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母系社会研究会
現代的母系社会のビジョン研究サークル
 私達への疑問と答え
 私達は独善的な正義派ではないかとの疑問
私達は、母系社会の構想の構築を目指す私達SMSが「善」か「悪」かどちらなのかと問われれば、「善」だと答えるでしょう。しかし実は一方で私達が本当に「善」であるかどうかは、わからないとも思っています。

というのは全ての事象が他の全ての事象に質的な違いはあれ、相互に関係している全関係的な現実の世界では、一つの事象の関係性は無数にあります。現代的母系社会という事象の正確な評価は、その対象が持つ全ての関係性について正確に把握しないと出来ませんが、それが構想としてしか存在しない現在、神ならぬ私達人間にはその全ての関係性をあらかじめ把握するのは不可能だからです。

ですから、私達は母系社会の一部の関係性だけを検討、評価して暫定的に「善」だと「確信」し、一方で、この「確信」が正しいかどうかは本当はわからないという、二つの矛盾した「確信」を持っているのです。しかし、同時にこのような矛盾した確信を持つことは、誤りであるよりも、むしろ私達の判断能力が正常な証拠とも思っています。そしてこのように矛盾した「確信」を持ち続けられれば、私達が独善や狂信に陥るのを防げるのではないでしょうか。

このように私達は、母系社会の一部の関係性だけを検討して暫定的に「善」としているに過ぎません。ですからもし母系社会が実現できたとしても、予想外の問題が出現するかもしれないので、場合により母系社会の構想そのものを全面的に放棄しなければならないかもしれないのです。

サリドマイド剤のように、安全と思われていた薬に思わぬ副作用が見つかり、一旦は使用禁止になっても、次に抗がん剤としての効果が発見され、また薬と見なされるなど評価が二転三転する場合もあります。ですからあらゆる評価は本当は暫定的な評価で、このサリドマイド剤も将来やはり別の副作用が見つかり薬としては使用されなくなるかもしれません。薬だとか毒だとかの評価は、一部の関係性だけからの評価です。

しかし現実の問題としては、私達は病気になれば、その時点での暫定的であれ「原因」を特定し、副作用を心配しつつもその「原因」に効果があるとされる薬を使用するかしないか、どちらか一方を選択しなければなりません。ですから現在の病んだ社会を治療する処方箋として、「副作用」は必ずあることを自覚しつつもこのような選択の問題として、私達は母系社会という「クスリ」を試してみようと提案したいのです。

全てが全てに相互に関係し合っている全関係的なこの世界では、すべての事象の原因も結果も本当は無数にあり、その原因の一つ一つが同時に結果でもあり、その結果は同時に原因です。つまり何かの一つの事象の原因を求めてもその原因は別の事柄の結果で、さらにその原因を求めてもこの繰り返しで最終的には真の原因は「ビックバン」か「天地創造」に求めるしかないでしょう。要するに真の原因も、同様に真の結果もわからないのです。

私達人間の日常の認識、判断は常にある特定の原因がある特定の結果をもたらすという因果論的認識であり、本当は誤りです。一部でこの因果論を克服しようとする動きがありますが、まだ科学でさえも、この限界を超えきれてはいないのではないでしょうか。いまのところ人間に可能なのは時間的、空間的に限定した範囲内での比較的主要な原因(関係性)をさがしだして検討する事ぐらいなのです。

私達は、母系社会がどのような結果をもたらすかは、あらかじめ知る事ははできません。私達は本当のところ、「善」あるいは「正義」かどうかわからないのですから、批判に対しては常に謙虚でなければなりませんし、母系社会という理想を狂信して、反対者に暴力を行使することは野蛮以外の何物でもないと思います。歴史上、「正義」と思われていた事が、「悪」になってしまった例は数え切れないほどあるのですから。

現状を改革し理想を求める運動は、多くの「善」を生み出しましたが、時には意に反して想像もつかないほどの「悪」も生み出しました。また一部の運動は単なる社会制度の改革だけでなく、人間の変革を目指しました。私達はこのような人間自体を変えようとする運動の動機はわからないではありませんが、やはりどのような「すばらしい人間像」を目的としていても、すべて誤りだと考えます。

理想主義的運動は社会制度を、人間同士の関係の仕方だけを変える事を目指すべきです。ですから母系社会では、社会として特定の人物や人間観を推奨したり、その人間観で人を序列化するような事は、絶対にしてはなりません。これらの問題は文学などの芸術や宗教の領分で、個人が自主的に判断すべき事柄だからです。

人間は誰でも心と生活に「余裕」があれば、「善人」と呼ばれる人になるし、また誰でもその「余裕」がなければ、時には「悪人」と呼ばれる人になってしまう存在で、よく言われるように生まれながらの「悪人」や「善人」などどこにもいません。

「善人」とは「善人」として生きられる恵まれた関係性のなかで生きてこられた人の事です。ですから親鸞の言うように本当は人は皆、普通の人でこの世に「善人」などという特別な人はいません。「善人」だと自分を特別視する幸せな勘違いができる人と、逆に「悪人」だと不幸な思い込みをせざるを得ない人がいるだけです。

要するに人々が心と生活に「余裕」のある人生を生きられるかどうかが大切で、母系社会はこのような「余裕」のある生活環境の形成を最大の目的にするべきだと思います。

私達は、現在のあるがままの人間を肯定し、変えなければならない点など何もないと思います。人間の関係の仕方さえ変えればよいのです。

北欧などの福祉社会を理想としている方からの疑問
私達がとりあげてきた様々な問題を解決する、より現実的なプランとして北欧などの高度な福祉社会の実現を考えている方が多いと思います。しかし残念ながら、過渡的にはよいのですが最終的な理想像とは言えません。

なぜなら、老人介護や育児の問題ですと、自分で自分の親や子供の世話すれば、介護や育児をされる親や子供の方も一番よいのは言うまでもありません。しかし単なる福祉社会では、親と離れて生活している場合は親の介護は他人にさせたり、親が働く為に子供の世話の一部を他人にさせたりします。この時、場合によってはその費用を稼ぐために他人の親や子供の世話をせざるを得ないという根本的な欠陥、矛盾があるからです。

自分の家族からのサ―ビスに勝るものはなく、誰が老人介護をしようと社会全体としては経済的には同じ「負担」なのですから、サービスを受ける側の人々の気持ちを考えて、公的な機関の援助を受けつつも、基本的には家族自身が介護や養育ができるシステムのほうが優れているのは言うまでもありません。もちろんなんでも自己責任で、社会福祉制度が貧弱なアメリカなどより、よほどよいのは言うまでもありませんが。

他人に自分の子供や親の世話をしてもらうためには、収入の中から、その費用を支払らわなければなりませんのでその分、可処分所得は減ります。つまりその分貧しくなります。この問題で日本の今後の税金や年金、健康、介護保険料は大幅に上昇し、可処分所得は減り続けるのは必至で、将来は所得の50%以上が控除されるそうです。

どのくらい控除されるか、その程度にもよりますが、同じ程度に貧しくなるのならば、母系社会の方がよいのではないでしょうか。母系社会は、仕事より家族を大切にする社会で、職住接近の大家族で暮し、家族の全員で助け合って、自ら自分の子供や親の世話ができる社会だからです。
    家族は自然にしか変えられないという疑問

家族制度は、長い年月と様々な問題が複雑に絡み合いながら自然に変わっていくもので、人為的には変えられないというのが常識でしょう。しかし現代は、資本主義的市場経済が世界の各地で、伝統的地域社会の父系、あるいは母系大家族制を破壊し、急速的に核家族制へと移行させている時代です。

言うまでもありませんが、人間にとっては生ることが第一ですので、生活を支える経済システムの要求は絶対的な命令となります。ですから人間は家族制度のような社会の基本的仕組みさえも経済制度に適合するように変化させてきたのです。

このように、経済システムには人間にとって根本的な家族制度さえ変える力がありますが、逆に経済システムを破壊しなければ、どのような家族制度でも構築できるのです。ですから、この生命維持装置である経済システムを破壊しないように改良し、つまり母系社会の家族制度に経済システムを適応させられれば、母系家族制度も実現出来ます。母系社会が存続出来るレベルまで競争が制御された市場経済に、ゆっくりと変化する経済社会に、移行してゆけば、母系社会の構築は可能なのです。

どのように母系社会を創るのかという疑問
様々な広報活動と実験的であれ実際に「母系社会」を建設する活動で母系社会は創出されるでしょう。まず、インタ−ネットの活用や出版活動により、私達の母系社会のビジョンを社会に広め仲間を増やしてゆくのではないでしょうか。日本国中に私達の仲間、会員の組織ができるように努めるだけでなく、さらに海外にも広め、自国で同じような活動をするように促していくとともに現在でも世界各地に残る既存の母系社会を訪ね、交流を図り、その経験に学ばねばならないでしょう。

この過程でも常に、どのような母系社会を目指すべきか検討して極力、構想の精度を高めなければならないでしょう。だだし必ずしも日本の母系社会の構想が一つのタイプに統一される必要はありません。むしろ様々なタイプの母系社会があった方が、より良い母系社会をつくるための様々な情報、経験が得られのでよいかもしれません。

ですから目指す母系社会のタイプ毎に、母系社会運動体が地域などにより分立してもかまわないのです。様々な論争が起きるかもしれませんが、母系社会を支持する人々を拡大するためには、様々な母系社会のプランが存在した方がよいのです。一つだけだと、母系社会のイメ−ジが固定され、そのタイプを支持できない人々は父系社会に留まってしまいます。

ですからより多くの母系社会のプランがあり、一つのタイプがうまく行かない場合でも、代替プランがあれば母系社会の火を消さずにすみます。できればそうしたグループの連合体が創られ、共通の問題に共同して対処できた方がよいでしょうが。

このような過程で自然に、「母系社会」主義者どうしの家族が形成されるでしょう。この初期的母系家族から様々な経験を学び、それを母系社会のビジョンに採り入れ、常に既存の構想、理念を見直してゆかなければならないと思います。また、同時に母系社会を目指す運動体としても、これらの仲間の母系家族の産品の購入などで経済的に支えるなど様々なレベルで支援し、その維持に努めます。

また組織の活動としても条件が整い次第、積極的に母系家族を創るため、パ−トナ−をさがす仲間達の支援もおこなうでしょう。また、これらの母系家族が出来るだけ雇用労働ではなく、自営業により経済的に維持、自立できるように支援してゆきます。やがてこれらの母系家族が集中して居住する地域の形成も可能なようになれば、日本の各地で母系社会のコロニ−の建設がすすめられてのではないでしょうか。

母系社会の建設を目的とした政党を創り政治的活動をすべきという人々も現れるかもしれませんが、民間団体として活動した方がよいと思います。というのは政党をつくると、家族制度のような、多数決できめるべきでない問題を、政治的に強制しようとしているのではないかと誤解されかねないからです。つまり権力を直接目指さない方が、かえって母系社会の建設のためにはよいのではないでしょうか。

私達はおそらく相当長期間、少数派として活動しなければならないでしょう。ですから、母系社会に好意的な環境が必要なので、そうした環境ををつくるためにも政治的な課題は既存の政党の中から支援政党をつくり、その政党をとうして実現してゆけばよいでしょう。

またいきなり、母系社会を目指すのではなく、日本でも昭和初期ぐらいまでは、めずらしくなかった父系大家族制でも、家長としての父親が独断的でなければかなり現状よりよいので、まず父系大家族を実現して子供の養育と老人介護問題を改善し、しかしこれだけでは女性問題は解決されませんので、次に母系社会を目指す方法もあるかもしれません。

このような「やさしい」父系大家族制が可能と言う事は、あまり競争的でない、共生的な市場経済制度が実現されているはずです。すると母系大家族制も経済的には可能な状態ですから、それが実現できるなら、そこからさらに母系社会へ移行して女性問題などの解決を目指すべきだと思いますが、まず共生的な市場経済をつくるために父系大家族を支持する人々と共に連合して社会への働きかけをする事も考えられます。

世界の環境保護派の人々や精神的な豊かさを求める人々と連携して経済競争を抑制する活動をしながら、世界の仲間達とも交流し、母系社会の構想の改良に努め、同時に既存の世界の母系社会の人々や新しく創られた母系社会の人々との相互支援体制をつくり、実際に母系社会をつくり拡大する活動をするべきではないでしょうか。
競争的市場経済主義者からの疑問―1
母系社会になり経済効率が落ちると、経済の発展が遅れ、やがては科学技術や医学の進歩も遅れる。現状のままで医学が発展したら命が助かる人も、助からない場合がでてくるので、今の競争的市場経済の方がよいという疑問もあるでしょう。

しかしこの競争こそ社会の進歩をもたらすと言う議論には欠陥があります。それはこの競争をする企業人とこの競争の受益者の消費者とが、あたかも別人であるかのような論理になっていることです。このまやかしで企業人は激しい競争で苦労するが、消費者がそれにより恩恵を受けるので競争は良いのだと彼らは主張しますが、実際は、同一人物がある時は企業人で、またある時は消費者となるだけです。

例えば,テレビの製造企業で働いている人が、自ら苦労して開発した自社の新型テレビを買っても、激しい競争で毎日残業をしている為、その新型テレビを満足に見る暇もないという事態が起こり得ます。するとこの人にとって競争的労働は、過労死しかねない労働でしかなく、その成果を十分享受できないのですから競争は無意味になります。やや極端な例ですが、わかりやすく言えばこうなります。

ですから競争で生活が便利になるかもしれないが、競争はほどほどにして不便でも安定した生活のほうがいいという選択もあり得るのです。新しい薬や治療方法の素早い開発で、人々の命が救えたとしても、その為に大部分の人々が病気になりかねないような激烈な競争社会で、厳しいリストラの不安に怯えながら、人生の大半を生きらざるを得ないような社会なら、競争は悪だとさえ言えると思います。経済効率の低下で、生活のレベルが低下しても、家族と共に過ごす時間が十分とれる生活のほうがいいのではないでしょうか。

大部分の人々の最大の願いは、家族との平穏な生活です。家族と安心して暮せる環境が得られるかどうかが、大切なのです。競争により、なにかの料金が安くなるとか、早くどこかにいけるようになるかもしれませんが、それは大部分の人々には、二の次、三の次の願望に過ぎないと思います。
     競争的市場経済主義者からの疑問―2
また競争を賛美するする人々は、人には生まれながら競争する本能があるのだから、人には今のような競争社会が適しているという方もいると思います。

しかしより根源的な本能は生きることであり、生存の為に人々はある時は競争し、ある時は協調すると言う方がより正確でしょう。その違いは人々の関係のとりかたの違いです。人々が敵対的、競争的関係に置かれれば、競争するでしょうし、協調的関係に置かれれば敵対的な競争はしないでしょう。

人間は関係性の生物で性悪説や性善説のように、生来的にどうのこうのと人間を決め付けるのは誤りです。生まれながらの殺人鬼などいませんし、生まれながらの聖人もいないと思います。

確かに人間の生の形式そのものが、何らかの競争を強いるのも事実でしょう。しかし倒産や失業で自殺する人もいます。ですから、経済のような分野での死活的競争はしない方が、お互いにとってよいというのが私達の立場で、スポ−ツなどならいくら競争してもかまわないのはいうまでもないでしょう。

というのは、永久的に競争した場合、常に勝つとは限らないので、私達の子孫が失業して一家心中したり、今とは逆に他国に出稼ぎにゆかなければ生きてゆけない時が来るかもしれないのですから。
     競争的市場経済主義者からの疑問―3

共生的な市場経済制度の実現と言葉ではいえるが、そう簡単ではない。日本国内だけでなく、世界中でどのようにして実現させるのかと言う方もいますでしょう。確かに大変、困難な課題です。

しかし世界レベルで激しい経済競争を回避する試みは、すでに環境問題で実質的には行われています。温暖化問題への対策として、炭素の排出を先進国がお互いに目標を決めて規制すると言う京都議定書です。アメリカが脱落し、残りの先進国の政策もどれだけ実効性があるのかわかりませんが、とにかくこれで、なんらかの「大義」があり、世界世論の強い支持があれば、世界レベルでの対応もさせられる可能性があるのが解りました。私達は自然の環境だけでなく、社会の環境も人には大切な事を世界世論として形成しえれば、世界に対応させられるのです。

この会議での各先進国政府の本音は、環境問題に前向きな努力をしていると自国民にアピ―ルするとともに、自国の競争力をいかに守り、相対的に強めるかでした。競争相手の国に高い目標を課し、相対的に自国の経済的効率、労働生産性をあげられれば、国際的経済競争で優位にたてるからです。つまり環境問題を、経済競争を勝ち抜くための手段にしたのです。

しかしこれは、驚くべき事です。各国政府のこのような思惑があったにせよ、やはりこれは国際世論の力の証明でしょう。私達が経済競争が環境を悪化させるだけでなく、家族を破壊し人類社会を根底から崩壊させかねないとアピールし、世界世論の支持が得られれば、場合によりかなりの改革が可能となるでしょう。

「先進国」の労働時間を減らす事や、夜間労働の制限、過当競争を招く投資の制限、特許期間の短縮や特許の独占を禁止し有償であれ必ず公開させるなど特許制度の改革、協同組合型企業の拡大策、あるいは、国家間の過当競争を少しでも緩和させるため、世界的分業体制の構築に向けて協議するように各国政府に強いる事も可能かもしれません。

また、問題なのは炭素だけではないので、環境問題はさらに経済活動の規制を求め私達の強力な援軍となるでしょう。要は働けば働くほど、エネルギーを消費し環境に負荷が掛かかります。世界が、とりわけ「先進国」が経済競争を続け、成長を追求する限り、環境と人間を破壊し続けるのです。

「先進国」は消費生活のレベルを下げ、「後進国」の生活レベルを上げて、世界中がほぼ均一の生活レベルになるようにしなければ、安定した安全な犯罪や戦争のない世界はできません。また、資源やエネルギ―は、必要最小限のみ消費する社会への転換を急ぐ必要があります。環境問題は、母系社会にも関わる問題です。

アメリカの労働組合は、自国の雇用を守るためかもしれませんが、ある自国企業の靴を製造するインドネシアの労働現場を調査して過酷な労働条件や低賃金を告発しました。そこでは靴を作る労働者は賃金があまりにも安いため、靴を買うお金がなく裸足で作業していたのです。このような活動は、過酷な労働条件を改善させ、世界的競争の緩和に役立つでしょう。日本の労働組合がこのような活動をしているのか知りませんが。

狩猟採取民の1日の労働時間は2時間程度。それも木の実などの採取労働で狩猟は1週間に1度ぐらいなのだそうです。彼らのリーダーは、文字どうりの公僕で苦労のほうが多いので、皆リーダーになりたがらないグループもあるそうです。私達の政治家達の暮らし振り振る舞いと比べるとどちらが本当の民主主義なのかわかりません。

犯罪の増加に怯えながら暮し、年間3万人以上が自殺して子供までも自殺するような私達の国は、本当に「先進国」なのでしょうか、いささか不安になります。私達が「後進国」と呼んでいる国の人々は私達へのお愛想で、この私達の自称を許しているだけなのかも知れません。

職業選択の自由に反するのではという疑問
私達が一族経営の企業の「世襲制」を主張するのは、職業選択の自由に反するのではという批判もありそうです。もちろんその職業選択の自由は母系社会でも守られなければなりません。私達は強制的な世襲制を主張しているのではありません。出来るだけ多くの人々に、一つの就職先の選択肢として一族経営の企業があるという環境をつくりたいのです。

しかしこの「職業選択の自由」が主張されるようになった背景は、再考してみるべき問題があるのではないでしょうか。と言うのは、人間はおそらく、太古のある時まで職種ごとに自分達の職業が一番価値があると思っていたでしょう。ところが農業の導入で貨幣経済が始まり、支配−被支配関係や職業にともなう特権的な優劣がつくられたので、経済的、社会的に厳しい立場の人々は親の職を継ぎたくないとか継がせたくないとか思うようになったのです。そして身分制による職業の固定化が強制されたので、この身分制に反発してこの理念が生まれたのです。

ですからこの職業にともなう特権的な優劣がなくなれば、誰もが昔のように自分の親の職業が一番だと思うようになり、社会に共通の職業に対する優劣の価値観は消滅してゆき、やがて遠い将来にはこの理念も忘れさられるのではないでしょうか。社会的に必要だと認められる職業であれば、優劣などの基準で序列づけられるいわれはないのですから。
 母系社会の段解説は否定されたのではという疑問

最近、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿の研究者達は、進化史上、最も人間に近いこれらの類人猿の社会を父系社会と規定し、これを根拠に人間の初期社会も父系社会だったと主張して、人類の初期社会の母系社会説を否定しています。彼らは現在の類人猿が、初期の人類に極めて近い進化段階にあると考えて、この否定説を主張しているのです。

しかし、オスの類人猿に父−子関係意識を形成させる妊娠の仕組みについての知識、つまり子供は性行為で生まれ、メスだけでなくオスの血も流れているという認識があるとは到底思えません。またこの研究者の家族の定義の問題や、さらに進化史上の人間との近さ、あるいはDNAも人間に一番近い事がこうした家族のような文化の問題の根拠となりうるかなどの点で、これらの研究者の主張を否定せざるを得ません。

人間は完全に客観的な、つまり全能全知の「神」の目からみた観察、認識は出来ません。人間に可能なのは現在の人間の文化、知識を基準にして、他の生物を「理解=解釈」する事で、例えば、このサルは人間なら「ボス」だから「ボスザル」だとか人間的な理解―解釈をします。また私達は、同じ行為をしても鳥だと単に本能で、ゴリラやチンパンジ−だと先入観から、ついつい人間的な感情や意識に原因を求めてしまいます。この先入観の払拭は大変困難で、結局、これらの研究者達の主張はこうした先入観からの、安易な人間的解釈の結果としか思えません。

「日本の母系社会」にも書きましたが、私達と同じ人類の一部とはいえ、子供を祖先の霊の生まれ変わりと考え、男女の性行為で子供が生まれ、子供には男女の血が流れているという知識のない人々が少なくとも最近まで存在していました。ですから、ましてゴリラやチンパンジ−にオスとメスの性行為で子供が生まれ、子供にはオスの血も流れているという認識はないとしか思えません。

オスに父親としての自覚はないし、当然子供の側にもそのオスの子としての認識はないでしょう。オスに父親としての自覚がない以上、父系家族など成立しません。オスには、せいぜい自分の「愛人」の子供を、保護者、養育者、あるいは親しい大人として世話をしているという意識しかないのだと思います。自分とは無縁でも、母親ザルが死んだ子ザルを育てるオスザルもいますし、様々なサルより「下等」な哺乳類が、種の壁さえ超えて子育てをするケ−スはよく知られています。ですからゴリラのオスの父親的な子供への保護行為も、このようなものと区別できないのです。

このようにゴリラなどには、オスに父−子関係意識が成立していないので、人間の父系家族のように見えても、内実は全然違うものなのです。人間の場合、この妊娠の仕組みの知識がないと子供の血縁の男の成人は母親の兄弟となり、この母親の兄弟が子供の男の養育者としての「父親」となります。ですから、このような人々は必然的に母系家族−母系社会となります。

この妊娠の仕組みをゴリラやチンパンジ−が認識して「親」という意識があるかどうか、明示しないままこの研究者は、彼らの社会を無条件に父系社会として、人間の家族の場合と同じ言葉で規定して分析しています。ですから、オスに父親としての意識や自分の家族という意識がたとえないとしても、「父親」的な機能を果たしていて、生物学的にも「家族」であれば、その集団は家族であり、父系社会と定義し得ると考えているとしか思えませんが、こうした家族の定義は誤りです。

家族といえるのは、人間の社会のように家族が上部組織の村や町を構成する単位集団になっている重層社会の家族で、さらに家族内でのそれぞれの父、母、子供などの役割、関係が当事者達に意識されていなければなりません。家族は社会学的概念であり、人間社会にしかありませんし、人間の場合は通常、この関係が生涯継続します。

単に生理学的な関係だけでは家族とはいえず、親−子関係の意識があるかどうかが決定的に重要です。ゴリラやチンパンジ−の社会は単層社会で彼らの集団には上部組織的な社会はなく、父−子関係もありません。つまり研究者がゴリラやチンパンジ−の父系家族と呼んでいる集団は、メスの擬似的母系家族グループとせいぜい子ゴリラの親しい大人、保護者としての自覚しかない一頭、または複数のオスとの生活集団で、家族とは言えません。

結局、この研究者達は、自分の結論を導く論理の組み立ての都合に合わせて家族の概念を拡大しているのです。言葉によるコミニュケ−ションができない類人猿の意識や認識の調査は大変困難ですので、現時点では類人猿の家族についての研究は大きな限界のある研究です。ですから、単なる観察記録にとどめて、理論的なレベルまで言及すべきではありません。

また、人間の家族に近い生活集団を持つサルは単層社会のゴリラやチンパンジ−ではなく、重層社会を構成している単雄複雌のヒヒの社会という説があります。ヒヒの生活集団は、バンドと呼ばれる村のような上部組織の構成単位になっています。特にゲラダヒヒのオスは暴力によるメスグループの支配はせず、「説得」によりグル−プを統合していて人間の家族に近いそうです。

このようにゴリラやチンパンジ−より進化史上、人類からより遠く、DNAもより異なるヒヒの方が人間に近い前家族的生活集団を形成しているのであり、研究者達の進化史上の近接さやDNAも一番似ている点を根拠とする主張は成り立ちません。

この研究者達の議論は、前提的な問題を深く吟味せずに常識的なレベルの視点から、「証拠」を並べて科学的に論証できたと考える能天気な実証主義者の典型です。そもそも低い進化段階の類人猿の文化を高い進化段階の人類の文化で解明−解釈できても、逆は不可能なのです。木の枝を投げて威嚇するサルがいますが、この場合の木の枝は、様々な変遷を経てやがて核兵器にまで進化する武器の原初と私達は理解−解釈しますが、サルが核兵器を見てもそれが何であるか誤認さえできないでしょう。

家族のような文化的問題の解明のためには、まず文化も含めたト−タルで厳密な人類の定義をし、さらに類人猿の知能、文化についても詳しく調べた上で、初期の人類と現在の類人猿がどの程度、同一視できるのかという根本的な問題をまず徹底的に検討すべきです。おそらく人類がまだ「サル」だった頃の解明には役立つでしょうが、それ以降の人類段階は無理でしょう。

また日本の人類学者にも日本に母系社会の明確な証拠がないと日本人の母系社会説に否定的な実証主義の学者がいます。そもそも日本人の祖先はアフリカから、長い道のりを経て日本に到達したのですから、日本だけ調べれば結論がでるような問題ではないのです。このような学者は、裁判官のように明確な証拠の有無で判断をしようとしますが人類学は、やはり裁判ではありません。そもそもこのような明確な証拠などが出てくる可能性が少ない問題は、証拠がない事が否定の根拠にはなりません。証拠が発見されても常にどのように解釈をするかが重要で、証拠も大切ですが、やはりどのような理論を構築するかが最も重要なのです。

母系国家の安全保障政策についての疑問

日本の安全保障問題で最初に考えなければならないのは、日本は「自衛戦争」すらできない国という事です。敵対国が核を持っていようが、いまいが日本各地の52基もの原子力発電所のうちの一つでも破壊されたら最悪の場合、1000万単位の日本人が家と職場を失い、日本は国家としての存立の危機に陥ります。あのチェルノブイリの原発事故では、1平方Km当り15キュ−リ−以上の汚染を基準にして強制移住が実施され、日本の大阪府と京都府、福井県の面積に相当する地域が今も無人の荒野となり、本州の60%に相当する地域が1平方Km当り1キュ−リ−以上、汚染されたのです。

戦争になれば、首都東京と首都圏に集中する日米の軍事基地を使用不可能とする為、茨城東海村の原発が狙われ、最大の被害を与え得る風向きの時に攻撃されるかもしれません。あるいは、新宿区にある国立感染症研究所を攻撃されたら、生物兵器並の被害がでるかもしれませんし、少なくとも、東京を逃げ出す人と流入を阻止しようとする隣県の住民とが争って大混乱となり、戦争どころではなくなるかもしれないのです。

「飽和攻撃」という攻撃方法があります。これは敵の対空ミサイルなどの防御兵器の数を上回る大量のミサイル、ロケット、砲弾を一つの目標に同時に着弾するように調整して発射する攻撃方法です。日本の原子力発電所や各地の細菌研究所、化学工場がこの「飽和攻撃」をされたら、防御は不可能です。また、生物兵器、化学兵器で都市を攻撃されたら数十万、数百万人単位の犠牲者がでます。

このような日本の情況をふまえない議論は全て空論です。国民に責任を持つ政府であれば、このような事実を国民に知らせ、国民世論が敵意や憎悪から「戦争しろ」などと沸騰、過熱して、無謀な戦争をせざるを得ない情況にならないようにしなければなりません。いかなる代償を払っても「自衛戦争」すら絶対にさけるべきです。日本は周囲に長い海岸線があるため、小人数の特殊部隊の進入を防ぐのは不可能です。一度侵入されたらこうした特殊部隊には、いかなる近代兵器も無意味ですし、都市での生物兵器や化学兵器を使用したゲリラ戦を防ぎようがありません。戦争は不確定要素が多く、これまでも軍事力に関係なく勝敗が決まった例は沢山あり、戦争になったら100%原子力発電所や都市を守れる保障などありません。

一般に国家が保持する軍事力の目的は、他国との対等な外交や、国家の内外政策の変更を求める軍事脅迫や攻撃、あるいは領土や資源を求める軍事侵略を抑止する事でしょう。この目的の為に現在、ほとんどの国家は軍事力を保有し他国との軍事同盟を築いたりしています。現在日本は自衛隊を保持し、世界最強のアメリカと軍事同盟を結び、さらに国連に加盟してこのような軍事的脅威を防ごうとしています。しかしこれだけの政策を実行しても、最近の日本のように不安を持つ人が6割もいるのです。今後も日本が軍事力に頼る限り、全世界的な安全保障条約ができるまで、毎年何兆円もの税金を投じ続けなければなりません。

私達はしかしこのような軍事力に頼らない、もう一つの安全保障策があると考えています。それは今と、全く逆の一方的な軍縮政策と最終的な理念としての非武装主義です。一方的軍縮政策は、無駄な軍事費を減らしながら、他国の軍事的威嚇や攻撃を封殺する効力があり、強大な軍事力を上回る力があるのです。

というのはもし、軍縮を進める国家(「軍縮国家」)に対し、他国が軍事力で威嚇したら、やむを得ず「軍縮国家」は軍縮を中止するでしょう。そうなったら、その威嚇した国も再び元「軍縮国家」の軍事力に対抗するための軍事力を余分に維持しなければなりません。ですから、軍縮をしようとしている国家を他国が軍事的に脅かしたりしたら、たとえ短期的には多少プラスになる事があっても、結局長期的にはマイナスになるのです。また、そのような軍縮国家を軍事的に威嚇する国は世界から非難を浴び、国家としての威信、信頼を失うでしょう。これは現代世界では大変なマイナスです。その国の産品の不買運動などで経済的に大変な影響がでかねません。

また、秘密裏に大量破壊兵器を開発しているなどと言いがかりをつけられぬよう、疑われそうな施設は全て常時公開し、犯罪組織対策用の武力程度まで自国の軍事力を縮小する軍縮を始めれば、どこからも軍事的に威嚇されたり、侵略されない国になるのです。もちろん他国に脅威を与えるような軍事的防衛条約も放棄し、他国の軍事基地も周辺国に脅威を与えぬよう、造らせないようにしなければなりません。

しかし軍縮を始めるタイミングや、まずどの程度軍縮するかは、国際情勢の動きと連動させて実行すべきです。軍縮の趣旨、狙いを関係国だけでなく、全世界に強力にアピ−ルし、しかも軍事的均衡を急激に破るような軍縮は、場合によっては、戦争を誘発しかねないので避けるべきです。軍縮の方法としては、毎年5から10%位とか少しづつ軍縮を続けるなどの方法が良いでしょう。しかしある程度削減した時点で世界各国の政府や他国民の評価、動向を分析し更に同じペ−スで軍縮を続けるか、スロ−ダウンするか再検討しながら慎重にすすめるべきでしょう。他国との信頼醸成や軍事的な緊張緩和がどの程度できたか判断して決めるべきです。しかし世界の平和派国家の最先頭の立場を維持して、世界中の人々の支持と注目を集め続けるのが最高の安全保障策なので、これは維持しなければならないでしょう。

こうして武力を縮小していけば、他国に対して逆に政治的に非常に強い立場になります。というのは道義的に優位な立場にたち他国に軍縮を常に要求できるからです。領土問題でも交渉がしやすくなるでしょう。領土を返却しても将来的には軍事的な脅威にならないと期待できるからです。世界中の多くの国民も日本の軍縮主義を支持し、せっかく軍縮を選択している国を武力で脅して、軍縮を止めてしまうような政策を自国政府がとることに反対するでしょう。ですから多くの国に「軍縮国家」の非武装主義を支持する民間の軍縮支持組織が創られるでしょう。この組織に軍縮政策を妨害するような行動を自国政府がとらないよう働きかけてもらえばよいのです。おそらくこの政策は世界中の人々から支持され「軍縮国家」の国際的な評価、威信は飛躍的向上し、あらゆる面で発言力も増すのではないでしょうか。

現代の戦争には、必ず「大義名分」が必要です。「大義名分」のない戦争は、いかなる独裁国家でさえ不可能です。民主主義を標榜する国家ならば、本音は別でもこの「大義名分」は自国民の同意を得るために絶対に必要となります。もし、軍縮中の国や軍縮が終わり、国内の治安維持に必要な警察力ぐらいしかない非武装国家に対して武力で威嚇したり、軍事侵攻をしようとしても「大義名分」が見つからないでしょう。ですから「非武装国家」は、他国の政府からは非常に扱いずらい国になるでしょう。この国との交渉では軍事力誇示して威嚇する方法ができないので、自国の軍事力は無力化されるだけでなく、軍事的脅かしをしたと受け取られ世界的非難を浴びないよう常に注意しなければならないからです。

また、それでも敢えて海を越えて軍事侵攻し、1億以上の人口を持つ日本を占領し続けるには大量の軍を展開し続けなければならず、莫大な費用がかかるので、資源もない日本を占領しても割に合いません。19世紀以前のような植民地化政策は、結局政治経済的にマイナスで、それより自由貿易を認めさせ、自国の企業の自由な経済活動ができれば、同じ効果が得られると解り放棄されたのです。占領国内でも、軍事侵攻の正当な理由がないとか、政治経済的にもマイナスだと反対する勢力が発生するでしょうから、万が一占領されても、日本は面従腹背でサボタ−ジュしながら、占領軍が疲れ果てて出てゆくのを待てばよいのです。

もし、日本が軍事力で自立した国になろうとしたら、たぶん日本は核による報復力を持とうとするでしょう。しかし、日本の核武装は、世界中の国々の反発、緊張を引き起こし日本製品の排斥、不買運動が起こって、日本は経済的に行き詰まるかもしれませんのでリスクが大き過ぎて不可能です。しかし現状のままでも日本は、安全保障面ではアメリカを常に支持せざるを得ず、このままではアメリカを敵視、警戒する人々からアメリカと同等の憎悪を浴びるようになるでしょう。

ですから日本は軍縮-非武装主義を採用することで、アメリカとの軍事同盟を解消しても、アメリカの日本への警戒、敵視をもまぬがれて自立できるのです。日本が「普通の国」になろうなどというのは日本人の滅亡を招きかねない最悪の政策です。日本が既に「自衛戦争」すらできない脆弱な国であるのは世界の軍事専門家には常識でしょう。ですから、いくら「有事法制」で「自衛戦争」が可能な体制を創り、外交上の駆け引きの手段として軍事的な圧力を掛けても、ポ−ズに過ぎないと見透かされて無視され、むしろチキンゲ−ムの弾みで本当に戦争になってしまったら、第二次大戦以上の取り返しのつかない事態になりかねないのです。

日本はこのような世界で自立的な国になり、同時に最高の安全保障を得るには、一方的軍縮政策を採用するしかありません。その場合は、世界中の全ての国々に同時に特使を派遣し、それぞれの国の政府とマスメディアに日本の政策の趣旨を説明する等の方法で世界中の注目を集めて軍縮政策を実行すれば、効果は絶大となるでしょう。世界中の人々の圧倒的な支持を得ることが、世界最強のアメリカの「軍事力」をも凌駕するパワ−となって日本を守るのです。2、3歳の無力な赤ちゃんが側にいても誰も脅威に思わないでしょう。むしろ、心配して見守ってくれます。世界中の誰一人にも脅威を与えない事こそ、最高の安全保障策です。これこそが最高の政治というものです。

例えばスイスをどこかの国が攻撃するなどという事は想像できないでしょう。日本もスイスと同じような国に思われるようになればよいのです。日本と同じ理由で戦争が不可能な韓国など、世界中の国に呼びかけて同時に複数の国々で軍縮政策を始められれば、世界史の流れさえ変えられるかもしれません。日本は9条国家として世界史的任務を果たしたと世界中から絶賛されるでしょう。そうすれば、日本は民主主義を生み出した西欧と合い並び立つほどの世界史的な政治的威信を手にいれられるでしょう。

そして国際的な軋轢で当事国同士の交渉で解決できない場合に、中立の立場から調停する国際裁判所の設立を提唱するべきです。この裁判所は各加盟国から派遣された国際法の専門家で組織され、ここに提訴された国際問題は、当事国以外の法律専門家からなる国際裁判により審議され、判決には無条件で従わなければ、この条約の締結国から経済制裁を受けるなどの規則をつくり国際問題の平和的な解決ができるようになればよいでしょう。