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コンテンツ編

 スピーカを802SDからAmati Traditionに乗り換えて、最も変化の大きかったのがテレビの音です。802SDではテレビの音もそれなりに楽しめるとはいえ、CDとの音質差があまりに大きく、テレビの音楽番組を聞くたびにそのことを意識させられました。CDとの違いについてはアマティ・トラディションも同様なのですが、テレビの音ということを802SDほどには意識せずに楽しむことができます。恐らく、アマティは802SDほど解像度が高くなく、バランスの良さが過不足のない音として聞こえる理由と思います。これは、あまり録音の良くないCDの再生についても云えることで、802SDのような突出した音ではないものの、ソースに対する適応性の高さという観点で、優れたスピーカと思います。

 テレビの音楽番組については、「TVライブラリー」で紹介した2021年のNHK音楽祭以降、すでに丸一年経過しています。N響の定期公演はもちろん、海外の音楽祭など、コロナ禍では貴重な映像もあり、印象に残ったプログラムもあるものの、ほとんどは一度聞いてそのままとなっていました。毎週録画していると、ディスクの枚数も増える一方で、このあたりでコレクションを振り返って見るのも良いと思い、印象に残った演奏を記録しておくことにしました。

アレクサンドロ・タロー ベートヴェン最後のソナタ

 最初に取り上げるのは、アレクサンドロ・タローのベートヴェン最後のソナタ。この映像はフランスのルイユ・スランクール城で、2018年7月10~13日に録画されたもの。このルイユ・スランクール城というのは映像で見る限り、まるで廃墟で、床には水が溜まって(実際、曲の間には水が流れる音が聞こえる)、壁はボロボロ。これも演出とはいえ何でこんなところで、という感じなのですが、演奏は素晴らしい。もちろん音も文句なし。

 写真で見る限り、反響がありそうな部屋ですが、十分な広さとドアも開いていることもあり、直接音と間接音のバランスが良く、低域から高域までクリアで、ディテールが聞き取れます。ザルツブルク音楽祭のイゴール・レヴィットの最後の三つのソナタも良いが、タローの方が素直な演奏です。過度に感情的ではなく、自然体で力みがありません。それでいて、ベートヴェンらしい強固さと重厚さを感じます。個人的に好きな31番では、感情が高まりそうなのを抑えているのがわかる位、制御が効いています。第2楽章はやたらと早く弾くポリーニとは対照的で、もう少し早くて良い気もするものの、充実感があります。第3楽章は内省的な曲。ここでは人生を振り返っていたベートーヴェンが、続くフーガで、涙をこらえて前向きに生きる決意を示す。アレクサンドロ・タローは、そういった作曲者の心の在りかを示すような、充実した音楽を聞かせてくれます。

 続く、32番ですが、30番、31番を具象画とすれば、これは抽象画。空想の世界を楽しんでいるようで、個人的には最後の3曲のなかでは唯一、共感しがたい曲です。タローの演奏でも、その認識がかわることはなく、過去に持っていたイメージよりは現実の世界に近づくものの、31番のような身近な存在とはなりえないという印象でした。

ベルリン・フィル ジルベスター・コンサート

 毎年大みそかに、フィルハーモニーで行われるコンサートですが、昨年末は急病のキリル・ペトレンコに代わり、ラハフ・シャニが指揮を担いました。この公演はベルリン・フィルがネット配信していますが、日本ではNHKが放映権を持っているためか、閲覧できません。NHKでTV放映されたのは2022年2月14日で、比較的早いタイミングでした。ベルリン・フィルということで録画したのですが、演奏は期待した程ではなく、実はここに書くのも躊躇しました。とはいえ、代役で登場したラハフ・シャニがどんな音楽をがやるのか記録しておくのも良いと思い、取り上げることにしました。曲目はヨハン・シュトラウスのこうもり序曲、ブルッフのヴァイオリン協奏曲、ストラヴィンスキーの火の鳥、ラヴェルのラ・ヴァルスなど。

 最初のシュトラウスからお祭りムードで、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを意識している印象でしたが、次のブルッフが冴えません。ヴァイオリンはジャニーヌ・ヤンセン。録音はほどほどで、高域を抑えた聴きやすい音。ホールの雰囲気は良く伝わるものの、ダイナミックレンジが狭いので、オケの迫力がいまいち。ブルッフのヴァイオリン協奏曲は聞きばえのする曲で、抒情性とダイナミックスの両面が楽しめるはずが、明らかにダイナミックスが不足。一方で、ジャニス・ヤンセンの、旋律の美しさを際立たせるような、丁寧な演奏は好感が持てます。バックを支えるラハフ・シャニも、ジルベスター・コンサートという特別な公演という感じはなく、淡々とした演奏。代役といっても、このラハフ・シャニは名門、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者であり、ベルリン・フィルを指揮するのは、特別なことではないようです。

 ダイナミクスが不足と感じるのは、録音のせいもあるのかと思っていたら、次の「火の鳥」では、本物の火の鳥が飛んできたかのような表現力が素晴らしく、さすがベルリン・フィルというところ。しかも、音楽がとてもすっきりしていて、透明感があります。「魔王カスチェイの凶悪な踊り」では、ブルッフで不満だったダイナミックさも十分。最後のラヴェルにも当てはまりますが、複雑な楽曲でも混濁することなく、整然とした音楽を聞かせてくれるのは、それだけの力量を備えた指揮者ということなのでしょう。一方で、プログラム全体を通じて淡白な印象があり、表情が乏しいのではないけれど、もっとエキサイティングで濃い演奏を期待したい気もします。

ヤクブ・フルシャ チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

 この公演が放映されたのは2021年9月26日で、先のベルリン・フィルよりだいぶ前になります。当時は漫然と聞いていたので印象に残らなかったのですが、ジャニス・ヤンセンのブルッフがいまいちでしたので、リサ・バティアシュヴィリが登場するこの公演を思い出し、再度聞いてみました。この公演の収録は2021年4月14日で、コロナ禍の真っ只中で、無観客で行われました。
 最初のサンサーンスのヴァイオリン協奏曲 第3番。改めて聴いて、何と心に響く曲かと、自分の不明を恥じることになりました。バティアシュヴィリのヴァイオリンが素晴らしい。ヴァイオリンの音がたっぷりと響くというのは、適切な表現ではないかもしれませんが、単に美音というのではなく、艶と張りのある音がホールに響き渡ります。無観客なので、通常の公演よりもホールの響きが豊かということはあり得ることです。それにしても、この悠然とした弾きっぷりといったら、これを超える演奏はないのではと思えてきます。チェコ・フィルが、そのヴァイオリンの表現力を更に引き出すかのように、見事なアンサンブルで支えます。

 ホールの豊かな響きを取り込んだ録音が、TV放映のなかでも抜きんでたレベルなのも嬉しい限り。TVでありがちな、ピークが抑えられた音でないのが、とても心地よい。それにしても、無観客で、これだけの熱い演奏ができるというのは感動的です。先のベルリン・フィルは観客がいるにもかかわらず、皮肉なことに、この演奏の方がライブということをより強く感じさせます。
 なお、この公演では、このあとブラームスのハイドンの主題による変奏曲とドボルザークの交響的変奏曲が組まれています。ドボルザークの交響的変奏曲というのは、ブラームスの影響を受けた曲だそうですが、交響詩を得意にするドボルザークらしく、メランコリーなメロディと舞曲など、より変化に富んだ音楽となっています。両者に共通するのが、豊かな表現力で、特にドボルザークはフルシャがチェコ出身ということもあるのでしょう、変奏による楽曲の変化を鮮やかに捉えた演奏です。

サイモン・ラトル ロンドン交響楽団

 このビデオは、最初のアレクサンドロ・タローと同時期の、2018年9月16日に収録されたものです。ラトルがロンドン交響楽団の音楽監督に就任したのは2017年9月ですから、就任後1年を記念して行われた公演のようです。というのも、最初の曲はバートウィッスルという現役作曲家の作品で、その名も、ファンファーレ「サイモンにささぐ2018」という表題がついているからです。この時の演奏曲目は、ホルストの「エグドン・ヒース」、タネジ(同じく現役作曲家)の「ディスペリング・ザ・フィアーズ」、最後はブリテンの「春の交響曲」というユニークな構成。馴染みのない曲ばかりですが、ブリテンの「春の交響曲」が不思議な魅力に満ちた曲でしたので、記載することにしました。

 オープニングの「サイモンにささぐ」という作品、文字通りファンファーレで、ブラスでつくる音の面白さはあるものの、あっという間に終わってしまいます。ラトル/LSOのビデオに共通した点ですが、音に厚みがあり、ブラスもうるさく感じることはありません。次のホルストの「エグドン・ヒース」ですが、グスターヴ・ホルストといえば、管弦楽組曲の「惑星」、というくらい有名なイギリスの作曲家です。このエグドン・ヒースという曲は、トーマス・ハーディの小説「帰郷」の中のヒース荒野の描写に影響を受けて作曲された作品だそうです。「惑星」の作曲者らしく、旋律が親しみ易く、心が洗われるような、美しい響きが楽しめます。荒野の描写といっても、風景を思わせるのではなく、風景に触発された心情を表しているようで、「交響詩」と呼ぶのが相応しい印象です。タネジもまたイギリスの現代作曲家で、ディスペリング・ザ・フィアーズというのは、「恐怖からの開放」という意味でしょうか。ファンファーレの出だしと同じく、ブラスで始まりますが、こちらの方が内省的で複雑な音楽。「恐怖」というのは"fear"の直訳ですが、曲想は「不安」という表現が適切で、ちょっと重苦しくなる曲。最後は「開放」というより「安らぎ」というイメージですが、それも東洋的で、どんなメッセージが込められているのか、気になる曲です。

 この公演のハイライトはブリテンの「春の交響曲」。ブリテンもまた、あまり馴染みのないイギリスの作曲家ですが、この春の交響曲は文字通り、春の生命力を感じさせる作品で、多彩な魅力に溢れた曲です。基本的には、春を迎えるという喜びを歌った曲なのですが、荘厳な祈りの音楽のようにも聞こえ、聞きごたえがあります。その理由は、全12の楽曲が、それぞれ詩に基づいた声楽であり、オラトリオとも云える構成になっているからです。最初の序奏「輝きいでよ」は神秘的な雰囲気で始まり、やがて力強い合唱で春の賛歌となります。第3曲の「春」はいかにも春という感じの明るさに満ちた曲。鳥のさえずりを人の声で表現するのですが、妙にリアルです。第5曲「朝の明星」は、まるで荘厳なコラールのよう。
 第2部は交響曲でいう、緩徐楽章。美しい旋律ですが、シニカルな面もあります。詩の内容に従って、次々と切り替わる歌は、まさにオラトリオを思わせます。詩の作者はすべて異なるのですが、それぞれに対する性格付けが巧で、変化に富んでいるのですが、全体を通じて聞くと、統一感があります。
 圧巻最後の「ロンドンよ お前に私はプレゼントしよう」というちょっと古風な詩ですが、曲はリズム感と高揚感があります。ユーモアのある曲で、お祭りのように、にぎやかで楽しい雰囲気に満ちていて、壮大なドラマの最後に相応しい曲です。少年合唱団も含めた大編成の合唱ですが、クリップすることなく、迫力ある歌声が楽しめます。ラトル/LSOのビデオは優秀録音が多く、貴重なコレクションになっています。

ラファエル・ピション ピグマリオン演奏会

 2021年10月19日に、フィルハーモニー・ド・パリで行われた、古楽器楽団であるピグマリオンの講演会。指揮はカウンターテナーから転向したという、ラファエル・ピション。その奥様だそうですが、ソプラノのサビーヌ・ドゥヴィエルが素晴らしい。もちろん、バックのピグマリオンも目が覚めるようなヴィヴィッドな演奏で、2022年に聞いた放送のなかでも出色の公演です。曲目はヘンデルのオラトリオ「時と悟りの勝利」から、バッハの二つのカンタータ、第199番「わが心は血の海に漂う」、及び 第82番「私は満ち足りて」。この二つのカンタータの間に、156番と35番のシンフォニアと、ヘンデルの歌劇「ジュリアス・シーザー」からという、一連の演奏があり、これが知的なバッハと情熱的なヘンデルという、絶妙な効果をあげています。

 ドゥヴィエルはオペラで活躍しているようですが、透明感のある声はバロックや宗教曲に相応しい。最初のヘンデルで声が細く、高域がややきつく感じますが、第146番のシンフォニアを挟んで、再登場するカンタータ第199番では声に伸びが出てきて、潤いが感じられます。そういう変化が分かるのは、ライブならではというところです。199番の後の、ヘンデルの歌劇「ジュリアス・シーザー」では、最高調という感じで、切々と訴えかける歌声に引き込まれます。この公演では、第146、156、35番といったシンフォニアが含まれていて、これがまた実に心地よい演奏。第156番の牧歌的なメロディーの後、第35番のシンフォニアのドラマチックな展開など、ドゥヴィエルの歌に劣らず、変化に富んだ演奏が楽しめます。

 カンタータに限らず、バロック時代の曲には透明で、古楽器のようなビブラートのない声が相応しく、鈴木雅明の演奏でよく登場するキャサリン・シンプソンなど、その典型です。一方でオペラ歌手がバッハをやると、表現が過多になりがちで、バランスの取り方が難しいようです。この公演ではソプラノのソロカンタータが二つ入っています。第82番と199番ですが、同じくフランス出身のオペラ歌手である、ナタリー・ドーセ(”デセイ”と表記されることが多いですが、フランス語読みは”ドーセ”と、どこかで読んだので)もこの二曲を組み入れたCDを出しています。ドゥヴィエルについては、ドーセの再来と云われているようで、確かに、声の質が似ています。

このCDは 「調音パネルⅡ」のページで試聴に使ったCDですが、同じバッハのカンタータでどう違うのか興味深々で、比較してみました。第199番は「私の心は血の海を泳ぐ」という、凄まじい表題なのですが、叫びにも似た悲痛なレシ タティーヴォレシタチーボで始まります。ドーセの方が声の質が甘く、歌謡曲というと云いすぎですが、「悲劇」というより、「悲劇というドラマ」の始まりのような印象を受けます。言い換えれば、物語の中に引き込む力は強く、まるで独り芝居のような趣があります。
 対するドゥヴィエルですが、より悲痛で、心に突きささるような、切れ込みの鋭い表現となっています。声の質の違いもあるようですが、こちらの方が、より現実に起こっている悲劇という印象。ドゥヴィエルの方が、バックとの調和を感じ、楽器もよく聞き取れるのに対して、ドーセは声のみに囚われてしまいがちです。この違いについては、録音の違いも影響していると思いますが、甲乙つけがたい名演であることは間違いないでしょう。

アンドリス・ネルソンス バーミンガム市交響楽団

 ベンジャミン・ブリテンについては、ラトル/LSOの「春の交響曲」で声楽曲の魅力を知ったのですが、2022年5月29日に放映された、この「戦争レクイエム」は、より壮大なスケールの曲です。レクイエムという名の通り、ラテン語のテキストに従っているのですが、ユニークなのは、その典礼文とイギリスの詩人、ウィルフレッド・オーウェンの詩を対比、あるいは融合させていることです。その性格上、何度も聞きたいと思うような作品ではありませんが、初演から50年目にあたる、2012年5月30日に、初演と同じコヴェントリー大聖堂で行われた記念すべき公演ということで、掲載しました。10年前の収録ですが、演奏・録音とも素晴らしく、合唱も含む大編成で、しかも教会という、録音には必ずしも適していない条件にもかかわらず、まったく混濁せず、広大な空間に澄んだ合唱が響きます。
 というのも、この放映の5ヶ月前に放映された、メトロポリタン歌劇場が、「9.11コンサート」と題して公演された、ヴェルディの「レクイエム」が、期待に反して、酷い録音だったからです。映像はグラウンド・ゼロを巡る凝ったものですが、肝心の音が、リミッターをかけたようにダイナミックレンジが狭く、この壮大な曲の良さをまったく伝えていないものだったからです。

 第1曲のレクイエムは合唱が美しく、祈りのように開始されて、これまで聞いた多くのレクイエムと変わりません。ところが、次のテノールによるオーウェンの詩「死すべき定めの若者のための賛歌」で、いきなり現実の世界に引き戻されます。テノールによる鮮烈なソロは、弔いという儀式では済まされない戦争のすさまじさを伝える使者のようで、その後は、再び合唱の祈りに引き継がれます。オーウェンは25歳の若さで戦死した詩人ですが、どの詩も内容が強烈で、詩だけ読んでいると、これにどんな曲がつくのか、想像ができないくらいです。それが曲の進行に伴って、必然性を増してくるのを聞くに及び、ブリテンがこの曲に込めた意図が、少しは理解できるように思います。
 第2曲は怒りの日。最も長い曲ですが、このレクイエムの聴きどころの一つ。ここでは典礼文のラテン語とオーウェンの詩が見事に融和します。前半は第1曲と同じく、力強い合唱と、テノールとバリトンで歌われるオーエンの詩が対峙するのですが、後半の感動的なソプラノのソロと合唱以降は、ソプラノと合唱のラテン語と、テノールの英語が絡み合ってきます。しかし、その部分に違和感はまったくないどころか、完全に調和した音楽となっています。第3曲から第5曲は、第2曲までの戦争の惨状を語ることから少し離れて、瞑想的なシーンとなります。第5曲はこのレクイエムの中で、穏やかで安らぎを感じる曲ですが、使われた詩は戦場の情景を伝えるもので、決して穏やかではありません。
 終曲である第6曲の「われを解き放ち給え」は、この壮大なレクイエムの終曲らしく、最も感動的な曲です。合唱によるクライマックスの後、テノールとバリトンが戦争の悲哀を延々と歌うのですが、ここでは回顧シーンのような扱いになっています。その後の少年合唱も含む合唱による安息への祈りは、まさに天国的な美しさです。なお、この公演ですが、コヴェントリー大聖堂の映像が素晴らしく、CDではなく、ビデオで発売されたのは納得です。

ヘルベルト・ブロムシュテット ルツェルン音楽祭とザルツブルク音楽祭

 BSプレミアムで、2022年7月24日に「95歳の指揮者ブロムシュテット特集」として放映された公演です。ルツェルン音楽祭2020はルツェルン祝祭管弦楽団、ザルツブルク音楽祭2021はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公演で、二つのオーケストラの違いも楽しめるという、贅沢な企画です。 曲目は、ルツェルン音楽祭はオール・ベートーヴェンで、ピアノ協奏曲 第1番、交響曲 第2番と第3番。ピアノ独奏はマルタ・アルゲリッチ。ザルツブルク音楽祭は、オネゲルの交響曲 第3番とブラームスの交響曲 第4番という、ブロムシュテットの得意とする曲ばかりです。

 ルツェルン音楽祭は2020年8月で、探りながら演奏会を開始した頃で、楽団員はかなり離れて座っています。安全のためにスペースを取れば取るほど、音を纏めるのに指揮者も苦労した時期でしたが、演奏には違和感はありません。一方のザルツブルク音楽祭は2021年の8月で、依然としてコロナ禍ではあるものの、演奏会での感染リスクは低いということが分かってきた頃で、通常の配置に戻っています。

 ルツェルンから聞き始めましたが、この配置からも予想できるように、チャンバー・オーケストラを聞いているようで、分厚い音は聞けませんが、透明で明るく、柔らかい響きが楽しめます。管楽器が空間によく響き、弦は控えめな印象です。近年主流になっている、すっきりした見通しの良い演奏で、各声部がよく聞き取れます。響きが軽いとはいえ、力感に不足はなく、ベートーヴェンらしさが損なわれることはありません。その特質が発揮されたのがピアノ協奏曲 第1番で、ピアノとオーケストラとのバランスが良く、アルゲリッチの明瞭なタッチとよく調和しています。ここでのブロムシュテットの指揮は、いわゆる老成したイメージはなく、若々しく溌溂とした音楽で、年齢を考えると驚異的です。

 対するウィーン・フィルですが、オネゲルの交響曲 第3番から聞きました。この公演の会場となったザルツブルク祝祭大劇場は音響の悪いことで有名ですが、ルツェルンより音場が拡大され、奥行きも感じられます。やはりオーケストラの構成と配置の違いが大きいようで、ブラスの力強い響きや、春の祭典を思わせる、低弦が刻む音など、スケール感が違います。オネゲルは馴染みのない作曲家ですが、古典をベースに、リズム感やインパクトのある和音など、新しい時代を感じさせる作風で、多才な作曲家であることがわかります。ショスタコーヴィッチを思わせる戦闘的な第1楽章、祈りのような美しい旋律の第2楽章、不気味な不協和音の後の、穏やかな静けさの第3楽章と、実に多彩な要素があって、聞き応えのある作品です。
 ブラームスでまず感じるのは、弦の音がフワッとして柔らかいこと。絹のような艶や、しなやかさも感じさせ、心地よい響きが楽しめます。ダイナミックなオネゲルと違い、弦の動きが把握しにいのですが、良く聞くと動きが分かります。特徴的なのはブラスの存在が目立たないことで、弦とよく調和しています。第2楽章の歌うような表現力や、第4楽章の舞曲のような流麗さなど、優雅な音楽を奏でます。最初は曲想の違いもあり、明瞭さを欠く印象でしたが、だんだんと引き込まれ、幸せな気分にさせてくれるブラームスです。95歳で指揮台に立つだけでも驚きですが、まったく急がず、悠然とした音楽を奏でるのは、心身ともに健康だからこそできることです。もっとも、今年の7月に転倒して骨折したそうで、今年のN響公演には間に合ったものの、歩くのに介護が必要な状態でした。
 これを聞いて、ブロムシュテットが、ライプチッヒ・ゲバントハウスを指揮した同じブラームスの第4番を思い出し、比較のために聞いてみました。冒頭からコンサート・ホールにいるような臨場感で、まったく別物です。これを聞くとTVでウィーン・フィルの弦が柔らかいと思ったのは、録音がボケているせいではないかと思い至りました。TVの放映内での比較なら許されるかもしれませんが、そもそもTVの音でオーケストラの比較をしようとしたこと自体、間違いかもしれないと気づかせてくれました。

シャルル・デュトワ 2022セイジ・オザワ 松本フェスティバル

 従来の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に代わって、2015年に、総監督小澤征爾の名を冠した「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」2022の公演です。今年はシャルル・デュトワの指揮で、武満徹:セレモニアル - An Autumn Ode -、ドビュッシー:管弦楽のための「映像」、およびストラヴィンスキー:春の祭典という曲目。まずはオーケストラの透明な音に驚かされます。これだけで優れたオーケストラということが分かりますが、それに大きく寄与しているのが録音の良さです。この放送に限りませんが、地デジのスペックは同じでも、公演によってかなり差があります。NHKクラシック音楽館の定番である、N響の定期公演は平均的ですが、この位のレベルで放映してほしいものです。

 シャルル・デュトワはかつてN響の定期公演で何度か聴いています。最後に聞いたのは2013年の12月で、ちょうど9年前になります。セクハラ問題でNHKから締め出されたようで、ここ数年は出番がなく、寂しい限りですが、演出が上手く、クライマックスに向かって盛り上げていく印象が強く残っています。ただ、今回は少し違い、それぞれの作品に相応しい音と、表現に主眼を置いた演奏を披露しています。武満の作品では、静謐で清らかな世界を描いて、日本的な神秘さを感じる音楽を聞かせます。ドビュッシーは一転して色彩感のある演奏。この曲はジーグ、イベリア、春のロンドの3曲から構成されますが、ジーグでは穏やかで、ノスタルジックなイメージ、次のイベリアでは、切れの良い、リズム感あふれた音楽、夜の薫りではドビュッシーらしい、ファンタジーの世界と、この曲からいろんな趣を楽しませてくれるのは、さすがデュトワというところです。

 最後の春の祭典は、もっとエキサイティングな演奏を予想していたら、意外とクールで、テンポもゆったりしていて、落ち着いた演奏。とはいえ、そう感じるのは、例の弦楽器がザッザッと刻む「春のきざし」あたりまでで、その後はだんだんと熱くなって、テンションを上げていくやり方は昔のまま。ドビュッシーでの色彩感やリズム感が、ここでは更にスケールアップしています。サイトウ・キネンという優れたオーケストラの能力を最大限引き出して、圧倒的迫力で迫ります。これぞデュトワと思う一方で、かつてのショー的と思わせる演出は影をひそめ、調和を大切にする、緻密で丁寧な演奏という印象を受けました。デュトワもすでに86歳、その年齢にしてはエネルギッシュですが、以前のデュトワとの違いを感じたのは当然かもしれません。(2022年12月)