再び軍事力による安全保障政策に戻るかもしれません。そうなったら、その威嚇した国も再び日本の軍事力に対抗するための軍事力を余分に維持しなければならなくなります。ですから、軍縮国家を軍事的に脅かしたり侵略したら、たとえ短期的にはプラスになっても、結局長期的にはその国の「国益」に反してしまうのです。 日本が大量に軍備を購入し続けることを期待し、日本の軍事力を自国の防衛にも利用しているアメリカ以外の周辺国は、日本の軍縮政策を必ず歓迎し、日本ができるだけ長く軍縮政策を維持するように配慮するでしょう。アメリカも最後は、非武装の日本が軍事的な脅威にならないことを評価して受け入れるしかありません。もし日本を軍事的に脅迫しようとする国がでてきたら、せっかく日本が軍縮政策を採用しているのだから日本の軍縮政策の妨害をするなと、日本が頼みもしないのに日本の安全保障に勝手に協力してくれる国もあるかもしれません。賢い政治家が周辺国にいれば、必ずそうするでしょう。 また、そのような軍縮国家を軍事的に威嚇する国は世界から非難を浴び、国際社会での信頼を失うでしょう。これは現代世界では大変なマイナスです。その国の産品の世界的な不買運動などで経済的にも大変不利益となるでしょう。ですから、秘密裏に日本は大量破壊兵器を開発しているなどと言いがかりをつけられぬよう、疑われそうな施設は全て公開しながら軍縮を進めれば、どこからも軍事的に威嚇されたり、侵略されない国になるのです。もちろん最終的には他国に脅威を与えるような軍事的防衛条約も廃棄し、周辺国の脅威となるアメリカの軍事基地も撤去しなければなりません。 軍縮を始めるタイミングや軍縮の「速度」、とりあえずの軍縮目標は、国際情勢の動きを検討して慎重に計画しなければなりません。日本周辺の「軍事的均衡」の急激な破壊は戦争を誘発しかねないので、この軍事的均衡の問題にも注意しながら、様々な条約の締結などで日本の安全保障環境を整えつつ、軍縮政策を実行すれば、最も効果的に他国からの軍事的威嚇や攻撃、侵攻を封殺しえるでしょう。軍縮は、毎年少しづつ行い、常に世界各国の政府や国民の評価、動向を分析し、同じペ−スで軍縮を続けるか、スロ−ダウンするか再検討しながら慎重にすすめるべきでしょう。他国との軍事的信頼醸成や軍事的な緊張緩和がどの程度達成できたか判断して、常に軍縮計画を修正するべきです。 そして、なによりも大切なのが軍縮により、削減される軍事費の一部を活用して、日本の非武装主義の理念を世界中に恒常的に宣伝することです。日本周辺の関係国だけでなく、全世界の人々に直接、広範囲かつ継続的にアピ−ルし、更に海外で活動し、日本への好感を増進させてくれる日本のNGOにも資金援助をすることです。NGOは、日本の安全保障にも大変貢献してくれるからです。日本は、軍縮政策を実行する時に、世界中の代表者とマスメディアの前で「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と憲法前文の理念を再度世界に宣言するなどのセレモにニ−もよいでしょう。その時には 日本は憲法9条の平和主義を国家理念とし、武装国民国家という現在の世界史段階、限界を突破して、いつかは結成されなければならない非武装の国民「国家」からなる未来の「世界人類共同体」の一員へと「志願」する世界初の国家となると宣言すべきだと思います。 このような宣言や様々なアピ−ルにより、世界中の国家に軍縮を呼びかけ、日本の理念が世界中の人々に知られれば、多くの人々が日本の軍縮主義、非武装主義を自らと自らの子孫達の未来の希望として強力に支持してくれるでしょう。世界中に日本を自らの未来の「祖国」とみなすような民間組織が創られ、軍縮を実行している日本を武力で脅すような政策を自国政府がとることに反対し、自国も日本と同じ政策を採用するよう働きかてくれるでしょう。とにかく、世界中の軍縮・平和運動と提携して日本が軍縮運動の最先頭の立場を維持することです。世界中の人々の支持と注目を集め続けるのが日本の最高の安全保障策となるのです。世界中の人々に日本の理念を理解してもらい、日本のような軍縮国家、非武装主義国家を軍事的に脅迫したり、攻撃するなどということは、人類の希望への攻撃だという「常識」を世界中に浸透させるのです。 世界中がますます暴力の連鎖、悪循環に陥り、戦争の危険性に脅かされている現在ほど、この宣言は人類の希望として世界中の人々から熱狂的な支持を得ることができるはずです。おそらく、他国が脅威とみなすような軍事力の放棄という「リスク」を犯しつつ、暴力の脅威からの人類の開放に貢献した人々として日本人は人類史、世界史的なレベルで、世界中で「永遠に」高く評価されるようになるでしょう。こうした評価は私達の子孫の幸福にも大いに寄与するでしょう。 この政策は世界中の多くの人々から支持され「軍縮国家」の国際的な評価、威信は飛躍的に向上し、あらゆる分野での発言力も増すはずです。このように世界中の人々の支持が得られれば、日本は軍縮をしても他国に対して政治的に非常に強い立場になります。というのは日本は「リスク」を犯して軍縮や非武装主義という人類が否定しようがない理想を、世界平和への究極的な貢献をしている国なので、道義的に他国に対して優位な立場に立ち、常に他国に軍縮を要求できるからです。 ですから「非武装主義国家」日本は、他国の政府からは非常に扱いづらい国になるでしょう。日本との外交交渉では軍事力を誇示して威嚇する方法がとれないので、自国のどのような軍事力も無力化されるだけでなく、軍事的脅かしをしたと日本に「誤解」されて世界中の非難を浴びないよう常に注意しなければならなくなるからです。 このように最終的な理念としての憲法の非武装主義やその理念の実践である一方的な軍縮政策の実施による武装国民国家からの離脱こそが、他国に軍事的に脅威を与えない最強の安全保障政策であり、同時に経済的にも他国に脅威を与えない政策も実施すれば完璧な日本の安全保障体制ができると思います。 |
11号 書評 「家族の起源」 山極寿一{著}{04年1月} 初期人類社会の父系社会説批判-3 |
4 日本の霊長類学への疑問 次ぎに4の「初期人類社会は、チンパンジ−だけでなく類人猿全体の特徴も継承しているはずなので、類人猿全体からの類推も可能」という問題を検討します。山極は、チンパンジ−と人類との進化史上の近縁さや、群れの主導権をめぐって、オスのチンパンジ−がグル−プを形成し、政治的駆け引きを行うことなどを「高度な社会性」の発現と捉えて、チンパンジ−社会から初期人類社会を類推できる根拠と評価しました。(注4) しかし、配偶関係が固定的でなく乱交的交尾をするチンパンジ−の社会では、山極が想定していた固定的な配偶関係の初期人類社会のイメ−ジとあまりにも違い過ぎ、どうしてもチンパンジ−社会からストレ−トに初期人類社会の説明ができないという問題がありました。そこで、なぜ「人類はこれらの類人猿の特性をモザイクのように保有しているか」と問い、その解答として考え出されたのが「潜在的能力」説です。この「能力」は、人類の祖先が類人猿の一員として全類人猿から継承した「能力」で、この「潜在的にもっていた能力を試行錯誤的に試し」たので、「人類が、すべての類人猿の特徴をモザイク的に保有し」たと主張します。 こうして、チンパンジ−以外の類人猿からの文化の継承も可能にして、山極はこのチンパンジ−の壁を突破したのです。しかし、山極はこの「潜在的能力」とはどういうモノなのか何も語りません。もし、これが本能のようなものであれば、DNAに社会編成の仕方まで書き込まれていることになりますので理解し難いのですが、この問題はまた後で触れる事にして、ここではこのような「潜在的能力」による進化をひとまず肯定してこの「潜在能力説」を検討します。 この「潜在的能力」説を検討すると、直ぐに重大な問題があることに気がつきます。それは、このような「潜在的能力」の存在を肯定するのであれば、人類の祖先は最初の類人猿テナガザルの時代の「潜在的能力」は保持していたが、その直前の真猿類のオナガザルの時代の「潜在的能力」は保持していなかったなどということはあり得ないということです。これは、人類の初期社会を父系社会としたい山極にとって余りにも都合がよすぎる解釈です。 というのは、オナガザルの祖先からテナガザルの祖先への進化が、魚から鳥へ移行した場合のように全く別の生物への進化で、更に急激に移行したのであれば、こうした断絶も考えられなくはないのかもしれませんが、魚から鳥への進化などありえませんし、同じ霊長類内部の進化です。また進化の「速度」の問題も、比較的急激に進化が進すすむ大進化でさえ数百万年もかかり、進化過程にあるサル達自身でも全く気がつかないでしょう。ですから、もしこのような「能力」を想定するのであれば、初期人類や類人猿は真猿類としての「潜在的能力」はもちろん、生命の誕生以来の全ての「潜在的能力」も継承、保持していたと考えるべきです。 ですから、初期人類はこのような全「潜在的能力」を動員して新しい社会を構築したとみなすべきです。人類の祖先は、知能や記憶力の発達もあり、社会編成などの文化については最も選択肢の多い霊長類だったはずです。ですから、全「潜在的能力」を活用して形成した初期社会は父系だけでなく、その他の様々な社会への移行した可能性もあるとも考えるのが妥当です。このように考えるとこの「潜在的能力」説は、大変重大な問題を惹起します。というのは、この「潜在的能力」による進化は、初期人類だけでなく、その他の全てのサルにも認めるべきですので、母系社会はペア型からしか生まれないなどの、サル社会の進化に規則性があることを主張する伊谷のサル社会の系統的な進化説自体を原理的に否定することになってしまいます。この伊谷のサル社会の系統的進化説は山極説の根幹をなす理論ですので、この「潜在的能力」による進化説はまさに山極説にとって自殺的な理論なのです。 山極の父系社会説にとって、魔法の杖のように便利な「潜在的能力」とは一体どのようなものでしょうか。山極によると、人類の祖先は、チンパンジ−の祖先と分離した後、既に類人猿が「潜在的にもっていた能力」を発揮して、全類人猿の文化を試したのだそうです。こうした「能力」として、まず考えられるのが遺伝的なものです。遺伝的なもの以外に、最初のテナガザルの特徴が人類の祖先にまで継承されたと考えられるものはありません。この遺伝的なものは、父系社会やペア社会などの複雑な文化的情報ではありません。このような文化的情報まで、DNAに書き込まれていたとは考えられませんので、この情報は身体形成に関する情報の遺伝のはずです。 また、類人猿が「潜在的」に持っていた「能力」ですから、持ってはいたが発揮されなかった「能力」という意味ですので、このようなものとして考えられるのは、大型化した脳しかありません。山極は、大型の真猿類である類人猿は、脳が大きくなって機能も向上したが、あまり活用しなかったと考えたのです。しかし、人類の祖先はこの機能を発揮し知能や認識能力が向上したので、類人猿を観察してそれぞれの文化を学び真似をして試したか、あるいは、単に知能を発揮して様々な社会編成を試したといいたいのでしょう。山極の呪文のようなわけのわからない文章はこのようにしか、理解できません。 しかし、ここに山極の類人猿偏重の先入観があります。類人猿の脳が他のサルよりも大きいことが、類人猿を特別視しする根拠となり、類人猿が人類に極近い存在だと単純、素朴に信じているのです。脳の大きさが知能と比例しているわけではありません。南米のフサオマキザルは、ネコぐらいの大きさですが、チンパンジ−並の知能があります。他にも南米には、脳は小さくとも、様々な高度の知能の産物としか思えない行動ができるサルがいます。ですから、この「能力」は類人猿や人類の祖先にしかないとは断言できませんし、更に類人猿がこの「能力」を発揮しなかったとも断言できません。山極がこのように主張するのは、これを証明するなんらかの「証拠」があるからではなく、単にそう考えないと自分の説が成り立たなくなるので、人類の祖先だけにこの「能力」の使用を認めているのです。要するに、山極説は推測に推測を重ねた極めていい加減な仮説なのです。 私達はこのような「能力」は、すくなくとも全霊長類にはあり、しかも発揮されてきたと考えるのが妥当だと思います。そうでないと、人類でも珍しい一妻多夫社会まである霊長類の極めて多彩な社会の説明ができません。サルの社会編成の変更は「環境の変化への適応」とあっさり片付けられてきました。しかし、環境の変化が契機となってもこの能力が発揮され、臨機応変に対応してきたので、霊長類は生存し得たと思います。更にいえば、南米の熱帯雨林は、霊長類が出現する以前から存在し現在まで変化していないのですが、その熱帯雨林の同一環境下で、一ヶ所に様々なサル社会が棲み分けている例もありますので、ここでは、類人猿より「下等」な真猿類のサルが、環境が変化しなくてもこうした「能力」を発揮したとも考えられるのです。 山極は、チンパンジ−の配偶関係が固定されていない乱交的交尾型社会が人類の初期社会とは認められないので、この配偶関係については、人類は「潜在的能力」を発揮してチンパンジ−ではなく、テナガザルやゴリラからペア系の配偶関係を受け継いだので、初期人類は、「特定の雌雄が長期にわたって配偶関係を維持」した社会と主張しています。山極は、あくまでもこの「潜在的能力」を類人猿の社会時代に獲得したものに限定し、類人猿の様々な特徴の中から、山極の初期社会のイメ−ジに合う特徴を選択して継承したと考え、イメ−ジに合わないものは選択せずに継承しなかったなどと、彼が望む初期社会像を「恣意的」な選択により構築しているのです。 この類人猿の諸特徴のなかから、人類が継承したとする特徴を選択をする場合にも重大な問題があります。チンパンジ−は時々、飢餓状態でもないのに仲間の幼児を殺して食べてしまいます。チンパンジ−のメスは、一生に一度は、子供を食べられる経験をするのではと言う研究者もいますので、これはまれなことではありません。このような子殺しやカニバリズムを初期人類が継承したかと山極などのサル学者に聞けば、おそらく全員継承しなかったと答えるでしょう。現代の人類社会では、子殺しが起きるのは極まれですし、飢餓状態ではない通常時の幼児のカニバリズムはまずありえません。ですから、継承しなかったと自信をもって答えるでしょう。 しかし、チンパンジ−の乱交的交尾関係の継承の場合はどうでしょうか。現在の日本は父系の核家族社会ですので、日本の学者ならば、山極のように人類は最初からある程度の固定的な配偶関係を維持したという意見が多いでしょう。しかし、人類には、現在でも結婚制度がなく、男女とも複数の恋人を同時に持つ事が許されている社会もありますが、こうした社会出身の人に聞いたらなんと答えるでしょうか。また多くの結婚制度のある社会でも、「不倫」を罰する法がありますので、「不倫」という固定的な配偶関係に反する現象が人類にとってまれではなく、法をもって抑制しなければならない現象でもあることを示しています。こうしたことを重視するサル学者なら、山極ほど固定的な配偶関係ではなかったと言うかもしれません。いずれにしても、子殺しやカニバリズムの場合ほど、肯定するにしても、否定するにしても自信はないはずです。 このような様々な類人猿の特徴のうち、何を継承し何を継承しなかったかという選択は、人類の初期社会像を直接形成する極めて重要な判断です。サルの研究により、どのような事実が見つかろうともこの最後の選択により、継承されなかったとされれば初期社会像の構築には何の影響も与えられなくなります。山極は、結局乱交的な性関係は「非人間的」な行為と判断して、オランウ−タンやゴリラの固定的な配偶関係を選択したのです。そして、その根拠には現在の人類がほとんど固定的な配偶関係を維持していることあげています。つまり山極は、太古には明確な結婚制度もなかったとすると固定的な配偶関係ではなかったかもしれないというような人間観ではなく、人類は太古の昔から現在までほぼ固定的な配偶関係を維持してきたという人間観をあらかじめ持っていたのです。 現在の人類の多くが、固定的な配偶関係の社会であることは誰でも知っています。このようなことを根拠にするなら何年もサルの研究などしなくとも、誰でもおおよその初期社会のイメ−ジはつくれると悪態でもつきたい気分になります。更に言えば、こんな理由ならば、本格的なサル学の研究をする以前から既におおよその人類の初期社会のイメ−ジは山極の内部に存在していて、その社会の根拠づけの為にサルの研究をしただけではないかと邪推したくなります。この「乱交的な交尾関係」の継承の評価の場合と同じように、山極は極めて重要な多くの問題を、サル学とは関係のない彼自身の人間観(注5)から判断してこの父系社会説を構成していますが、この核心的な選択は結局、研究者個人の人間観が大きく影響してしまうのです。ここにこのサル社会から、初期の人類社会を類推しようとする方法論の最大の欠陥があります。 「乱交的交尾関係」の継承を否定する山極の人間観は、山極のサル学の中では万能の絶対者です。これは彼のサル学とは関係なく山極個人の人生経験のなかで、培われ形成された様々な価値観の内の一つです。もちろん、サル社会の研究が山極の人間観に一定の影響を与えたでしょうが、彼の人間観の大部分はサル学がもたらしたものではないでしょう。この人間観や価値観は現代社会の生活、様々な出来事などの影響から無縁ではいられません。つまり極めて現代的な人間観です。この山極の人間観は山極自身の個人的な経験からも相当大きな影響を受けているでしょう。 そして、こうしたサル文化の継承の選択は初期社会像の構築には欠かせず、こうしたサル社会から類推しようとする限り研究者の人間観が決定的な影響を与えてしまうのですから、彼らは自己の人間観をまず説明し、その人間観の妥当性を「論証」しなければなりません。そうでなければ、人類の初期社会を構想する最も重要な段階では、この人間観が絶対者として君臨し全てを決するのですから、どんなに努力して精緻なサル学を構築しても、ろくでもない初期社会説ができてしまうかもしれません。サル学により選択肢はある程度限定されますが、研究者の極めて特殊な人間観による「恣意的」な人類の初期社会像の構築も可能になってしまうかもしれません。 しかし、こうした人間観自体を直接論じることをサル学者はしません。なぜならば、こうした新しい人間観自体をつくるのが、このサル学の目的だからです。ここにサル社会から初期の人類社会を、初期の人類を究明しようとする彼らの方法論の根本的な誤謬があるのです。文学作品の評論は、結局評論をする人自身の思想を表現しているのであり、作品はそのための単なる素材に過ぎません。この文学評論と同じように、こうした著作は、人類の初期社会像を語ることで、サルの研究者自身の人間観を、原初的な人間像を表現しようとするものであり、サル学はその素材を提供しているだけなのです。 「人間と動物の社会を比較し」て、あらたな「人類の家族」像をつくろうとして、このサルの研究は始まりました。人間は家族の一員としてしか存在できません。独身者でも、現在の家族の一員として生きるだけでなく、常に未来に自分が形成する家族を想定し、その家族の一員としても現在を生きる存在です。個人としての人間は、意識、観念の中だけでしか存在できないので、人間とは家族そのものなのです。ですから「人類の家族」の起源を究明しようとサル学者は、現代社会の中の人間ではなく、原初の人間像を究明し、新しい人間像を構築するのがサル学の目的と言ってよいのです。彼らの真の関心はサルではなく人間、それも原初の、ピュアな人間です。サルを語ることで、常に「本来」の人間を新しい人間論を語ろうとしているのです。 しかし、奇妙な事にサル社会の研究により、新しい人間観をつくろうとしても、結局古い人間観を基準にするしかないので、つまり古い人間観自身にその構築を依頼するしかないので、結果は最初から解かっているのです。サルの研究からストレ−トに新しい人間像を構築するのは、原理的に不可能です。長年のサル社会の研究から構築された「実証的」な人類の初期社会像だといくら強弁しても、結局は山極のように常識的な、在り来たりの、既知の人間観や社会観しか生み出せないのです。 幼児のカニバリズムの継承を否定する判断、確信は、現在の私達の人間観からの判断であると同時に祖先達への私達の期待、希望です。私達自身の祖先の問題なので、私達のアイデンティティ−にも直接関係します。チンパンジ−のように幼児を殺して食べてしまうとかマントヒヒのような幼女誘拐の常習者の祖先のイメ−ジは、研究者自身も含めてほとんどの人は受け入れたくはないと思うでしょう。しかし、私達にはこのような行為は、実行されたとしても極まれですから人間的な行為ではない、非人間的な行為としか思えません。 それで、あらゆる非人間的な行為をする「新しい人間像」や、新奇な「新しい人間像」のアイディアは、まだ人類に進化する以前のサル時代のモノとみなされ、ありきたりの常識的な人間観しか持たない研究者であれば、その研究者の内部で検閲され消去されてしまいますので、結局は多くの人が受け入れられる山極のような既知の人間像、ありきたりの人間像しかサル学は提示できないのです。結局この「人間的」かどうかという人間観が最大の問題となります。 そしてこの「人間的」という価値観は、時代により変化せざるをえない価値観でもあり、私達は「人間的」と思われるものでも、一度は本当に「人間的」なのか疑います。そして、こうした問題を学問で扱うのは人類学や哲学、倫理学ですから、サル学の守備範囲を超えてしまいます。ですから、自らの人間観に自信のないサル学者はサル自体を語ることだけに徹し、人類について言及することは禁欲しなければなりません。サル学は、こうした諸学への資料提供に役割を限定するべきです。こうした守備範囲を山極のように安易に超えようとすると、結局ありきたりの、常識的な人間観を提示するだけに終わってしまうかもしれないのです。 山極は、チンパンジ−の社会からだけ類推して、初期の人類社会を推定するのであれば、まだ論理的な一貫性を維持しえたのです。しかし、チンパンジ−のような「高度の社会性」がある社会は、類人猿では、チンパンジ−以外には存在しないのに、近縁さを理由に類人猿全体に類推する対象を広げているので、今西錦司が、こうしたサル社会の研究からの安易な想像を避けるために、自ら科した三条件と比べると比較しようがないほど、山極は後退しているというほかありません。このような研究をする場合は、せめて今西のように明確な方法論的根拠の構築をした上で、このような類推作業をするべきです。 ネズミも人類と同一の祖先から進化した生物ですから、たとえばネズミの社会を「解剖」すれば、人類社会に似た部分も見つかるでしょう。しかし、それはあくまでも人類の祖先がまだネズミだった頃の社会がわかるだけなのです。同様に、類人猿の研究から何かわかるとしたら、人類の祖先がまだ類人猿とほぼ同じ進化段階だった頃の社会がわかるだけです。正確に言えば、類人猿も彼らなりに進化してきているはずなので、人類の祖先が現在の類人猿達の社会と同じような進化の段階の社会を経てきたと仮定して、その段階の人類の「祖先の社会」が類推できるだけで、初期だろうが何だろうが、人類の家族や社会そのものが類推できるわけがありません。 類人猿は、人間に木の枝を投げつけたりしますが、これから類推できるのは、初期人類もすくなくとも木の枝を敵に投げつけるくらいは、できただろうということだけで、それ以上は、推測でしかありません。そして私達は、その枝は、やがて核兵器にまで発展する武器の原初的形態と考える−解釈するでしょうが、サルは、核兵器を見ても、それが何なのか誤解することさえできません。 初期の人類社会は、類人猿の社会より高度な進化段階にあるのは、明らかです。低い進化段階(サル社会)の文化を、高い進化段階(現在の人類社会)の文化で解明−解釈することはできても、高い進化段階(初期の人類社会)の文化を、低い進化段階(サル社会)文化で解明することは不可能です。その不可能なことを、どうしてもしようとするのであれば、山極達のように、高い進化段階(人類の初期社会)の文化を、低い進化段階(サル社会)の文化で解明したかのようなフリをしつつ、実際は、低い進化段階(サル社会や人類の初期社会)の文化を、高い進化段階(現在の人類社会)の文化で解釈してみせるしかないのです。 山極が、低い進化段階の文化として理解したサル社会の文化は、既に高い進化段階(現在の人類社会)の文化で潤色され、再構成された人間的、あるいは山極的なサル文化の解釈でしかないので、要するに、両方とも現在の文化そのものなのです。またそのように現在の文化「語」に翻訳されてなげれば、サルの文化は現代人には理解できません。ですから、そもそも方法論そのものに重大な欠点があるのです。つまり、結局、霊長類の社会進化を系統的に解明し、その流れの中で、人類の初期社会を想定しようとしても結局は、現在という極めて特殊な歴史的段階の人間観、社会観、思想を基準にして選択され「構成」され直した一つの「物語」でしかなく、無意味ではありませんが、「事実」とは別の扱いをしなければならないのです。 過去はすべて現在から見た過去でしかありません。過去は因果論的な視点でしか見ることはできないのです。そして因果論は無限の連鎖の中で現象する結果でもあり原因でもある事態をどちらか一つに限定したうえで強行される認識なので、一つの幻想でしかありません。要するに、厳密に言えば、そもそもサルから人間を解明しようとする事自体が原理的に不可能なのです。通常、このような問題で私達に可能なのは、因果論的な解釈だけですのであくまでも解釈として提示するべきで、「ちがいない」などと絶対の真理であるかのような断言はしてはならないのです。私達は、人類の初期社会は母系社会と考えていますが、本当に母系社会だったかどうかはわかりません。とりあえず、現時点では、母系社会説の方が説得力があると思えるという意味で支持し、更に母系社会であった方が望ましいと判断しているだけなのです。 山極は、チンパンジイ−の社会が複雄複雌の乱交型社会で配偶関係が固定的でなくとも、チンパンジ−の「高度な社会性」や人類との近縁さを、こうした類推の根拠にしたのですから、あくまで、チンパンジ−の社会からだけ推測するべきです。もちろんどのような推測をしても、かまわないのですが、推測は推測として提示すべきです。山極は、巧妙に立ち振る舞い、一部にこうした推測があることも認めていますが、サル社会の進化の大筋や人類の初期社会は父系社会という点には確信があるので、断定していますが、このような「実証的」な手続きを装った推測、憶測に過ぎないものを、「真理」であるかのように飾り立てるのは、昔からどの社会でも許されていないのです。 人類の初期社会の「解明」は、極めて困難な作業です。このようなサルの研究も、人類はサル社会とル−ツを共有する存在なので、インセストの問題などで人類の理解に大変な貢献をしました。しかし、やはりサル社会からわかるのは人類がまだサルだった頃のことだけです。このような方法は研究者個人の恣意的な想像も可能にしてしまう「潜在的能力」による進化などの危険も考えられます。現存する初期人類に一番近い生物はやはり、現在の私達人類であって、類人猿ではないのです。ですから、サル社会の研究から得られた様々な知識を活用しながらも、やはり現在の人類の研究による究明の方が、より「正確」な人類の初期社会像が得られると思います。 (注4)実は、このように明言しているわけではないのです。サルの生態から初期の人類社会を類推する方法を断念した今西に対して山極は、直接批判せずに今西説とは異なる立場の「理論」として、この伊谷説を紹介し、肯定的に扱っていますので、伊谷説をこの著作の根本的な根拠としているとしか理解できないのです。このように、この著作は、肝心な事が大変わかりにくい本です。たぶん、サル学「業界」内部のなんらかの問題があり、大先輩の今西を直接、批判することが出来ないのかもしれません。これも、日本の大学や学問の師弟関係の前近代性の問題なのかもしれません。 (注5)この核心的な人間観は、進化論的な世界観に基づきつつ、山極が一人の現代人として構築した人間観です。こうした人間観なので、同じ進化論的世界観と同じ現代に生きる私達も、支持はできませんが、可能性の一つとしての理解はできます。しかし、キリスト教の原理主義者のように進化論自体を否定するような人間観から書かれた著作であれば、完全に否定するしかありません。 |
10号書評 「家族の起源」 山極寿一{著}{03年12月} 初期人類社会の父系社会説批判 −2 |
2 山極(伊谷)説への根本的な疑問 山極は、今西とともにサル学の創始者であり、霊長類の社会進化の歴史を究明しようとした伊谷純一郎のサル社会の進化説を支持し、自説に採用しています。ですから、この著作の評価は、山極説だけでなく伊谷のサル社会の進化説も検討することになります。人類の家族の起源を現在のサル社会から究明しようとする方法自体を問うことになるかもしれません。まずは、2から検討してゆきたいと思います。2の「チンパンジーの社会は人類との分離後の約500-700万年間、非母系社会という特徴を変えず、他の類人猿も同様に非母系社会を現在まで維持している」という不変説とでも呼ぶべき問題を、山極は、指摘することすらしていません。 現在の類人猿の社会から、初期人類社会は同じ非母系の父系社会と類推できるとするならば、チンパンジ−などの類人猿の社会は、人類の祖先との分離後から現在まで、非母系社会を維持しこの非母系社会を変えなかった、という根拠を示さなければなりません。もし、その根拠が展開できないのであれば、人類の祖先とチンパンジ−の祖先が分離した頃の社会がどのような社会だったかわからなくなります。そうすると人類の祖先が継承した社会も不明となりますので、このような類推ができなくなるのですから、山極のような方法論を主張するなら、この不変説の根拠の提示が必要です。 山極が主張するように、人類の祖先が非母系社会を継承したとしても、それは人類が誕生する何百万年も前のことです。この不変説の根拠が、単に現在の人類社会がほとんど父系社会だからというものでしたら、それは根拠になりません。山極は、現在のサル社会の研究によりサル社会の進化史を究明し、何千万年ものサル社会の進化史の過程に人類の初期社会を位置付けて、人類の初期社会の究明が可能だと主張しているのですから、あくまで太古のサルの世界から歴史をたどる方法で、初期の人類社会が非母系社会だったと「論証」しなければ、自ら自己の主張する方法論を否定することになります。 おそらく、このような方法により、人類の初期社会が類推可能と主張する者で、この不変説の論証ができる人はいないでしょう。しかし、この方法論を主張している山極は、自らこの問題を指摘してこの不変説を主張する根拠を示すか、この不変説の展開が不可能なら、このような仮定をした場合の仮説であることを明言すべきです。自ら「飛躍がいくつかあるだろう」と言っているのは、このことかもしれませんが、誰でもすぐに気がつくような問題ですから、どうしてこの問題を指摘さえしないのか理解できません。山極は、この根拠を示す事ができないので、示唆するだけにして、この議論に触れるのを避けたのでしょう。 いずれにしても、これは、この約500から700万年間だけの問題ではありません。伊谷は、自然環境や他の敵対的生物との関係、あるいは食性や生活圏、身体や知能の変化を説明原理として、サルの社会編成の変化を展開していますが、一度社会編成が変化するとその社会が何百万年、あるいは何千万年も続いたと想定していますので、随所に同様の問題があり、これは、このような方法論の根本的な問題です。最も大きな影響を及ぼすと思われる環境の変化も、地球規模の大きな変化だけでなく、地域的な小さな変化は絶えず起きた考えられます。このような地域的な環境の変化であっても、そこに住む生物にとっては、地球規模の変化と同じ絶対的な環境の変化ですから、こうした地域的な環境の変化も、絶えずサル達の社会編成に大きな影響を与えたのではないでしょうか。 もちろん、なかには何百万年、何千万年とほとんど同じ社会を維持しているサルもいるでしょう。しかし、全てのサルが、継承した社会を何百、何千万年も維持した断言できるのでしょうか。南米の新世界ザルには、同一の自然環境のもとで様々な社会を形成し、環境とは無関係な、サル自身の恣意による社会選択の可能性さえ示唆する生態のサル達もいます。また旧世界ザルのコロブス類にも様々な社会があり、なぜこのような様々な社会が生まれたのか従来の説明原理では、説明できないのですから、こうしたサルの恣意による変化、進化の可能性も現時点では簡単には、否定できないのではないでしょうか。 また南米には類人猿ではない真猿類なのに、類人猿並の知能をもつサルもいます。山極は、チンパンジ−の行動の一部の理由として、好みなどの恣意的な理由も認めています。現在のサル学が類人猿を高く評価するあまり、類人猿以外の真猿類の知能を過少評価し過ぎているとしたらどうでしょうか。チンパンジ−にも認めているこのような恣意による行動、選択が、真猿類にも認められる日がくるかもしれません。 もしそうなれば、環境が許容する範囲であれば、理論的にはどのような社会も存続可能ですから、たとえ環境の変化などの外部的な変化がなくとも、サルが恣意により、環境が許す範囲で、「自由」に社会編成も変えたとしたら、そのような変化はほとんど推測が不可能ですから、伊谷のよう従来の説明原理に基づくサル社会の進化史は、崩壊せざるを得なくなるでしょう。もちろん、このような恣意、あるいは意思に基づく変化が頻繁に起きたとは考えにくいのですが、サル社会の驚異的な多様性はこのような理由による変化を示唆するものだと思いますが、この問題は、あらためて検討します。 このような何百、何千万年もの間、母系や非母系社会を維持し続けたかどうかという問題は、太古のサル社会から初期人類社会を推測しようとする場合は必ず直面する問題であり、なんらかの仮定を設定しなければ推論できないのですから、このような方法自体の限界として捉えるべきです。山極や伊谷の社会進化説は、この不変説という前提がなくては成立しない仮説なのです。ですから、このような方法による初期人類の社会のあり様を求めるといった太古の世界の究明は、すくなくとも仮説としてしか主張できず、山極のように断定できるような問題ではありません。河合雅雄のように可能性の一つとして提示すべき問題なのです。 現在の類人猿の祖先との分離後、何度も進化を繰り返した後に私達は生まれたのですから、そのような私達の直接の祖先の方が、類人猿より私達現世人類に近いはずでが、現生人類を生み出した様々な人類の祖先達は、なぜか皆絶滅してしまいました。人類が、今まで多くの生物を絶滅させたように、人類に近い生物であればあるほど、人類と競合状態になるので、絶滅させてしまった可能性も全くないとは言えないでしょう。ですから逆に、類人猿は人類から遠い存在であったため現在まで生き残れたのかもしれないのです。もしそうだとすると山極は、類人猿の中でも人類と遠い類人猿から人類を類推しているのかもしれません。類推可能な人類に近い類人猿は、既に絶滅したのかもしれません。 3 チンパンジ−の評価と絶滅した類人猿 次ぎに3の「現在のチンパンジ−の社会は、高度の社会性を持つので、現在のチンパンジ−の社会から、初期人類の社会を類推することは可能」という山極説の最も核心的な命題を検討します。これも伊谷説ですが、山極は、この命題の根拠の一つとして人類とチンパンジ−のDNAの近縁さ、DNAの1.2から1.4%の違いをあげるています。しかし、もしDNAを根拠にするなら、DNAには機能していない無意味な部分があるので、このような量的な問題ではなく、1.2か1.4%の異なるDNAの質的な問題を、つまり、その僅かな差の部分の機能にまで踏み込まなければ意味がありません。DNAがある程度、意識にも影響をあたえるのかもしれませんが、複雑な文化の類推など、DNAからできるわけがありません。チンパンジ−と人類のDNAの差が1・2%以下だとしても不可能です。これは種として同一のDNAを共有する人類自体が、母系や父系などの様々な社会を持っているのことから、自明なことです。 山極のように類人猿の社会から、人類の家族の起源を追求する研究の創始者であった今西錦司は、インセスト・タブ−、「外婚制」、コミュニティ−、分業の四項目を人類的家族の成立条件と考え、この内の分業を除く三条件が類人猿社会にあれば、この類推が可能と考えました。しかし、コミュニテ−の問題、つまりチンパンジ−の「外婚制」の単位となる集団間に友好的関係がなく、集団内に「家族」的な存在がないことが判明し、類人猿と人類との違いが大きすぎると判断してこの研究を断念しました。 この今西の最終的な判断に対し、山極は、伊谷説を擁護し、チンパンジーの集団が人類の村や町のような家族の集積からなる重層的社会とまでは言えなくとも、群れが離合集散を繰り返すオスの小グル−プにより形成されている点を高く評価します。オス同士の複雑な挨拶行動が、オス同士の強固な連帯関係から行われるものと解釈し、こうした自由なグル−プ形成を「高度の社会性」の発現と考えているのです。そして、チンパンジ−の群れを狩猟採集民のバンドの前駆的存在、あるいは今西のコミュニティ−の前駆的構造として、類人猿から初期人類の社会が類推できる根拠としています。こうしたオス同士の「高度の社会性」の存在が、極めて人類に近いチンパンジ−の知能の発達段階を証明するものと考えているのです。 しかし、こうした離合集散を繰り返すオスの小グル−プから群れを形成しているのは、チンパンジ−だけではありません。南米のクモザルは、チンパンジーと同じように離合集散を繰り返す小グル−プから群れを形成し、更に、チンパンジ−の知能の高さの証明のように評価されている抱擁やキス、肩を叩き合うなどの複雑な挨拶行動までもしますが、これ以外の知的行動はしないサルだそうです。この「高度な社会性」、つまり複雑な挨拶行動や集団内での自由なグル−プ形成は、人類を除くと高度な知能を持つチンパンジ−だけが可能な行動とされてきました。ですから、山極は、チンパンジ−や類人猿の現在の社会から、初期人類の社会ができると主張する根拠と考えてしまったのです。しかし、新世界ザルのクモザルの存在は、こうした行動が知能とは関係のない行為と示唆しているのかもしれません。 このクモザル以外にも南米には、従来の定説的な説明原理を否定する「奇妙な」サルが沢山います。やはり、人類とチンパンジ−以外のサルはしないと思われていた大人同士の遊びをする「下等」なサルのウ−リ−モンキ−や、サル社会では、唯一の一妻多夫型のタマリンは、これもチンパンジ−の高度な知能の発現と思われていたオスの保育行動や物乞い行動、食物分配行動までしますが、やはり、これ以外は全く知的行動はしない「下等」なサルです。更に、人類にしかできず、チンパンジ−にも不可能と思われていた未来を予測した行動ができる体重が僅か200グラムのピグミ−マ−モセットという「下等」なサルもいます。このサルは、木に穴をあけた翌日にまたその木に戻り、流れ出た樹脂を食べるのですが、これ以外は知的な行動はしないサルです。このように南米には、チンパンジ−と同じか、それ以上の高度な知能の発現としか思えないような行動が部分的はできても、どう見ても知能が高いとは思えないサルがいます。 ですから、新世界ザルの研究者の伊沢コウ生(宮城教育大学)は、サルではチンパンジ−だけが可能で、チンパンジ−の知能の高さで説明されていた複雑な挨拶行動や集団内グル−プの自由な形成、オスの保育行動や物乞い行動、食物分配行動などの「高度な社会性」行動は、知能以外の理由をさがす必要があると言います。人間やチンパンジ−が高度な知性をもつ証拠とされていた複雑な行動を下等なサルもするのですから、伊沢が言うようにこうした行動の知能説は再検討せざるを得ないでしょう。このような行動をチンパンジ−だけでなく、人間も含めて知能の高さで説明してきた山極が依拠する旧世界ザル的定説は成り立たないのかもしれないのです。 やはり南米の体重がわずか3、4キロのフサオマキザルは、チンパンジ−と同じように、「高度な社会性」を持ち、複雑な挨拶行動や大人の遊び、オスの保育行動、物乞い行動や食物分配もし、道具の使用もできます。このサルの知能テストをした学者によると、このサルとチンパンジ−とどちらがより知能が高いかわからない、つまりチンパンジ−以上に賢いサルなのかもしれないのです。新世界ザルの研究は始まったばかりなので、なぜこのようなネコぐらいの小さい真猿類ザルが、高度の知能を持つようになったのか、まだ全くわからないそうです。と言うのは、環境の変化が知能の発達を促すと考えられてきたのですが、これらのサルは、南米の熱帯雨林から出て他の環境で生活したとは考えられないので、環境適応説では説明不可能なのです。 これらの南米の新世界ザルはすべて真猿類ザルです。ですから、山極が依拠し、初期人類の類推が可能と考える根拠である類人猿観、つまり類人猿は、知能も生物のなかでは一番高く、高度な社会をもっているという「常識」も、逆に言えば、類人猿以外の真猿類ザルを過少評価することで成立した類人猿観とも言えますので、旧世界ザルの研究から生まれた一つの幻想なのかもしれません。今後山極が依拠するのとは別の、全く新しい説明原理が生み出されるかもしれませんし、新世界ザルの研究は、類人猿観を変えることで、同時に人間観自体の変更までせまるものなのかもしれないのです。 結局、この問題は、チンパンジイ−達が、「高度な社会性」を持っていると認識した時の「高度な」という判断、印象が「くせもの」です。確かに他の猿達より、高い知能をもっているのはまちがいありませんが、問題は、類推が可能なほど高いと評価できるのかどうかです。山極のような類推可能派は、色々とその判断の根拠をあげますが、その根拠は解釈をする人により、大きな差がでてしまう根拠なので、結局、類人猿が人間に近い知能や意識性をもっているという「印象」で判断しているとしか思えません。評価する人が類人猿と人類の共通性を重視するか、異質性を重視するかにより、あるいはどのような人間観を持っているかで結果が分かれてしまうような根拠なのです。 山極のように印象で判断してしまうと、もし類人猿が、その他の多くの生物と同じように既に絶滅してしまっていて、日本猿が最も人類に近いサルであった場合、日本猿に対しても「高度の社会性」を認め、彼らの集団が狩猟採集民のバンドの前駆的存在と考えてしまい、日本猿は母系社会ですから、初期人類も母系家族と考えてしまうかもしれない可能性も否定できません。一旦、日本猿は人間に極めて近い生物という「先入観」ができてしまうと、その「先入観」を否定しかねないことは全て、過少評価してしまうからです。そして、チンパンジ−にも、子殺しなど沢山の人類との違和がありますが、山極はなぜか、こうした違和の存在を知っているのに問題にしていません。 おそらく、今西は、「高度の社会性」などの「印象」を根拠とすることはできないと判断したのだと思います。「高度の社会性」とは、要するに私達人類に大変よく似ているということです。私達は、同じ行為をしても鳥だと単に本能で、ゴリラやチンパンジ−だと人間に近い生物という「先入観」から、ついつい人間的な感情や意識からの行為と擬人化して考えてしまいます。私達には、この類人猿が人類に大変よく似ているという「先入観」がすでに形成されているため、この「先入観」にとらわれずに自由に認識するのは大変困難で、一旦なんらかの「先入観」ができてしまうと、この「先入観」からすべてを解釈してしまいがちです。この著書は、山極の「先入観」からの安易な目的論的解釈、人間的解釈の結果としか思えません。 人間は、現在の人間の文化、知識を基準にして、他の生物を「理解」=「解釈」しますので、なんらかの「先入観」という認識の基準なしには、人間は認識自体ができないとさえ言えます。このように「先入観」というのは、大変やっかいなものですが、今西はこの人間の認識の「欠陥」を知っていたので、単なる「印象」などではなく、類人猿の集団同士が敵対的行動をとるか、あるいは友好的行動をとるのかという明確な行動による判断基準を考え、原初的であれ、「コミュニティ−」の実際な形成がされていれば、類人猿から初期人類の類推が可能と考えたのだと思います。 かつては、真猿類の中では類人猿以外の真猿類より、類人猿のほうが種類も多く、繁栄していたのですが、現在では霊長類の約180種中、類人猿は六種だけしか生存していません。野生の類人猿は絶滅が心配されているほど、減少していますので、近い将来、本当に彼らは絶滅してしまうかもしれません。類人猿がかろうじて生存している20世紀に、人類が学問的な研究の対象として彼ら観察するなどということが可能になるまで進化し得たのは、長い生物の歴史のなかでは、偶然と言ってもいいのではないでしょうか。 DNAの差異は、あくまでも現存する類人猿と人類の進化史上の距離を示しているだけです。類人猿には多数、絶滅した種があります。チンパンジ−は、森が生活圏だったため化石が残りにくいのですが、現存するチンパンジ−より後に人類の祖先と分離し、絶滅したチンパンジ−、類人猿がいたかもしれません。2002年に、アフリカで発見されたトゥ−マイという化石は、まだ評価が定まっていないようですが、様々な可能性を秘めた化石で、チンパンジ−やゴリラなどの類人猿の化石かもしれないそうです。もしチンパンジ−の化石なら現存のチンパンジ−より後に人類の祖先と分離し、絶滅したチンパンジ−なのかもしれません。 トゥ−マイが猿人だとすると、これまでに発見された猿人より人類に近い猿人となる可能性がありますので、場合によっては、これまでに発見された猿人は全て、トゥ−マイより前に出現した猿人となり、トゥ−マイは約700から600万年前とされていますので、700から500万年前とされるチンパンジ−と分離した直後の「短期間」に様々な猿人が出現したことになります。つまり、チンパンジ−と分離した後の人類の祖先は、相当激しく進化を繰り返し、トゥ−マイが出現した後も様々な種を出現させていたのかもしれません。もしそうだとすると、これらの祖先が皆、チンパンジ−の非母系社会を継承したのか疑問は増します。 気候の激変などにより、多くの生物種が絶滅しました。人類の祖先がチンパンジ−達の祖先と分離したとされている500から700万年前は、気候の激変期で、多くの生物が絶滅した時期なのだそうです。森で暮らすサルは化石になりにくいのですが、未知の類人猿と思われる化石が多数発掘されています。化石約1000万年前には、発見された化石の存在により現在判明しているだけでも、少なくとも10種類以上の類人猿がいたのです。類人猿は、約1800万年前の温暖な気候の頃は、アジアやヨ−ロッパにも進出し、当初、類人猿以外のサル達よりも種類も多く繁栄していたのですが、地球の寒冷化とともに、熱帯雨林にしか住めない種が多い類人猿は減少してゆき、代わりに類人猿以外の真猿類が繁栄し始めたのだそうです。そして今や類人猿は絶滅寸前と言っても言い過ぎではない状態です。ですから、母系の類人猿が、存在した可能性も否定できないと思います。 DNAの分析による現在の進化の系統樹上では、人類の祖先は、チンパンジ−との共通祖先から、最後に分離したとされていますが、これはあくまでも、現存する類人猿と人類の関係を示すものです。山極自身が、多くの絶滅した類人猿がいたと言ってますが、河合雅雄は、母系の類人猿が存在した可能性を肯定しています。現存する類人猿にも小型のチンパンジ−のボノボのように、父系でも極めて母系社会に近い類人猿もいますので、チンパンジ−より更に人類に近縁な母系の類人猿社会があり、人類はその母系の類人猿から最後に分離した可能性がないとはいえません。そのような可能性のある類人猿の化石がトゥ−マイなのかもしれませんが、そうでなくとも、もともと化石が出土する可能性が大変低いのですから、単純に実証主義的に否定するのは、河合が言うように誤まりです。化石がない状態は不明な状態であっても、否定する根拠にはなりません。要するに、山極が確信しているほど、人類や類人猿の進化史は、まだよくわかっていないのです。 |
9号 書評 「家族の起源」 山極寿一{著}{03年11月} 初期人類社会の父系社会説批判−1 |
1 山極理論の特徴と背景 ゴリラなどの類人猿(注1)の研究者山極寿一(京都大学霊長類研究所)は、その著書「家族の起源」(東京大学出版会)で、類人猿の社会を父系社会と規定し、人類と類人猿との進化史上の近縁さや、両者のDNAがほぼ同じで類人猿の生活行動が人類と酷似していることなどを根拠に、類人猿の社会から類推すると人類の初期社会は父系社会だったと断言しています。山極は、この研究から人類の初期社会を母系社会と考える歴史観の否定にまで言及しています。しかし、この説は仮定に仮定を重ねてつくりあげた一つの「物語」であり、可能性の一つを「大胆な推論」で示した仮説にすぎません。 人類の家族の起源を、サル社会の研究により究明することを提唱し、こうした研究の創始者であった今西錦司は、最終的に類人猿と人類が余りに違いすぎるのでこの類推は不可能と判断し、この類推方法を否定しました。また、現在の日本サル学の代表的な研究者の河合雅雄は、この問題については、極めて慎重な態度で、山極のような断定はしていません。河合は、人類の初期社会の可能性として、二つのタイプの父系社会と一つのタイプの母系社会をあげており、どれが正しいか断定できないとしています。 この山極の著作の第一の特徴は、基本的にはアフリカやアジアなどの旧世界ザルだけの研究に基づいた仮説であり、最近の南米の新世界ザル(注2)の研究成果は、表層の部分しか取り入れられてないのです。真猿類しかいない新世界ザルの研究者の伊沢コウ生(宮城教育大学)によると、まだ新世界ザルの研究は旧世界ザルほど進んでいないそうですが、これまでの研究では、新世界ザルには、山極が依拠する旧世界ザルの研究から生まれた様々な説明原理が当てはまらない事例が数多くあるそうです。要するに新世界ザルも含めたサル学の一般理論ができていないのだそうです。つまり、現在のサル学は、人類の家族の起源について言及できるほど成熟した状態ではないのです。 例えば、山極などの旧世界ザル学者達は、サルの進化や種の文化の違いを環境や知能だけで解釈して一見もっともらしい環境適応説や知能説を主張していますが、南米には、同一環境下で様々なタイプの社会を形成しているサルがいますので、社会編成という根本的な問題でさえも環境適応説だけでは説明しきれない場合があり、新しい説明原理が必要なのです。 また、新世界ザルには、高度な知能を持つ類人猿にしかできないと考えられてきた行為をする原始的なサルがいますので、このような複雑な行動の起源は、「高度な知能」とは無関係に獲得されたのかもしれません。またネコほどの大きさの人間の介護をするサルもいますが、この真猿類のサルは、チンパンジ−並の知能を持つ猿なのだそうです。類人猿の多くが比較的大型のサルで、脳も他のサルより大きいことも、類人猿を特別視する先入観を生んだのでしょうが、類人猿と同じ行動が、ネコぐらいの大きさの脳でも可能ですから、類人猿と他の真猿類のサルの差は、それほどないのかもしれません。つまり、現在の旧世界ザルに基づくサル学は、類人猿が高度の知能と感情を持ち、人類との差が少ない事を強調するあまり、類人猿以外の真猿類ザルが過少評価されているのかもしれません。 この著作の第二の特徴は、学者の著作にしては珍しいのですが、自ら自説の論証が完璧でないことを認めていることです。山極は著作の「はじめに」で、「なかには言語道断と思われる飛躍もいくつかあるだろう。それらの点はぜひご叱正いただき、」と述べていますが、著書の冒頭で述べているので、どうみても謙遜ではありません。著者は、このような謙虚さをみせて論証は完璧ではないと示唆していますが、結論には自信があるようで、随所で断定的な表現を使っています。日本の古代史が専門の学者にも、仮定に仮定を重ねた「論理」で結論を断定的に言う人が多いのですが、このような数百万年も前のことを、まるで側で見ていたかのようによくも断定的なことが言えるものだと感心します。 自説の説得力に自信のない山極は、専門外の様々な人類の初期社会についての学説を取り上げて自説を補強しようとしています。他の分野の研究者達の反母系社会説も動員しないと、このような「大胆な」類推は受け入れられないと思ったのでしょう。おそらく、山極が、この本を書く決断をしたのは、かつては有力な学説であった母系社会説が弱まったので、父系社会説を主張しても受け入れられる可能性が高くなったと判断したからでしょう。 確かに、私達の支持する初期人類社会の母系社会説は風前の灯火のような状態ですので、山極は、母系社会説を否定する最近の論調から、初期の人類社会を父系社会とすると、自説の論証が「可能」と気づき、あまりにも「大胆」な自説を補強するために、これらの反母系社会説を援用しつつ、この仮説を組み立てたのでしょう。ですから、現在でもなお母系社会説を完全に否定する自然科学の立場からの理論が完成したとまでは言えないのです。しかも、彼自身が専門外の他の諸説を、どのくらい真剣に検討したのかも大変疑問です。 山極は、人類の大半が父系社会圏に住み、日本も父系社会(注3)なので、常識的に人類の初期社会は父系社会と想像したのかもしれませんが、それほどこの問題は簡単に判断できるものではありません。というのは、人口では父系社会の方が圧倒的に多いのですが、民族数では、現在ですら全人類の563民族(集団)中の84民族、約15%が母系社会という研究もあるほど人類の母系社会は意外と多いのです。それに、男性が現金収入を得るようになったため、一夜にして母系社会から、父系社会に変わってしまった部族もあったように市場経済、貨幣経済は、農業などを主に営む母系社会を父系社会に変える傾向がありますし、様々な伝承などから、太古の昔にはもっと多くの母系社会があった可能性が十分ありますので、初期の人類社会が父系社会であったとは、そう簡単に言えるものではありません。 この著作を子細に検討してみると、類人猿の様々な生態の中から、自説の組み立てに都合のよい所ばかりをつまみ食い的に取り上げ目的論的、人間的解釈をして父系社会説を組み立てています。また当然の問題と思っているのか、検討すらされていない重要な問題もありますので、この説を吟味するために、まず、この検討すらされていない問題も補いながら山極説の骨子を整理し、逐次検討したいと思います。 山極説はまず、1:進化史上、人類に一番近い現存する霊長類はチンパンジ−であり、2:チンパンジーの社会は人類との分離後の約500-700万年間、非母系社会という特徴を変えず、他の類人猿も同様に非母系社会を現在まで維持している。3:現在のチンパンジ−の社会は、高度の社会性を持つので、現在のチンパンジ−の社会から、初期人類の社会を類推することは可能であり、4:初期人類社会は、チンパンジ−だけでなく類人猿全体の特徴を継承していたはずなので、全類人猿社会からの類推が可能で、5:全類人猿社会から類推すると、人類の祖先がチンパンジ−の祖先と分離した時の社会は、オス同士は反発しあうが、オスとメスが持続的な配偶関係を維持する社会で、人類の祖先はこの社会を継承した。6:類人猿はすべて非母系社会だから、初期の人類社会もこの社会から進化した非母系の父系社会であったと断定します。そして、最後にゴリラや現在の狩猟採集民の社会を参考にして、7:この父系社会は、人類的な性と食の習俗の成立から父親が、まず社会学的父親として登場し、父系家族を形成することで確立したと主張しています。1については異論がないので、次回は2から検討してみます。 (注1)類人猿とは、真猿類の中の小型のテナガザル、フクロテナガザル、大型のオランウ−タン、ゴリラ、チンパンジ−、小型チンパンジ−のボノボの総称です。霊長類は原猿類と真猿類に二分されますが、原猿類は、ハリネズミのような原始的な哺乳類から約6500万年前、もしくは約3500万年前に北米で発生したとする説が有力です。原類類の多くは、現在では夜行性で単独生活をして繁殖期だけ交尾するタイプが多いのですが、アジアのミャンマ−で約4000万年前に真猿類に進化したとされています。現在の真猿類は、ほとんどがぼ昼間生活をし母系が多いのですが、その後アフリカに進出し、更に南米に渡った新世界ザルとアジアやアフリカに残った旧世界ザルに分類されます。この旧世界ザルの系統の中の一つの系統から、約1800から2000万年前に現在では生涯を特定のペアで過ごす双系のテナガザルが分離し、更にこの系統から約1200万年から1500万年前に現在のオランウ−タンに進化する系統が分離し、約700から900万年前に現在のゴリラの系統が、約500から700万年前に現在の人類の祖先が分離し、他方のチンパンジ−に進化する系統から約200から250万年前に、現在のボノボの祖先が分離したとされています。 (注2)新世界ザルとは、狭鼻類の旧世界ザルに対し、南米で独自の進化を遂げた広鼻類の真猿類のサルで、マ−モセット科とオマキザル科に二分されます。マ−モセット科は、体重が約200から700グラムの超小型ザルで、オマキザル科には約1から10キロ前後までの様々なタイプのサルがいます。社会構造では、旧世界ザルと同じ母系、父系、双系社会があり、ペア型、群れ型タイプなども同じですが、マントヒヒのような重層的社会やオランウ−タンのような単独生活型はないようです。新世界ザルにしかいないタイプでは、一妻多夫型のタマリンや普段はオスとメスの集団に分かれて生活し、交尾期だけ混合するリスザルなどがあり、チンパンジ−並の知能を持つネコぐらいの大きさのフサオマキザルや、人類にしかできないとされていた未来予測ができるピグミ−マ−モセットなど珍しいサルもいます。 (注3)このサイトでは、人類の社会を父系社会と母系社会の二つに分類し、双系社会はこの父系社会の下位的分類としています。しかし霊長類(サル)社会の場合は、父系社会と母系社会と双系社会の三つに分類します。霊長類社会の父系社会とは、成熟したオスだけが母親の所属する群れを離脱して、他の群れの間を移動する社会で、母系社会とは、同様にメスだけが移動する社会、メスもオスも移動する社会を、双系社会とします。サル社会では、生物学的父親が実子との血の繋がりを知らず、父子関係というものがない社会、つまり父親が存在しない社会なので、父系社会という名称は適切ではないのですが、なぜか霊長類学では、父系社会という言葉を使用していますので、混乱をさけるためにこの名称を踏襲します。 |
8号「母系社会研究会と会員の募集について」{03年10月} |
私達は「母系社会研究会」と名のっていますが、正確には、「母系社会研究会設立準備会」とでもいうべきグル−プで、現在のメンバ−はこのHPの管理人の荒瀬と顧問の2名だけの極少数グル−プです。(複数の参加を検討している方がいますが)このHPに公開している文章の文責は全て荒瀬にあります。このHPを創るのに約2年、公開してから約半年経ちますが、必ずこの日本のどこかに、このHPの趣旨に賛同して頂ける方が、そう多くはなくとも必ずいると信じてこのHPを創ってきました。 まず、初めに、私達の「研究会」に参加を検討されている方に理解して頂きたいのは、会員になられても、月一回発行予定の会報「RISA」を読んで頂く以外は、義務的な事はありません。この「RISA」はメ−ルにて会員の方に、お送りします。もちろん、このHPに何らかの文章を掲載する事など、「RISA」の読者以上の関わり方を希望される方も大歓迎です。どう関わるかは、会員一人一人の関心の持ち方と時間的な余裕に応じて、自発的な意思で決められればよいと思います。 また、このHPの様々な掲載文に同意できないものがあっても、もしかしたら「母系社会」が人類の理想社会として調査、検討に値する社会かもしれないという私達の根本的な判断に、暫定的にであれ賛同して頂ける方、あるいは単に「母系社会」について興味をお持ちの方であれば、どんな方でも大歓迎です。会費や会則もありません。会則をつくるばあいは、会員の総意でつくりたいと思います。 会員の方が、ご自分の文章、論文をこのHPに掲載を希望される場合は、無条件、無修正で、できるだけ早く掲載します。テーマは、家族関係の体験談など、このHPに少しでも関係のありそうなものや、このHPの私の文章への批判、疑問、質問でも、もちろんかまいません。批判的な内容でも、無修正で掲載します。また、会員になられるかどうかは別にして、もしどんな事でも、母系社会について質問があれば、私達が解かる範囲でできるだけ早くご返事しますので、お送り下さい。一人でも多くの方の力で、多方面からできるだけ正確に母系社会を理解し、理想的な現代的「母系社会」を構想したいと思います。 当たり前のことですが、私達は、この「研究会」からの退会を、例えばなんらかの「大義」への裏切りであるとかの「善悪」の問題として考える思考はありません。私達はこの「研究会」を単に自らの意思で「設立」したのであり、私達には、このような「研究会」を設立し、運営しなければならない「義務」といったものは、本当はありません。他の誰かから頼まれ、私達がその依頼に誓約して設立したのなら別ですが、そうではないのですから、私達が創りたくなければ、創らなくともよい組織なのです。しかし、それでも私達は、この「研究会」をつくったのですから、自ら好き好んで、つまり恣意でこの「研究会」をしているだけで、その点では、他の文化系の同好会などと本質的には同じ普通のサ−クル、趣味的なサ−クルです。ですから無責任のようですが、私達も含めて、いやになったらやめればよいサ−クルなので、入会も退会も、全く自由です。それでは、なぜこのような「研究会」を設立したのかと言えば、このような構想を創る事に「意義」を感じるからです。しかし、本当に「意義」があるかどうかは、わかりません。単なる私達の思い込みに過ぎないかもしれません。現時点では、この「意義」を保障するものなど、私達の「確信」以外にありませんので。 私達は、もしこのHPに興味をもたれる方がいるとしたら、核家族の悪い面に痛い思いをした方とそのような人の体験を知った人ではないかと思っていました。というのは、現在の核家族が、全て「機能不全」でダメというわけではありません。核家族でもなんの問題もなく育てられた方もたくさんいます。そういう方は、かつての私達のように、なかなかこのHPの趣旨を理解するのは、難しいのではないかと思っていました。しかし、そうした方以外からも問い合わせを頂き、大変ありがたく思っています。私(荒瀬)自身は核家族の出身で、父親が早く病死したため母子家庭で育てられたので、父親のいない核家族の経済的なもろさを経験しました。更に身近なところに核家族の「犠牲者」がいて、その人や自分自身の体験の意味を考える過程で「母系社会」に関心をもつようになりました。 私達は、余り組織というものが好きではありません。ですから、「研究会」とか名のるかどうか、大変迷いました。組織をつくると、どうしてもいわゆる組織悪が起きがちですし、万が一、他の組織と対立した時、過激な対応をとりがちになります。もちろん、単なる研究会なので、物理的な対立は起きようがないと思いますが、理念的、思想的対立でも、個人のレベルの対立とは異なる力が働いてしまうと思います。この点は、十分自覚して、誤まりがあれば、率直にあやまり、訂正するべき点は訂正しようと思います。 ですから、本当は組織めいたものはつくりたくはないのですが、しかし理想的な現代的「母系社会」の構想を、現在の私達だけでつくるのは力量的に無理なのです。荷が重過ぎるのです。それで多くの方の知識や知恵を結集するしかないので、このHPを造りました。 ところで私達は、母系社会を理念として支持する事と、実際に現時点の実生活で、母系社会的な家族をつくることは別だと思っています。ある一定の経済的環境と周囲の人々の深い理解なしに母系社会的な価値観を実行してしまうと、とんでもない不幸を周囲の人に与えてしまいかねないと思うからです。私達は、HPを読んでいただければ解かると思いますが、資本主義がとにかく嫌いです。どうしてもなじめません。しかし私達が現実に生きている社会が資本主義の社会ですから、これを無視しては、1日とて無事に過ごせません。私(荒瀬)は資本主義のル−ルを守って、というか正確には守っているフリをして生きてきました。しかし、このフリをし続けるのは大変難しく、前の会社には、ついにそのような本心を「鋭く」見抜かれてしまい、退職しました。もし現実社会を無視して、自分の資本主義嫌いを現実化したら、今日まで生きてこれなかったかもしれません。 ですから、余計なお世話かもしれませんが、母系社会を理想としていても、家族を持ったら、よほど恵まれた情況があれば別ですが、そうでなければ、普通の人と同じ家族をつくられた方が、よいと思います。もし私(荒瀬)に男の子供がいたとしたら、その子に母系社会の話をしても、あくまでも、理想の問題として話すだけにすると思います。もし実際に男だからと、財産を相続させなかったら、心の底からの理解は得られないでしょう。その男の子が私でしたら、やはり、心の半分では理解できても、もう半分は不満を持つと思います。その子が現実に生きてゆかなければならない実社会が、貨幣万能の資本主義社会だからで、母系社会の現実的な諸条件が整わないうちは、理念の問題としてのみ、この問題を扱うべきだと思います。 それでは、いつまでも母系社会は実現しないのではという方もいるかもしれません。個別的にであれ、母系家族を実際につくり、なんらかのネットワ−クで結ぶべきという方もいるでしょう。しかし、私達は、小さくとも経済的に自立した地域社会の大人の世代のほぼ全員が、母系社会的な習俗、価値観を共有していない限り、子供の世代にその母系的地域社会を引き継ぎ、存続させていくのはほぼ不可能ではないかと思います。 軍事的に壊滅させられた北アメリカや軍事的侵略と侵入者が持ちこんだウイルスにより、壊滅させられた南アメリカの母系社会を除くと、現在の世界中に実在している母系社会は、市場経済、貨幣経済が始まってからのこの何千年もの間、人口をすこしづつ減少させながらも、存続しています。特に父系社会が飛躍的に「経済的発展」をとげたこの数百年、母系社会は、一挙に消滅してもおかしくない情況に置かれているように私達には思えますが、そうなっていません。そうした母系社会の若者は、周囲の都市に出ていって定住し、都市の女性と父系社会的な家族をつくり、戻らない者もいるそうですが全員ではなく、出稼ぎ的に、都市に働きに行っても戻ってくる若者もいるので、少しづつ衰弱しつつも存続しているのだと思います。 ですから、都市と生活レベルがそれほど変わらない母系家族的地域社会ができれば、少なくとも女の子は、あまりその地域社会を離れないでしょう。母系社会の女性は、父系家族だと姑さんと暮らさなければならないのを一番、嫌うようです。若い女性が地域社会に残れば、若い男性も残ったり、外部から入ってくるのではないでしょうか。そして、その地域の仕来りとして、母系社会的な習俗、価値観が確固としてあれば、外部出身の男性もそのしきたりに従い、その母系社会は存続し得る可能性を獲得するのではないでしょうか。 もちろん、このような小さな母系社会は、周囲の父系社会からの、マスメディアなどによる日常的な父系社会的な価値観、思想の侵食を受け続けるので、場合によっては消滅してしまうかもしれません。これを回避するためには、逆に母系社会の理解者、支持者を父系社会の成員から獲得し、母系社会を拡大してゆくしかないかもしれません。あるいは、初めからそのような母系社会の強力なサポ−タ−組織を形成してから、母系社会的地域社会の建設に進むべきかもしれませんが。 とにかく、このような「研究会」に参加したからといって、現実に母系社会的な家族を作らなければならないという事はないと思います。そもそも私達自身でさえ、この構想を将来、放棄してしまうかもしれません。人間の考えることは、全て「暫定的」にしかあり得ないのだと思います。ほとんどの「確信」や「断定」は「幸せ」な誤解でしかありません。私達は「狂信」だけは避けたいと思います。余りにも「確信」や「狂信」がもたらす悲惨を見てきたからです。 |
7号「現代的母系社会の構想を」 荒瀬孝行{03年9月} |
9月20日発行「QUEST第27号」に私達の投稿が掲載されましたので、紹介します。「QUEST」は、現在の腐敗した資本主義に代わりうる<オルタナティブ>を模索する「オルタ・フォ−ラムQ」が発行する隔月刊誌です。 |
私達は、子供までが自殺する末期的な現在の日本社会の代替になり得る、理想的な現代的母系社会の構想の研究を呼びかける思考実験サイトです。 私達は、仕事を求めて都市から都市へと移住が容易な、現在の父系社会的な核家族は、市場経済がつくりだし資本主義が完成させた家族形態だと考えています。しかし、「先進国」の競争的市場経済下の父系社会的核家族は、既に3割近い離婚率やシングル族の増大で、崩壊し始めていますが、その崩壊過程で、多数の人間を「破壊」しかねない家族形態です。アダルトチルドレン(以下AC)の問題はこの象徴的な現象で、資本主義の拡大とともに世界中に蔓延してゆく深刻な問題です。私達はACの根本的な解決策を考える過程で、父系社会の対極としての母系社会の可能性を考えるようになり、母系社会的大家族社会に移行するしか、ACの根本的解決の道はないと思い至りました。ですから、私達は崩壊してゆく核家族の受け皿を用意しているともいえるでしょう。 私達は、資本主義の問題として今まで注目されてきた資本と労働の諸問題や環境問題などより家族、特に子供の養育問題の方がより深刻な事態ではないかと判断しています。というのは、ACは、崩壊してゆく父系社会的核家族の「機能不全」により生み出されますが、「ACの労働者」を想定した場合、労働者としての苦悩とACとしての苦悩を比べたら、ACとしての実存的苦悩の方がより深刻だからです。「機能不全家族」は、単に深刻な苦悩をAC自身にもたらすだけでなく、場合により「心の病」の発症まで引き起こす、大変深刻な問題なのです。 少子化問題は、女性の父系社会への無意識的な「生物学的スト」であり、父系社会の成立以来、数千年、あるいは数万年の時を経て、ついに始まった人類史的な父系社会から母系社会への回帰へ序曲となる女性の「反乱」ではないかと思いますが、この少子化により、数少なくなる労働力が、AC化による「心の病」や「ひきこもり」などで、更に減少し、必要な「労働力の再生産」が十分に出来なくなる父系社会、資本主義の自壊過程の一つかもしれません。ある有力なACの専門医師は、にわかには、信じがたいのですが、現在のアメリカと日本の家庭の80%は既に、子供をACにしてしまいかねない「機能不全家族」と推測しています。当面、「先進国」は少子化には移民の促進で対応するでしょうが、資本主義の拡大とともに、やがて不可能となります。中国でさえ、もうすぐ労働力不足になるそうです。 言うまでもなく、資本主義では、経済的効率がなによりも優先し、技術だけでなく、コストの削減-労働生産性の向上が全ての企業に求められます。この為、不況による賃下げで、 主婦の就労−労働力化が誘導されて、育児などの家事労働は最小限になるよう強いられます。政府は、少子化による労働力不足もあり、今後益々主婦の労働力化を国家的課題として強力に推進します。ですから、子供達の養育環境は、より劣悪となるのは必至です。競争を万能の特効薬であるかのように唱える政治家達は、その子供に教育での競争と重苦しい人生観を植え付け、ストレスのせいか、子供まで自殺するようになりました。子供が自殺する社会が過去にあったでしょうか。この子供の自殺現象や逆に子供の殺人は、現代の病んだ父系的核家族社会を映しだす鏡です。激烈な競争社会で有名なアメリカでは、子供の「うつ病患者」までいるそうです。日本にも既に子供の「うつ病患者」がいて、認知されていないだけなのかもしれません。最近よく報道される育児や老人介護関係の事件は、現在のような父系的核家族制に原因があるのは明白です。母系社会では家族単位の労働により、老人や幼児のいる母親も希望すれば、家族のきめこまかい配慮に守られて働けます。自分の家族からのサ―ビスに勝るものはありませんので、福祉社会の「他人による介護や養育」ではなく、公的機関の支援を受けつつも、「家族による介護や養育」の方がよいのは言うまでもありません。母系社会では、離婚しても父親的なオジがいるので、子供にとっての家庭環境はより安定的です。深刻な病気や障害のある子供を持つ親も、一族が世話をしてくれるので、自分達の死後の心配をしなくとも済みます。 様々な女性問題の解決は、父系社会という現在の社会の基盤的枠組みそのものが、この問題の発生源なので、母系社会の確立なくして根本的解決は不可能です。 多くの女性は、自分の親の介護ができません。また介護保険があっても、介護老人のいる多くの家庭が、主婦の超人的な努力でかろうじて支えられています。母系社会では育児も介護も一族が助け合いながら行います。女性も自分の親の介護ができ、育児や介護疲れが引き起こす悲劇も起こりにくく、これからの高齢化社会に最適です。また母系社会では「嫁」は死語となり、結婚しても親とともに生涯を過ごすので、やっかいな嫁ー姑の問題も起こり得ません。女性は人類の存続にとって決定的に重要な役割を果たすのですから、財産の女性相続制度で安定した環境を保障されるべきです。男性もこれにより、よりよい環境下で大切な子供時代を過ごせるのですから、一方的に不利というわけではなく、経済的に厳しい少年時代を母子家庭で育った男性であれば、このような財産相続制で自分の母親が守られていたらと思うのではないでしょうか。 私達の創る母系社会の構想は、あくまでも暫定的なものであり、構想後の変化は、あらかじめ予測し得ないので、常に見直す必要があります。また、母系社会が実現した後でも、更によい社会の実現を目指すべきでしょう。場合によっては、「母系社会」主義という理念そのものも、放棄しなければなりません。理念より現実の人間の方がはるかに大切だからです。 私達は、出来るだけ現代的な母系社会を目指すべきです。これまで人類が支払った労苦と犠牲を、無駄にしてはならないので、安全性やエコロジ−を研究する学者を大量に育成し、環境破壊を防ぎつつ現代的な母系社会を建設しなければならないでしょう。母系社会では子育てや介護を優先しつつ、仕事ができる環境が必要です。ですから一つの母系家族は集合して居住し、そこから楽に通える範囲にその家族が共同経営する仕事場がなければなりません。このような企業は、今より低い経済効率となり、激しい経済競争には耐えられません。ですから、経済的合理性を維持する為に市場経済システムを採用しつつも、他の経済システムが使用可能になるまでは、このシステムに厳しい制限を加えながら、使わざるを得ないと思います。この制限は経済競争を抑制する為だけでなく、母系社会の連帯性を維持し共生的社会を構築する為にも必要です。ですから、ゆるやかな競争の市場経済が必要な母系社会では、今以上に精密な経済計画が必要です。 その為には、日本だけでなく、国際的なレベルでも、様々な経済活動を調整する協議会を設立して、資源の浪費を防ぐ為にも日本と世界全体の経済活動を制御し、出来るだ競争が緩和された市場経済にしてゆく必要があります。現時点で私達が構想している暫定的な現代的母系社会のビジョンは、雇用労働を排除した母系大家族自身による中小企業群が経済の中心となる社会です。母系家族には、電力や船舶などを生産する大企業に勤める成員もいます。このような大企業が、雇用労働のない協同組合型の企業であれば、そこで働く全ての人々が経営に参加でき、現在のように会社から一方的にリストラされたりする事はなくなるでしょう。また、ゆるやかな競争の市場経済を実現するには、母系家族経営の小企業が「倒産」する前に、例外なく再建のための業種転換のアドバイスや金融、経営指導などの支援が十分に受けられる制度が必要です。この制度としては、大規模な複数の協同組合企業を中核に、様々な業種からなる巨大な全国的企業グル−プを複数設立し、これらのどれかに、希望する母系家族企業は所属できるようにして、その支援を受けられるシステムが考えられます。 また特許権も、現在のようにその開発者に独占的な使用権を認めるのではなく、希望する他企業へ有償での供与を義務づけて、極力全ての企業が生き残れる共存的な経済を目指すべきです。更にその特許の使用料も今よりも大幅に安くすべきです。なぜならば、その特許の開発のために使われる科学や技術的知識は、人類の先人達から無償で現在の人類全体に贈られた人類全体の共有財産だからです。また地域通貨も大規模に導入すれば、貨幣の獲得競争でもある経済的競争の緩和に役立つとともに、母系家族同士の協力関係の構築や地域社会の再建にも役立つでしょう。 私たちの「現代的母系社会」論は、最後の市場社会、あるいは社会主義社会の一歩前の社会として構想していますが、あくまでも過渡的な社会としての構想です。さらに市場経済を廃止した母系社会にまで、進むかどうかはその時の人々の判断にまかせるというのが基本的なスタンスで、現時点では社会主義については否定も肯定もしない立場です。今までの社会主義の構想は、無意識的にであれ、父系社会を前提にしてきたのではないかと思われますが、どうなのでしょうか。社会主義が母系社会の要素を取り入れた構想を持つようになったら、女性(やAC達)からのより強力な支持を得られるようになるのではないかなどと思いますが、どうでしょうか。 (http://www2.ttcn.ne.jp/~bokeishakai/) (母系社会研究会管理人) |
6号「最終的市場経済社会としての現代的母系社会」 {03年8月} |
1 父系社会と資本主義の最大の危機としての少子化 |
1 少子化現象の現状と政府の分析 現在、ほとんどの「先進国」で、人類史上初の事態と思われる少子化が進行しています。周辺国からの移民の流入が多いアメリカを除くほとんどすべての「先進国」の合計特殊出生率が、現人口の維持に必要な2.00を大きく割り込む事態となり、人口の急減による社会の衰退、あるいは崩壊を招きかねない深刻な危機として、各国政府を悩ませ続けています。吉本隆明氏によれば、個人消費が、60%以上を占める現代資本主義では、世界恐慌は基本的に起きないそうです。もしこの吉本説が正しいとすると、この少子化問題こそ、資本主義と父系社会の最大の危機ではないでしょうか。今のところ、各国政府は移民で対応しようとしていますが、資本主義の拡大とともに、周辺国も人口の減少傾向が始まるため、この対策にも限界があります。年間約60万人の移民が必要な日本の場合では、最大の移民の供給国と期待されている中国も、まもなく、労働力不足に陥るそうです。 日本の合計特殊出生率は、戦前から戦後にかけて低下しつつも、昭和30年頃から昭和50年頃までは、ほぼ現人口を維持できる2.00をやや上回る水準で推移していました。しかしそれ以後,今日まで低下傾向が続き、平成14年には1.32まで低下し、現人口を維持できる水準を大きく下回っています。この結果、日本の人口は2007年にピークに達した後、減少に転じ、2100年には現在の人口の約半分になると予測されています。この人口が半減し、高齢化が進んだ日本が、どのような社会になるのか、想像すらできません。 政府は、この少子化の影響として、高齢化社会の問題だけでなく、親が子供を溺愛したり、過干渉、過剰期待なども誘発しがちだとして、子供の健全な育成が阻害されるのではないかと、懸念しています。貴重な若年労働力が、期待される「品質」にならず、資本の自己増殖のために、必要不可欠な労働力としての機能の低下が起きると心配しているのです。この政府の懸念する事態は、父系社会的核家族の衰弱化、崩壊による家族機能の低下と、その結果、うみだされるアダルトチルドレン(AC)の問題として捉えるなら、同意できるのですが、父系社会の限界という問題意識がなく、またAC問題という視点のない政府は、単なる「親ばか」程度の問題としか理解できないのです。 また政府は、この少子化の主な直接的原因は未婚化、晩婚化による未婚者の増加であり、更に、この背景には、家事や子育ての負担感が特に女性に重く、仕事の継続との両立が難しい現状が女性に結婚や出産をためらわさせている、と考えています。政府も、男性は仕事、女性は家庭、といった性別役割分担意識が、まだ根強く残存していると考えているのです。労働生産性の向上のために、主婦の労働力化も課題としている政府は、一方で、企業の倒産や賃下げを放置しながら、保育園を増設して主婦を労働力化し、家庭の収入を補わせようとしています。こうして共働き家庭を増やし、経済的にも子づくりができるようにして、人口減少をくいとめようと、一石二丁を狙っているのです。 2 母系社会再建運動の最大の契機となる少子化 私達は、因果論を否定する立場なので、性的役割分担意識に「原因」のすべてがあるかのような政府の解釈は、否定しますが、無数の「原因」のなかの比較的大きな直接的「原因」としてならば、この政府の見解は、理解できます。しかし、私達の「母系社会」主義の視点からは、この性別役割分担意識とは、父系社会の中心的な価値観、文化そのものなのです。ですから、私達は、父系社会の性別役割分担論が、少子化を引き起こす比較的大きな直接的「原因」の一つと解釈し、女性達は、日本の父系社会を「無意識的」にであれ拒絶した結果、日本の少子化が起きていると考えます。 つまり、少子化問題は、女性の父系社会への「無意識的」な「生物学的スト」なのです。太古の母系社会の崩壊と父系社会の成立を、「女性の人類史的敗北」と規定できるのであれば、この少子化は、数千年、あるいは数万年の時を経て、ついに始まった「女性の父系社会への反乱」、つまり人類史的な母系社会再建運動の先駆だと私達は考えます。 では、女性だけが、この父系社会を嫌っているのかといえば、そうではありません。「先進国」の多くの男性にも未婚化、晩婚化として同様な傾向が現れています。この背景には、男性も父系社会的資本主義社会を疎ましく思っている事実があると思います。父系社会は、今日では、資本主義的競争社会化しているため、地域共同体は崩壊し、職場では常に競争を強いられ、いつ失業や犯罪、事故、環境破壊による様々な病気や災害に巻き込まれるかわかりません。ですから、このような日常化した「不安」が、女性ばかりでなく、男性にもこの社会を疎ましく思わせ、「厭世的」気分、人生観をもたらしているのです。 競争主義のアメリカでも、競争に勝っても、その勝者の地位を生涯、守り抜くといったことはせず、小金が貯まったら、早期に引退するのが理想と思う人が増えているそうです。アメリカ人でさえ、当然ですが、こうした資本主義的競争社会から生まれる様々な「不安」に耐えられないのです。このような心理による少子化が起こる契機となったのが、ここ一、二世紀の資本主義による高度産業化社会の成立です。この近−現代的産業社会の成立により、子供の多産が労働力の確保として、生活の維持に必要な条件ではなくなったことが、皮肉にも人口の減少による資本主義自体の没落を招く結果となっているのです。 様々な「不安」や「厭世的」気分、人生観に捕らわれた大人達が、自分の子供を、このような「不安」だらけの世の中に送り出したくないと思うのも、自然な心理でしょう。そのような人々は、子供をつくらないようにするか、最小限の子供だけですますようになるでしょう。おそらく、少なからぬ数の日本人が、近代以前の社会でも、なんらかの「厭世的」気分、人生観から、子供をつくるのを、本音では、ためらったのではないでしょうか。しかし、農業が中心的な産業の社会では、多産による労働力の確保が、生活の維持に必要でしたので、この心理は、抑制されざるを得なかったのです。 近代化により、多産が親の世代の生活の維持の条件でなくなった時点で、この心理を抑制をする必要がなくなりました。それに、避妊方法が普及したので、必要最小限の数の子供をつくるか、もしくは、少数ながら敢えてつくろうとはしない人までが出現したのです。十分な児童手当は、母親が、自ら子育てをするために必要ですが、フランスでは、児童手当を相当増額しても、少子化に歯止めがかかりませんでした。この例が示しているように、最近の高い教育費などの経済的な問題だけでなく、人々の「厭世的」気分、人生観も少子化を進行させている比較的大きな原因の一つなのです。 また、父系社会が、少子化の「原因」となる契機としては、父系社会への女性の適応としての女性の「男性化」の問題もあります。男中心社会である父系社会では、女性も「男性化」しなければ、男性と対等になれません。そこで、子づくりをあきらめて、キャリアウ−マンになったり、兵士になる女性まで出現しています。この父系社会における「女性の男性化」は、必然と言っても過言でなく、少子化の「原因」にもなっているのです。 人は解決可能な問題しか、課題にしないとよく言われますが、資本主義を支持する政府には、この人生観や女性の「男性化」の問題は、父系社会と資本主義を否定することになりかねないので、指摘することすらできません。つまり今の政府には解決不能な問題なのです。政府の少子化対策は、次々と失敗し、いつの日か政府も、母系社会の再建しか少子化−人口減少を食い止める方法がないと思い知る時がくるでしょう。ですから、少子化−人口減少は、母系社会再建運動の最大の契機となるのです。 3 政府の少子化対策批判 政府は、母系社会的な価値観でもある男女が共に家庭や地域の責任と仕事を両立できる多様な働き方、生き方を提案しています。しかし、激烈な競争社会そのものを問題にしていないため、空論でしかありません。会社員はリストラ覚悟でないと、本気で「地域の責任」を担うことなどできないからです。 更に、母系社会的な価値観ヘとつながる家事や育児への男女共同参画の推進が、提起されていますが、やはり、これも労働者が余暇の時間を、自己啓発の勉強に当てないと、いつリストラされるかわからない状態に置かれているので、限界があります。大半の共働きの家庭は、たとえ夫が家事や育児に協力しても必要最小限の子供の世話をするのが、精一杯でしょう。子育てを社会全体で支援しようとしても、地域社会が、成立していなければ無理です。知らない人に子供の世話を頼む人はいません。 また、次に子どもたちも伸び伸びと楽しく成長していける環境整備を提起しています。これも、競争社会下では、無理なのは明らかです。幼児の時から、英会話教室に通わされている子供がいる状態でどうして、伸び伸びと楽しく成長できるのでしょうか。幼児教育は、幼児本人が本当に望むなら別ですが、この見極めは大変難しいのではないでしょうか。幼児には、親から見捨てられないよう、親の意向にそうように心理的規制が働くので、例え本人がなんらかの幼児教育を望むと言っても、にわかには信じられないのです。そして、苦痛でしかない稽古ごとの強制は、場合により子供の心理面に、大変悪い影響を与えるのです。 低年齢児保育(0歳から2歳)など需要の多い保育サービスの整備や多様で「良質な保育サービス」の効率的な提供を政府は推進しようとしています。現在、保育所を利用している約180万人の幼児の内に、60万人位の0歳児から2歳児がいるそうです。このうち0歳児がどのくらいいるのか、わかりませんが、政府は0歳から2歳までの低年齢保育を更に増やそうとしています。 吉本隆明によれば、この0歳から2歳までは、2つの無意識の「層」ができる期間にあたり、特に0歳までは将来の「心の病」の発症に関わる大切な最下層の無意識の「層」が形成される、極めてデリケ−トな時期なのだそうです。勿論これも、仮説ですが、その可能性がある以上、少なくともこの0歳の時期は母親自身が世話をすべきだと私達は考えます。ですから、働きながら、子育てもできる母系社会が実現していない現時点では、次善の策として、保育所への補助金の支給でなく、十分な児童手当を必要とする親自身へ支給すべきだと思います。 政府はまた、児童・生徒・学生・若い世代・社会全体に対し男女共同参画の視点や子育ての楽しさなどについて広報・啓発を行い、また、体験の機会を提供することを提案しています。この提案に反対する理由はありませんが、同時にアダルトチルドレン(AC)についての知識や、子供をACにしないための子育ての仕方、「親業」についてまで、広報すべきでしょう。そうすれば、すでにACとなってしまった子供達の苦悩を軽減でき、将来のACの発生を最小限にできるからです。 政府の少子化対策は、根本的に労働力としての人間を増やそうとしているだけで、日本の大地に生まれた者、暮らす人の幸せを考える立場ではありません。少子化の最大の原因が、現在の資本主義社会そのものであるのに、意識的にかもしれませんが、気がつきません。政府の政策は、少子化の進展を緩和できるかもしれませんが、人口の減少は止められないでしょう。根本的な解決策は、人々が安心して暮らせ、人生が心の底から楽しいと思える社会をつくるしかないのです。 4 その他の母系社会化の契機、原動力となる諸問題 この少子化の問題以外にも、母系社会化の契機となる問題、母系社会化を私達に促す課題はたくさんあります。直接的な問題では、子供の養育の問題、つまりACを生み出さない「健全な養育」環境の確保の問題や引きこもりの問題、あるいは老人や重病人、障害者の生涯介護問題、女性問題、離婚などによる家族崩壊問題など家族関係の諸問題があります。また、間接的には、資本と労働の対立、矛盾、つまり雇用労働をなくし、人間の労働力商品化を阻止する問題や環境破壊問題、犯罪防止なども、株式会社を禁止し、協同組合型企業へ転換させ、他は家族経営型の企業だけとなり、更に市場経済下の競争を抑制する母系社会化によりある程度の解決が出来るでしょう。 |
5号 「乳幼児を育てる親へ、十分な養育補助を」 {03年7月} |
「将門WEB」内の周の掲示板への再反論 母系社会研究会 管理人 |
周の掲示板での私の書きこみに対する荻原氏をはじめ、多くの方の「反論」がありましたので、その件につき、ここで再反論をしたいと思います。 私は、これまでの体験から、どちらかと言えば、親の立場より、子供の立場で物事を考えます。これは、私の明らかな弱点ですが、現時点ではあいかわらず、社会的に子供の立場からの発言が弱いので、バランスをとるために当分はよいのではと思っています。ですから、本当に子供の立場に立っているのかどうかが、私の不安です。このような立場なので一般論として世の親達から反発をうけるのは、覚悟しています。ほとんどの親が、真剣に子育てしているのであり、可能な範囲で子供によかれと思ってと様々な努力をして育てています。萩原氏達の批判もほとんどが親の立場からの批判でした。 しかし例の神戸の事件が起きた時、多くの子供達が、同世代の「犯人」の気持ちが理解できると答えていました。もちろん、共感めいたことを言っても、同じような事を実際に実行する子供はいません。私は特殊な要素を含むかもしれない個別の「犯行」自体の解明よりも、このような多くの子供達が共感を示した事実の方が、はるかに重大だと思います。本当に共感したのか、あるいは、大人達に理解してもらえない自分たちの苦悩の存在を、間接的に訴えたのか、よくはわかりませんが、なんらかの重大な齟齬が大人と子供の間に生じているのは確かでしょう。これ以外にも子供の自殺などの問題もあり、これまで、これが当たり前だとか、こうする他にないとか、様々な親の立場、大人の立場から、子供達にしてきた事を全て根底から見直さなければならない段階に、私達はいるのだと思います。 まず、「アダルトチルドレン(AC)」の件ですが、荻原氏のような方まで、「動物占いとかわりない」と思っているとは残念でなりません。あらためて、今だに、この概念を誤解されている方が多い事に気づかされました。そこで、この件から、再反論を始めたいと思います。 まずこのACの問題を考える前に、一つ確認しておきたいことがあります。それは、精神医学はまだ、全体的に発展途上の理論や技術ということです。精神医学界は様々な流派に分かれ、さらに各派の主張も短期間で修正されたりしています。ですから、私はAC派の理論や吉本隆明氏の無意識の理論を基本的に支持しますが、この二つの理論も、今後さらにより洗練された理論に発展してゆくでしょう。私の考えでは、この二つの理論は、今のところ全く別々の理論として形成され、それぞれ独自の発展をしてきましたが、核となる理論は、それぞれ補完し合う関係にあり、矛盾しないと思っています。ですから、いつかこの二つの理論が統合されることを期待していますが、いずれにせよ精神医学自体が、発展途上の理論なので、細部では修正すべき点もあるかもしれませんが、その核となる部分で、まず評価して頂きたいと思います。 ACの概念が、現時点では多くの人々にとって誤解されやすい概念であるのは事実です。というのは、ほとんど全ての人がなんらかの親との葛藤、確執とそれから生じた心の「傷」を成長の過程で負います。しかし、元々その「傷」が浅い人は、医者のサポ−トを受けなくとも自己努力で癒せたり、自らの成長により、親の気持ちが理解できるようになって自然に消せます。そのような人は、その「傷」のせいで長期間、深刻に苦しんだり、場合によっては病的症状がでるようなことはありません。ですから、そうした自己の経験に照らし、ACをその程度の親との葛藤の問題として、つまり誰にでもあてはまる「動物占い」の類の問題として理解してしまう人がいるのです。 これは「対人恐怖症」についての認知とよく似ています。対人恐怖的な心理は多かれ少なかれ誰にでもありますので、初めてこの「病気」を知った人は、それが「病気」とまでいえるのかと疑問に思うのではないでしょうか。しかし、対人恐怖から、家から出られなくなったり、電車やバスに乗れなくなる人がいると知ると大半の人は「病気」だと納得すると思います。ACは病名ではありませんが、この「対人恐怖症」の認知の場合とよく似ています。親との深刻な葛藤、確執を経験した結果、深刻な苦悩を抱え込み、長年苦しみ続ける人が多数、実在するのです。場合によっては、その確執が主因となって様々な「心の病」を発症したり、発病しなくとも、自己治癒できるレベルの苦悩ではないため、回復するのに医者やあるいは同じ仲間達のサポ−トが必要な人も多数、実在するのです。私は因果論を否定する立場なので、ACが生まれる原因の全てが親子関係だとは思いませんが、それが主因であるのは、まちがいないと思います。 私には、不眠症をわずらっている身近な者がいました。私はなぜこのような症状がでるのか、様々な心理学関係の本を読み調べました。そして斎藤学さんの本に出会ったのです。その本に書かれているアダルトチルドレン(AC)は、私の身近な者がモデルではないかと思うくらい、生い立ちや性格、病的症状まで、そっくりで本に書かれているとうりでした。私は、ACについて本人に話し、都内にある幾つかのAC達の自助グル−プに連れてゆきました。そこで私は出会ったACの人々から様々な体験を聴き、ACの実在を確信しました。彼らはACの日本での紹介者であり、治療の第一人者である斎藤学氏の本に書かれているとうり、何らかの深刻な家族関係のトラブルが生み出す深刻な苦悩を背負い、多くの人がひきこもりや不眠などの様々な症状も抱えていました。そして彼らは、当時もACが様々な誤解を受けていることを嘆いていました。 私の理解では、ACの典型的な回復過程は、まずACとしての自覚から始まります。彼らは、ACを知るまで長期間孤立し、なぜ自分が「変わっている」のか、なぜ様々な症状がでてしまうのか解からず、自分自身の資質、素質に原因あるのではないかなどと考えて苦悩しています。ところが、誰でも自分と同じような家庭内での経験をすれば、同じような苦悩や症状を持ってしまうのだと気づき、まず自信を、自尊心を取り戻します。この段階では、親に対する憎悪、違和は残りますが、次の段階として、自分が憎悪している親も子供の頃の親子関係に問題があった自分と同じACではないかと気づき、この自覚が親を許す契機になるのです。最終的には、親の親の問題、更にその親へと繋がる問題で、家風あるいは、子育てや家族関係についての文化の問題として考えられるようになります。 また、誰もが自分が育てられた様に自分の子供を育てがちですので、ACの場合も、ACとしての自覚があっても、自分自身の回復が十分でないと、ついつい子供に辛くあたってしまいます。ですからACの親達のための自助グル−プもあります。もちろん長年心にしみついた様々な恐怖、嫌悪感などや、特に親、あるいは兄弟に対する憎悪や逆に憎悪している自分自身に罪悪感を感じる苦しみはそう簡単に消えるものではありません。このようなACの問題を理解していても、どうしても親を許す事ができないため、親との関係を完全に断ち切ることで、心のバランスを取り戻す方もいるようです。親が住む日本ではどうしても生活したくないと、海外移住を目指す方さえいるのです。AC達は、ACとしての自覚から回復の過程をスタ−トし、様々な長い長い心理的葛藤を経て、少しずつ心の傷を癒し、心のバランスをとりもどしてゆくのでしょう。 どのくらいACが日本にいるのか、統計がないのでわかりませんが、アメリカと日本で治療の経験があるACの専門家の西尾和美氏は、現在のアメリカと日本の家族の約80%が、ACを生み出す可能性のある機能不全家族と推定しています。(機能不全家族・講談社・西尾和美)専門外の私には、にわかに信じられない数字ですが、たとえその半分だとしても、大変な事にかわりはありません。全てのACが発病するとは、限りませんし、発病しなくてもAC達の苦悩は大変深刻ですが、もしなんらかの「心の病」を発病する場合は、成人前後になってからが多いようなので、もしそうだとすると将来、大きな社会問題となるかもしれません。AC派ではありませんが、青春期、青年期の精神病理を専門とする精神科医の磯部潮氏は、すでに「人格障害者」が日本に約500万人ぐらいいて、増加しつつあると推測しています。またこの中の約50%を「境界性人格障害者」が、約20%を「回避性人格障害者」が占めるとその著書(人格障害かもしれない・光文社新書・磯部潮)で磯部氏は推測しています。 この「人格障害」というアメリカ直輸入の考え方も仮説であり、「病的」かどうかは別にして、人格に「障害」のない人はいないと思いますが、この二つの「人格障害」の実例として磯辺氏がとりあげている例は、どうみても私にはACとしか思えません。ですからこの2つのグル−プに、相当数のACがいると私は思っています。また、「ひきこもり」の子供を持つ親達が集まって創った団体では、全国の「引きこもり」の数は100万人ぐらいと推測しています。この「ひきこもり」にも、数多くのACがいると私は思っています。私が出会ったAC達の多くが、「ひきこもり」傾向がある人々だったからです。斎藤学氏は、ACが様々な問題を克服してゆくためには、医者の力だけでは不十分、限界があるとして、AC自身により運営される自助グル−プの活動を重視しています。そして自らAC達の自助グル−プを積極的に援助しています。インタ−ネットのAC関連のサイトは、数十ありますし、すでにほぼ全国にACの自助グループができています。 私の「このような保育所があると、子供をもつ環境がない人まで、子供を持とうとしてしまいます」という書きこみを「貧乏人は子供を作るな」「堕胎しろ」と事実上、言っていると解釈して、荻原氏達は非難していますが、そのようなことを他人に言う資格がある人はこの世にいないのは自明です。ですから、なぜ荻原氏達がそのように解釈するのか理解できません。このような自明で前提的な問題まで敢えて断らなければならないのでしょうか。もしこのような自明な事を配慮せずに解釈してもよいなら、荻原氏達の言辞は、逆に「人はどんなに貧しくとも、中絶すべきではない」と主張しているとも解釈できます。このように解釈すると、貧困でやむなく中絶した人まで否定することになってしまいます。 先述の西尾氏は、何千人ものAC達の治療に携わる中で、あまりにも子育ての知識のない親達が多い事に気づき、ACを増やさないためには、まず、親に子供の養育の仕方を教えなければならないと思ったそうです。そして、どのような親の言動が子供を傷つけるか調べ、親となる人のための子育ての知識をまとめたのが先述の西尾氏の本です。私のこの書き込みは、この本を念頭に書きました。西尾氏は、この本の第一章の「子供が健全に育つための環境を」というタイトルの文章で、子供が問題や障害をもつようになるのは、「生まれた後の環境」の影響が一番大きいので、親は自分自身が抱える問題を解決し、子供の養育のテクニックを身につけて、子供が健全に育つ環境をつくるべきだと訴えていますが、私の「環境」とは、この意味での家庭環境のことです。 ですから私は、ACのことを子供達に中学までの義務教育で教えるべきだし、更に全ての高校生に、西尾氏の子育ての知識を整理した「親業」についての講義や、吉本氏の無意識論の講義を受けさせたり、様々なマス媒体を活用して、全ての大人にもACや「親業」についての知識、吉本氏の無意識論を、伝えるべきだと思います。このような知識は、ACをつくりだす親達を一人でも少なくするのに役立つばかりではなく、すでにACになってしまった子供達の苦悩をも、かなり軽減できるのではないでしょうか。 私は、豊かとはいえない家庭で育ち、小学生の頃から、家の仕事の手伝いをほとんど毎日していました。社会の大多数が貧しかった時代だったからかもしれませんが、親が、この貧しさのせいで、イラついて私達子供にあたりちらすといったことはありませんでした。今から考えるとこうした手伝いをしていたので、家族内での私の存在意義を確認でき、自分が無価値な存在だとか思い込まずに済んだのかも知れません。このような育ち方をした私は、適度な「貧しさ」は子育てには、悪くない環境とさえ思えてしまう場合もあります。ですから、一般論として、「貧乏人は子供を作るべきでない」などと言うつもりは全くありません。そもそも、このようなあからさまな発言を私は、聞いたことも読んだこともありませんし、また公言する人がいるとはとても思えません。そのようなことを言えば、どんな人でも信頼を失うのは明らかだからです。荻原氏達は、このような言辞を見たり、聴いたりするらしいのですが、私にはとても信じられません。 「たいした根拠もなく」私が保育所に反対しているとの批判ついてですが、保健所に賛成する荻原氏達にも、各人の個人的な経験しかないので「たいした根拠がない」のは私とそれほどかわらないでしょう。荻原氏達の場合は何の問題もなかったそうなので、幸いと言うほかありません。しかし、喜んで子供を保育所にいれている親は、ほとんどいないのです。皆不安に思いつつも、仕方なく保育所を利用しているのだと思います。ですから荻原氏達の場合、問題がなかったからといってそう簡単に、この問題に賛成するのはどうでしょうか。親達の不安は根拠がないのでしょうか。0歳児保育が当たり前となり、裕福な家庭の子供以外はほとんど全て、0歳児まで保育所で日中は育てられるようになったら、どうでしょうか。 吉本隆明氏によれば、胎児期も含めて、一歳未満までの乳幼児期は、幼児にとって、三層に分かれる心の世界の最根底の無意識を形成する特別に大切な時期なのだそうです。(ハイ・イメ−ジ論、母型論、「マリ・クレ−ル」1991年5月号)母親達の微妙な精神状態まで、胎児時代から刷り込まれて無意識がつくられ、その形成のされ方が、その後の様々な心の病の発症に関わるのだそうです。要するにこの期間、母親は安定した精神状態で乳幼児を大切に育てれば、健全な無意識が形成され、子供は将来、心の病を患うこともなく、様々なストレスにも耐え得る人間に成長するのだそうです。その後の幼児期までの母親やその他の養育者との関係性が、二つ目の無意識の層を形成するそうです。これらの二つの無意識の層に蓄積された様々な記憶は、その後の人生に強い影響を及ぼすと考えられますので、これらの胎児−乳幼児期が、人生の中でも特別に重要な時期となります。 現在、生産コスト削減のため、労働生産性をすこしでも向上させようと、国家間、企業間で激しい競争が続けられています。労働力となれる人は全て働かせる国がこの競争に勝つのです。ですから、政府は企業がリストラや賃金引き下げで、国民が共働きしなくては生きてゆけないようにしても、放置しています。またマスコミも、リストラを自然災害のようにみなして、容認しています。政府は共働きを希望する夫婦の間に保育所の需要をつくりだしながら、それをかなえて国民の支持を得ようとさえしているのです。選挙になれば、保育所の増設を成果として宣伝するでしょう。最終的には、母親を家事や育児から「開放」し、一分でも長く会社で働かせた国が、この競争に勝つのですから、大量の0歳児が保育園に預けられる事態は、空想事ではありません。女性の「生物学的ストライキ」、父系社会への適応としての「女性の男性化」の結果としての少子化による労働力不足の問題もあり、これは現在の資本主義、競争的市場経済の論理的必然なのです。全国に小学校と同じくらいの規模と数の0歳児用の保育所ができたら、どこでも、荻原氏達の保育所と同じレベルの保育がなされるとは、限りません。 どう考えても一人の母親が一人の乳幼児でなく、一人の保母さんが二人、あるいは、三人などの複数の乳幼児の養護することで、このような施設は経済的に成り立つわけで、一人の子供へのサ−ビスは、時間つまり量的には二分の一、三分の一にならざるを得ないのは明らかです。もちろん実際は、複数の、例えば二人の保母さんが、四人の乳幼児の世話をする場合では、同時に二人までの世話はできますので、ニ対四でも二分の一以上のサビ−スはできるのですが、同時に三人の乳幼児が泣き出したら、一人は後回しにせざるを得ません。このような時期に保育所などで、組織的に育児をするようなことは、長い人類史の中でも極最近までなかったのです。一歳未満の乳幼児が、このような状態で、育てられたらその心にどのような影響が起きるか、誰にも確かなことはいえないはずです。 この時期に形成される無意識は、今のところ修正ができないと考えられているのです。ですから、私はこの問題にかぎらず、どんな場合でも大きな被害が起きる可能性が多少でもあるなら、私は万が一のことを考えて、どのような利便性があろうとも、そのような危険性のある事はしないほうがよいというのが、私の判断です。このような育児方法の人への長期的影響が解明され、安全だと確認されるまでは、少なくとも一歳未満の乳幼児は母親が直接そだてられるようにするべきだと思います。一歳未満の乳幼児まで預かるような保育所は、親がいない乳幼児や、親の役割が果たせない人の乳幼児などのための例外的な施設以外は、造るべきではないと思います。このような保育所をつくるよりも、全ての母親が安心して自分の子供を直接育てられるようするため、支援が必要な母親には十分な乳幼児の養育補助金を支給し、様々な社会的制度を整えるべきでしょう。現在の政府は少子化による労働力不足を補い、労働生産性を向上させるため、主婦の労働力化を推進しようとして、乳幼児の養育のための補助金を支給するよりも、より効率的に、つまりより安い費用で乳幼児を養育できる保育所をつくり、このような補助金の支給はしないでしょうが。 私は、父親が極力子育てに協力しつつも、母親は子供が生まれたら少なくとも一年間は、子育てを最優先にするべきだと考えています。しかし、経済的な理由ではなく、女性の社会的な自立の観点から、子供が一歳になる前でも、一歳未満の乳幼児を預かる保育所があるなら、そのような施設に子供を預け、仕事を再開したほうがよいと考える女性もいるかもしれません。しかしこのような思考は、女性が社会的に「不利な立場」に置かれる父系社会で生きているため、生み出される思考です。母系社会では、女性の社会的自立などということは問題にならず、むしろ、男性の社会的な自立の方が、社会的課題となるかもしれません。ですから、財産を全て女性が相続する母系社会を造るのが、この女性の問題を解決し、母親が経済的にも安定した環境で、安心して育児に専念しうる唯一の解決策ではないかと考えているのです。女性がこのような環境で子育てできれば、私達男性も豊かな子供時代を過ごせ、無意識に傷をつけられたり、ACなどにならずにすむのです。ですから、母系社会は女性のためだけでなく、男性にとってもよい社会ではないでしょうか。 |