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 このページはオーディオに関するイベント、その他何でもありのコーナーです。上の写真は2008年9月にカナディアンロッキーを旅した時のもので、モレイン湖からの帰り道で撮ったものです。モレイン湖はカナディアロッキーの有名な湖の一つですが、見所はこのようにナショナルパーク内のいたるところにあります。

 さて、オーディオに関する名著といえば、五味康祐でしょう。最近ステレオサウンドでも復刻版をだしましたが、音楽について書かれた随想では、人間の死にざま、西方の音、天の声の三部作があります。なかでも西方の音はオーディオに関する記述が多くあり、一番親しみを感じます。この本が出版されたのは1969年、昭和44年ですから、そこに登場するオーディオ機器は現在では中古市場にたまに出てくる程度で、メーカのカタログからはすでに消えたものばかりです。にもかかわらず、その内容に惹かれるのは、オーディオに対する氏の情熱であり、良い音で聞きたいという執念や足跡が現在でも十分通用する、普遍的なものだからでしょう。

 その五味氏が所有していたオーディオ機材は一人娘の由玞子さんが3年前に亡くなった後、オーディオ装置も含めた遺品一式を練馬区が引き取り、財団法人練馬区文化振興会が管理しています。遺品は全部で1万6千点あるそうですが、オーディオ関連ではオーディオ機器と約800枚のレコードがあります。遺品の分類・公開作業の一環として、「五味康祐氏のオーディオで聴くレコードコンサート」なるものが開催されています。すでの過去3回開催されましたが、4回目の抽選に当選し、2009年11月8日に練馬区役所で行われたイベントに参加してきました。その模様については、今後このページの拡張も考慮して別ページにまとめましたので、そちらを参照ください。(2009年11月)


 五味康祐の著作については、上記のとおり、このページを開設した時に触れていますが、彼の音楽の聴き方は、時にあまりに独断すぎる面があるとはいえ、オーディオのあり方については的を得ていると思うことが多々あります。オーディオを楽しみながら、五味康祐の記述に思いを馳せることは珍しくないのですが、最近、PC-Tripple-Cを使った新しい電源ケーブルの試聴を進めるなかで、五味康祐のオーディオ感を追体験する出来事がありました。PC-Tripple-Cを使ったケーブルを作ることになった経緯については、電源ケーブルのページを参照いただきたいのですが、そのうちの一本をパワーアンプ、もう一本をCDプレーヤに接続し、すでに半月ほどいろんなCDを試しています。
 当初は比較試聴ということで、聞き馴染んだCDを聴いていましたが、音量を上げても圧迫感がないこともあり、フル・オーケストラの醍醐味を味わってみたく、ワーグナーの管弦楽集を聞いてみました。そのワーグナーの管弦楽集とは、オクタビアレコード(EXTON)から発売された、エド・デ・ワールト指揮、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団のものです。このCD、音場が広大で、音が前方に飛び出すのみならず、横方向も二つのスピーカの間隔より更に広がって聞こえます。最初は部屋に音が満ち溢れる感じで、その迫力に圧倒されたのですが、聞いているうちに、音楽が大仰で訴求力に欠けるというか、物足りなさを感じるよううになりました。実際、録音レベルが通常のCDより高いのですが、そのせいもあり、盛り上がりばかりが続いているように聞こえます。
 そこで、もう一つのワーグナー管弦楽曲集である、クライツベルク指揮、オランダ・フィルハーモニー管弦楽団のものを聴いてみました。こちらはペンタトーンです。唖然とするくらい違いがあり、ペンタトーンの方はエクストンほど広がりもなく、横方向もスピーカからはみ出すことはありません。その代わり奥行きが深く、音源の位置がはっきりと把握できます。音色もざらざらした感触があり、それがかえって生々しい感じを与えます。これに対して、エクストンはまるで上澄みだけを収録したという感触で、音源が地に着かず、空中に漂っている感じです。あたかもヘッドフォンで聞いているかのように、ティンパニーの音は雷のように天から降ってくるように響きます。ペンタトーンは優秀録音で有名なレーベルですが、エクストン録音に比べると控えめで、それゆえ品位が感じられる音がします。これぞまさに五味康祐が「タンノイについて」と題して書いた文章そのものです。少し長いのですが、これらの違いを見事に言い表しているので、以下に引用します。


 さてわれらのタンノイである、たとえば「ジークフリート」(ショルティ盤)を聴いてみる。
     ----- 中略 -----
私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人一人がマイクの前にあらわれて歌う。つまりスピーカ一杯に、出番になった男や女が現れ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカという額縁に登場して、譜にある通りを歌い、次の出番の者と交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいものもある。
 わがタンノイでは絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも彼女や彼の足はステージに立っている、広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカが歌う。
 器楽においてもこれは同様だろう、約500枚のレコードを私はもっているが、繰り返し繰り返しタンノイで聴き、いわゆるレンジの広さ、そのバランスの良さはボリュームにはかかわりなく楽器そのものを、むしろ小さく感じさせる、ということを知った。私はタンノイ二基をdual concentric unitとして、約五メートル間隔で壁側においている。壁にはカーテンを垂らしている。ワルキューレやジークフリートはこの五メートル幅の空間をステージに登場するのである。部屋中に満ち溢れる音量――なぞいう安物ステレオ会社の宣伝文句、あんなものは真赤な嘘だ。だまされてはならない。出力ワットやボリュームはdB(デシベル)で表現されるべきものであって、音域の充溢感とは無関係だ。安物のステレオ装置ほど、どうかすれば部屋中割れるような音を出す。あれは音量の洪水であって音楽ではない。音楽はけっして洪水のように鳴るわけはない。銘記せねばならぬ。(「西方の音」より)


五味氏の言葉を借りれば、「音楽的教養の違い」ということになるのでしょうが、たった一枚のCDでそう結論づけるのは行きすぎでしょう。とはいえ、こういう違いを目の当たりにすると、オーケストラの録音ひとつとっても、いまだにヨーロッパの音楽的環境との違いを認識せざるを得ません。いうまでもなく、それは製作者側だけの問題ではなく、それを聞くリスナーや保有する再生装置を含めた日本のオーディオ界すべてに対して言えることです。国産のスピーカもかつての物理特性重視の姿勢から変わってきたとはいえ、拙宅もそうですが、オーディオマニア、特にハイエンドユーザの多くがいまだに海外製スピーカを使っているという現実も、その現れでしょう。(2021年5月)