03年3月から03年6月号 |
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ONE,TWO AND MORE JAPANESE MATRIARCHY! |
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4号「最終的市場経済社会としての現代的母系社会」 {03年6月} |
はじめに 科学について |
これから「現代的母系社会」の構想を考えてゆくうえで、まず最初に私達の基本的な考え方を整理しておきたいと思います。このような前提的な問題をまず共有して、無用な誤解を防ぎたいからです。 1 日本では、科学は、理論や法則だけでなく、技術的知識も含めた科学技術として概ね理解されているが、欧米では、科学とは理論や法則の意味であり、近年急速に発展し、膨大な蓄積がなさつつある技術的知識は、科学には含まれないそうです。つまり、物質Aと物質Bを何らかの割合で混ぜると熱を発する等の知識は技術的知識であり、なぜ熱を発するのかを説明する理論やその熱の量と変化を表す法則が、科学なのだそうです。ですから私達も科学から技術的知識を分離し、理論や法則だけを科学として考えてゆきたいと思います。 科学の理論にはかならず、前提があります。その前提を論証しようとすると、また別の前提が現れてしまい無前提な理論の構築は不可能です。ですから必ずなんらかの数学の公理公準のような前提を理論は持っています。そしてこの前提は余りにも当たり前の常識のように思えるので、証明が必要ないものと見なされている思考の枠組み、世界観ですが、天動説が否定されて、地動説が生まれたり、ニュ−トン物理学から、近代科学的物理学が生まれたのも、この常識的なものと思われていた公理的前提の世界観が崩れたのです。 つまりどんなに有力な理論でも完全に論証された理論などあり得ません。自然科学では、実験や観測で理論が証明されたなどとよく言いますが、現代的世界観内部での証明でしかないからです。そうした実験や観測により、その理論の信頼性が増すのは確かですが、まだ人類には未知のメカニズムが働いて、その理論が証明されたかのように思えるだけなのかもしれないのです。 アインシュタインの理論が切り開いた世界では、観測者問題というものがあり、一つの対象が観測する位置により異なった現象として観測され、どちらかが、正しいとはいえず、権利としては同等なのだそうです。「客観的真理」と思われがちな自然科学にさえ、このように視点という具体的、実際的な問題あり、さらにそれぞれの科学者が信じる前提的な世界観の問題もあります。量子論に死ぬまで、反対したアインシュタインは、自然の不確実性を認める量子論の根本的な発想、世界観が受け入れられなくて反対したのです。自然科学者でさえ、神のような完全に普遍的な、中立的な視点に立つ事が不可能であり、意識的か、無意識的かは別にして、何らかの根本的な前提的な世界観を持っているので、その世界観を擁護すると思われる理論しか主張できないのです。 真空についての理論の例でこの問題を考えてみます。真空でも物質(陽電子や反陽子など)が生まれるのが、観測されるそうです。この現象を科学的に説明しようとすると、無から有が生まれる現象は近代科学の前提に反するので、人間の認識力では無としか捉えられない真空も、無ではないとまず考えます。そして、次にこの現象をうまく説明できるアイデアはないかとあれこれ考えて、真空とは、負エネルギ−電子、負エネルギ−陽子などが敷き詰められている状態と考え、これらが飛び出してできた「穴」が、逆に陽電子や反陽子として人間に認識されると考えると、この現象をうまく説明できるので、これが真空の理論として提唱されるのです。「無から有がうまれる」場合もあると考える学者なら、別の解釈をするのではないでしょうか。 社会科学では、この世界観、あるいは価値観の問題が、より色濃く出てきざるを得ません。社会科学者が、研究対象をどの程度肯定的、あるいは否定的に考えるかという問題が結論に大きく影響するのです。ですから、社会科学でも、多くの理論が普遍性を装っていますが、実際はその理論の根本的価値観、世界観を擁護する言説なのです。 当たり前のことですが、近代経済学者達に資本主義経済を根本的に否定する流派はありませんし、同様に「マルクス経済学」者達にも、社会主義を否定する流派はありません。どちらにもそのような意志がないからです。 2 生命現象の全てを、遺伝子に還元して説明しようとする分子生物学は、現在興隆を極めています。しかし、この分子生物学の技術的知識はすばらしい成果をあげているのですが、遺伝子が生物の全てを決めていると考える遺伝子決定論は、遺伝子を「独立自存体」と考える近代科学流の実体主義であり、現象の解明を、その現象を構成する要素の説明をもってする分析主義の考え方で、誤まりです。このようにして得られた様々な要素で、現象全体を再構成する作業こそが理論化であり、対象の解明なのです。 遺伝子、遺伝子を内包している細胞、あるいはその細胞からなる生命体(更には、様々な生命体を育みながら、同時にその生命体により改造されつづける自然環境)は、相互に依存しあう関係にあり、この相互関係なしではどれも活動できないのですから、これらは「独立自存体」ではありません。このように生命体は、その全てが全てに関係し、相互作用している現象なのです。 地球の重力は通常、地球自身が持つ力で、地球そのものの内在的性質、属性のように考えられていますが、全宇宙内の質量を持つ全物質と地球との相互作用、相互関係から生じる力です。私達の身体も質量を持っていますので、この相互作用のネットワ−ク内にあり、私達がダイエットをすれば、ごくわずかであれ、月や星に対して重力的な影響を与えるのです。 このように全ての現象は、他の全ての現象と質的な違いや強弱の違いがあれ無数の関係性を持っている全関係的な存在です。このような現実の世界の現象の持つ無数の関係性の全てを、神ならぬ人間が理論や法則に盛り込むのは不可能です。ですから、自然科学だろうが、社会科学だろうが、全ての科学理論は対象的現象の一種の解釈、仮説なのです。ですから、日本のように理論上の小さな違いにこだわって、分裂を繰り返す学者や政治党派が多いのは、理論信仰の強い後進国(?)特有の現象かもしれません。 科学、つまり理論や法則も解釈、仮説にすぎないのなら、科学なんて必要ないのかといえば、もちろん、そうではありません。「無知が、栄えたためしはない」のであり、天動説などの精度が低い解釈よりも地動説の方がより洗練された精度の高い解釈であり、そうした精度の高い解釈のほうが、より正確に現象を捉えられます。また精度の高い理論、法則をつかったので、人類が月面に到達できたし、未来の予測が的中する確率がより高まるのですから、精度を高めていけば、有効な手段となり役立ちます。 ほとんどの理論は意識的にか、無意識的にか別にして、まず結論があって、それからその結論を導く証拠集めや論理構築がなされた理論であり、その逆ではないと私達は「邪推」しています。理論ができあがると、この過程が見えなくなり、あたかも証拠、証明、論証がまずあってその結果、正しい結論が得られたかにみえるだけなのではと。 このようなことから、私達がこれから構築する母系社会のビジョンも絶対の真理だと主張するつもりはありません。ただ、私達は人類は今の父系社会より相当長い間、母系社会で暮らしてきたのだから、父系社会が破綻しつつある現在、母系社会を見直してみるのも意義があるのではと考えているだけです。私達も母系社会という結論を導くための、証拠集めやビジョンづくりをし、現代的母系社会論の精度を高めたいと思います。 |
3号 私達への疑問と答え(追加版3){03年5月} 母系国家の安全保障政策はどのようなものであるべきかという疑問 |
日本の安全保障問題で最初に考えなければならないのは、日本は「自衛戦争」すらできない国という事です。敵対国が核を持っていようが、いまいが日本各地の52基もの原子力発電所のうちの一つでも破壊されたら最悪の場合、1000万単位の日本人が家と職場を失い、日本は国家としての存立の危機に陥ります。あのチェルノブイリの原発事故では、1平方Km当り15キュ−リ−以上の汚染を基準にして強制移住が実施され、日本の大阪府と京都府、福井県の面積に相当する地域が今も無人の荒野となり、本州の60%に相当する地域が1平方Km当り1キュ−リ−以上、汚染されたのです。 戦争になれば、首都東京と首都圏に集中する日米の軍事基地を使用不可能とする為、茨城東海村の原発が狙われ、最大の被害を与え得る風向きの時に攻撃されるかもしれません。あるいは、新宿区にある国立感染症研究所を攻撃されたら、生物兵器並の被害がでるかもしれませんし、少なくとも、東京を逃げ出す人と流入を阻止しようとする隣県の住民とが争って大混乱となり、戦争どころではなくなるかもしれないのです。 「飽和攻撃」という攻撃方法があります。これは敵の対空ミサイルなどの防御兵器の数を上回る大量のミサイル、ロケット、砲弾を一つの目標に同時に着弾するように調整して発射する攻撃方法です。日本の原子力発電所や各地の細菌研究所、化学工場がこの「飽和攻撃」をされたら、防御は不可能です。また、生物兵器、化学兵器で都市を攻撃されたら数十万、数百万人単位の犠牲者がでます。 このような日本の情況をふまえない議論は全て空論です。国民に責任を持つ政府であれば、このような事実を国民に知らせ、国民世論が敵意や憎悪から「戦争しろ」などと沸騰、過熱して、無謀な戦争をせざるを得ない情況にならないようにしなければなりません。いかなる代償を払っても「自衛戦争」すら絶対にさけるべきです。日本は周囲に長い海岸線があるため、小人数の特殊部隊の進入を防ぐのは不可能です。一度侵入されたらこうした特殊部隊には、いかなる近代兵器も無意味ですし、都市での生物兵器や化学兵器を使用したゲリラ戦を防ぎようがありません。戦争は不確定要素が多く、これまでも軍事力に関係なく勝敗が決まった例は沢山あり、戦争になったら100%原子力発電所や都市を守れる保障などありません。 一般に国家が保持する軍事力の目的は、他国との対等な外交や、国家の内外政策の変更を求める軍事脅迫や攻撃、あるいは領土や資源を求める軍事侵略を抑止する事でしょう。この目的の為に現在、ほとんどの国家は軍事力を保有し他国との軍事同盟を築いたりしています。現在日本は自衛隊を保持し、世界最強のアメリカと軍事同盟を結び、さらに国連に加盟してこのような軍事的脅威を防ごうとしています。しかしこれだけの政策を実行しても、最近の日本のように不安を持つ人が6割もいるのです。今後も日本が軍事力に頼る限り、全世界的な安全保障条約ができるまで、毎年何兆円もの税金を投じ続けなければなりません。 私達はしかしこのような軍事力に頼らない、もう一つの安全保障策があると考えています。それは今と、全く逆の一方的な軍縮政策と最終的な理念としての非武装主義です。一方的軍縮政策は、無駄な軍事費を減らしながら、他国の軍事的威嚇や攻撃を封殺する効力があり、強大な軍事力を上回る力があるのです。 というのはもし、軍縮を進める国家(「軍縮国家」)に対し、他国が軍事力で威嚇したら、やむを得ず「軍縮国家」は軍縮を中止するでしょう。そうなったら、その威嚇した国も再び元「軍縮国家」の軍事力に対抗するための軍事力を余分に維持しなければなりません。ですから、軍縮をしようとしている国家を他国が軍事的に脅かしたりしたら、たとえ短期的には多少プラスになる事があっても、結局長期的にはマイナスになるのです。また、そのような軍縮国家を軍事的に威嚇する国は世界から非難を浴び、国家としての威信、信頼を失うでしょう。これは現代世界では大変なマイナスです。その国の産品の不買運動などで経済的に大変な影響がでかねません。 また、秘密裏に大量破壊兵器を開発しているなどと言いがかりをつけられぬよう、疑われそうな施設は全て常時公開し、犯罪組織対策用の武力程度まで自国の軍事力を縮小する軍縮を始めれば、どこからも軍事的に威嚇されたり、侵略されない国になるのです。もちろん他国に脅威を与えるような軍事的防衛条約も放棄し、他国の軍事基地も周辺国に脅威を与えぬよう、造らせないようにしなければなりません。 しかし軍縮を始めるタイミングや、まずどの程度軍縮するかは、国際情勢の動きと連動させて実行すべきです。軍縮の趣旨、狙いを関係国だけでなく、全世界に強力にアピ−ルし、しかも軍事的均衡を急激に破るような軍縮は、場合によっては、戦争を誘発しかねないので避けるべきです。軍縮の方法としては、毎年5から10%位とか少しづつ軍縮を続けるなどの方法が良いでしょう。しかしある程度削減した時点で世界各国の政府や他国民の評価、動向を分析し更に同じペ−スで軍縮を続けるか、スロ−ダウンするか再検討しながら慎重にすすめるべきでしょう。他国との信頼醸成や軍事的な緊張緩和がどの程度できたか判断して決めるべきです。しかし世界の平和派国家の最先頭の立場を維持して、世界中の人々の支持と注目を集め続けるのが最高の安全保障策なので、これは維持しなければならないでしょう。 こうして武力を縮小していけば、他国に対して逆に政治的に非常に強い立場になります。というのは道義的に優位な立場にたち他国に軍縮を常に要求できるからです。領土問題でも交渉がしやすくなるでしょう。領土を返却しても将来的には軍事的な脅威にならないと期待できるからです。世界中の多くの国民も日本の軍縮主義を支持し、せっかく軍縮を選択している国を武力で脅して、軍縮を止めてしまうような政策を自国政府がとることに反対するでしょう。ですから多くの国に「軍縮国家」の非武装主義を支持する民間の軍縮支持組織が創られるでしょう。この組織に軍縮政策を妨害するような行動を自国政府がとらないよう働きかけてもらえばよいのです。おそらくこの政策は世界中の人々から支持され「軍縮国家」の国際的な評価、威信は飛躍的向上し、あらゆる面で発言力も増すのではないでしょうか。 現代の戦争には、必ず「大義名分」が必要です。「大義名分」のない戦争は、いかなる独裁国家でさえ不可能です。民主主義を標榜する国家ならば、本音は別でもこの「大義名分」は自国民の同意を得るために絶対に必要となります。もし、軍縮中の国や軍縮が終わり、国内の治安維持に必要な警察力ぐらいしかない非武装国家に対して武力で威嚇したり、軍事侵攻をしようとしても「大義名分」が見つからないでしょう。ですから「非武装国家」は、他国の政府からは非常に扱いずらい国になるでしょう。この国との交渉では軍事力誇示して威嚇する方法ができないので、自国の軍事力は無力化されるだけでなく、軍事的脅かしをしたと受け取られ世界的非難を浴びないよう常に注意しなければならないからです。 また、それでも敢えて海を越えて軍事侵攻し、1億以上の人口を持つ日本を占領し続けるには大量の軍を展開し続けなければならず、莫大な費用がかかるので、資源もない日本を占領しても割に合いません。19世紀以前のような植民地化政策は、結局政治経済的にマイナスで、それより自由貿易を認めさせ、自国の企業の自由な経済活動ができれば、同じ効果が得られると解り放棄されたのです。占領国内でも、軍事侵攻の正当な理由がないとか、政治経済的にもマイナスだと反対する勢力が発生するでしょうから、万が一占領されても、日本は面従腹背でサボタ−ジュしながら、占領軍が疲れ果てて出てゆくのを待てばよいのです。 もし、日本が軍事力で自立した国になろうとしたら、たぶん日本は核による報復力を持とうとするでしょう。しかし、日本の核武装は、世界中の国々の反発、緊張を引き起こし日本製品の排斥、不買運動が起こって、日本は経済的に行き詰まるかもしれませんのでリスクが大き過ぎて不可能です。しかし現状のままでも日本は、安全保障面ではアメリカを常に支持せざるを得ず、このままではアメリカを敵視、警戒する人々からアメリカと同等の憎悪を浴びるようになるでしょう。 ですから日本は軍縮-非武装主義を採用することで、アメリカとの軍事同盟を解消しても、アメリカの日本への警戒、敵視をもまぬがれて自立できるのです。日本が「普通の国」になろうなどというのは日本人の滅亡を招きかねない最悪の政策です。日本が既に「自衛戦争」すらできない脆弱な国であるのは世界の軍事専門家には常識でしょう。ですから、いくら「有事法制」で「自衛戦争」が可能な体制を創り、外交上の駆け引きの手段として軍事的な圧力を掛けても、ポ−ズに過ぎないと見透かされて無視され、むしろチキンゲ−ムの弾みで本当に戦争になってしまったら、第二次大戦以上の取り返しのつかない事態になりかねないのです。 日本はこのような世界で自立的な国になり、同時に最高の安全保障を得るには、一方的軍縮政策を採用するしかありません。その場合は、世界中の全ての国々に同時に特使を派遣し、それぞれの国の政府とマスメディアに日本の政策の趣旨を説明する等の方法で世界中の注目を集めて軍縮政策を実行すれば、効果は絶大となるでしょう。世界中の人々の圧倒的な支持を得ることが、世界最強のアメリカの「軍事力」をも凌駕するパワ−となって日本を守るのです。2、3歳の無力な赤ちゃんが側にいても誰も脅威に思わないでしょう。むしろ、心配して見守ってくれます。世界中の誰一人にも脅威を与えない事こそ、最高の安全保障策です。これこそが最高の政治というものです。 例えばスイスをどこかの国が攻撃するなどという事は想像できないでしょう。日本もスイスと同じような国に思われるようになればよいのです。日本と同じ理由で戦争が不可能な韓国など、世界中の国に呼びかけて同時に複数の国々で軍縮政策を始められれば、世界史の流れさえ変えられるかもしれません。日本は9条国家として世界史的任務を果たしたと世界中から絶賛されるでしょう。そうすれば、日本は民主主義を生み出した西欧と合い並び立つほどの世界史的な政治的威信を手にいれられるでしょう。 そして国際的な軋轢で当事国同士の交渉で解決できない場合に、中立の立場から調停する国際裁判所の設立を提唱するべきです。この裁判所は各加盟国から派遣された国際法の専門家で組織され、ここに提訴された国際問題は、当事国以外の法律専門家からなる国際裁判により審議され、判決には無条件で従わなければ、この条約の締結国から経済制裁を受けるなどの規則をつくり国際問題の平和的な解決ができるようになればよいでしょう。 |
2号 私達への疑問と答え(追加版2){03年4月} 母系社会の段解説は否定されたのではという疑問 |
最近、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿の研究者達は、進化史上、最も人間に近いこれらの類人猿の社会を父系社会と規定し、これを根拠に人間の初期社会も父系社会だったと主張して、人類の初期社会の母系社会説を否定しています。彼らは現在の類人猿が、初期の人類に極めて近い進化段階にあると考えて、この否定説を主張しているのです。 しかし、オスの類人猿に父−子関係意識を形成させる妊娠の仕組みについての知識、つまり子供は性行為で生まれ、メスだけでなくオスの血も流れているという認識があるとは到底思えません。またこの研究者の家族の定義の問題や、さらに進化史上の人間との近さ、あるいはDNAも人間に一番近い事がこうした家族のような文化の問題の根拠となりうるかなどの点で、これらの研究者の主張を否定せざるを得ません。 人間は完全に客観的な、つまり全能全知の「神」の目からみた観察、認識は出来ません。人間に可能なのは現在の人間の文化、知識を基準にして、他の生物を「理解=解釈」する事で、例えば、このサルは人間なら「ボス」だから「ボスザル」だとか人間的な理解―解釈をします。また私達は、同じ行為をしても鳥だと単に本能で、ゴリラやチンパンジ−だと先入観から、ついつい人間的な感情や意識に原因を求めてしまいます。この先入観の払拭は大変困難で、結局、これらの研究者達の主張はこうした先入観からの、安易な人間的解釈の結果としか思えません。 「日本の母系社会」にも書きましたが、私達と同じ人類の一部とはいえ、子供を祖先の霊の生まれ変わりと考え、男女の性行為で子供が生まれ、子供には男女の血が流れているという知識のない人々が少なくとも最近まで存在していました。ですから、ましてゴリラやチンパンジ−にオスとメスの性行為で子供が生まれ、子供にはオスの血も流れているという認識はないとしか思えません。 オスに父親としての自覚はないし、当然子供の側にもそのオスの子としての認識はないでしょう。オスに父親としての自覚がない以上、父系家族など成立しません。オスには、せいぜい自分の「愛人」の子供を、保護者、養育者、あるいは親しい大人として世話をしているという意識しかないのだと思います。自分とは無縁でも、母親ザルが死んだ子ザルを育てるオスザルもいますし、様々なサルより「下等」な哺乳類が、種の壁さえ超えて子育てをするケ−スはよく知られています。ですからゴリラのオスの父親的な子供への保護行為も、このようなものと区別できないのです。 このようにゴリラなどには、オスに父−子関係意識が成立していないので、人間の父系家族のように見えても、内実は全然違うものなのです。人間の場合、この妊娠の仕組みの知識がないと子供の血縁の男の成人は母親の兄弟となり、この母親の兄弟が子供の男の養育者としての「父親」となります。ですから、このような人々は必然的に母系家族−母系社会となります。 この妊娠の仕組みをゴリラやチンパンジ−が認識して「親」という意識があるかどうか、明示しないままこの研究者は、彼らの社会を無条件に父系社会として、人間の家族の場合と同じ言葉で規定して分析しています。ですから、オスに父親としての意識や自分の家族という意識がたとえないとしても、「父親」的な機能を果たしていて、生物学的にも「家族」であれば、その集団は家族であり、父系社会と定義し得ると考えているとしか思えませんが、こうした家族の定義は誤りです。 家族といえるのは、人間の社会のように家族が上部組織の村や町を構成する単位集団になっている重層社会の家族で、さらに家族内でのそれぞれの父、母、子供などの役割、関係が当事者達に意識されていなければなりません。家族は社会学的概念であり、人間社会にしかありませんし、人間の場合は通常、この関係が生涯継続します。 単に生理学的な関係だけでは家族とはいえず、親−子関係の意識があるかどうかが決定的に重要です。ゴリラやチンパンジ−の社会は単層社会で彼らの集団には上部組織的な社会はなく、父−子関係もありません。つまり研究者がゴリラやチンパンジ−の父系家族と呼んでいる集団は、メスの擬似的母系家族グループとせいぜい子ゴリラの親しい大人、保護者としての自覚しかない一頭、または複数のオスとの生活集団で、家族とは言えません。 結局、この研究者達は、自分の結論を導く論理の組み立ての都合に合わせて家族の概念を拡大しているのです。言葉によるコミニュケ−ションができない類人猿の意識や認識の調査は大変困難ですので、現時点では類人猿の家族についての研究は大きな限界のある研究です。ですから、単なる観察記録にとどめて、理論的なレベルまで言及すべきではありません。 また、人間の家族に近い生活集団を持つサルは単層社会のゴリラやチンパンジ−ではなく、重層社会を構成している単雄複雌のヒヒの社会という説があります。ヒヒの生活集団は、バンドと呼ばれる村のような上部組織の構成単位になっています。特にゲラダヒヒのオスは暴力によるメスグループの支配はせず、「説得」によりグル−プを統合していて人間の家族に近いそうです。 このようにゴリラやチンパンジ−より進化史上、人類からより遠く、DNAもより異なるヒヒの方が人間に近い前家族的生活集団を形成しているのであり、研究者達の進化史上の近接さやDNAも一番似ている点を根拠とする主張は成り立ちません。 この研究者達の議論は、前提的な問題を深く吟味せずに常識的なレベルの視点から、「証拠」を並べて科学的に論証できたと考える能天気な実証主義者の典型です。そもそも低い進化段階の類人猿の文化を高い進化段階の人類の文化で解明−解釈できても、逆は不可能なのです。木の枝を投げて威嚇するサルがいますが、この場合の木の枝は、様々な変遷を経てやがて核兵器にまで進化する武器の原初と私達は理解−解釈しますが、サルが核兵器を見てもそれが何であるか誤認さえできないでしょう。 家族のような文化的問題の解明のためには、まず文化も含めたト−タルで厳密な人類の定義をし、さらに類人猿の知能、文化についても詳しく調べた上で、初期の人類と現在の類人猿がどの程度、同一視できるのかという根本的な問題をまず徹底的に検討すべきです。おそらく人類がまだ「サル」だった頃の解明には役立つでしょうが、それ以降の人類段階は無理でしょう。 また日本の人類学者にも日本に母系社会の明確な証拠がないと日本人の母系社会説に否定的な実証主義の学者がいます。そもそも日本人の祖先はアフリカから、長い道のりを経て日本に到達したのですから、日本だけ調べれば結論がでるような問題ではないのです。このような学者は、裁判官のように明確な証拠の有無で判断をしようとしますが人類学は、やはり裁判ではありません。そもそもこのような明確な証拠などが出てくる可能性が少ない問題は、証拠がない事が否定の根拠にはなりません。証拠が発見されても常にどのように解釈をするかが重要で、証拠も大切ですが、やはりどのような理論を構築するかが最も重要なのです。 |
1号 私達への疑問と答え(追加版1){03年3月} 競争的市場経済主義者からの疑問―3 |
共生的な市場経済制度の実現と言葉ではいえるが、そう簡単ではない。日本国内だけでなく、世界中でどのようにして実現させるのかと言う方もいますでしょう。確かに大変、困難な課題です。 しかし世界レベルで激しい経済競争を回避する試みは、すでに環境問題で実質的には行われています。温暖化問題への対策として、炭素の排出を先進国がお互いに目標を決めて規制すると言う京都議定書です。アメリカが脱落し、残りの先進国の政策もどれだけ実効性があるのかわかりませんが、とにかくこれで、なんらかの「大義」があり、世界世論の強い支持があれば、世界レベルでの対応もさせられる可能性があるのが解りました。私達は自然の環境だけでなく、社会の環境も人には大切な事を世界世論として形成しえれば、世界に対応させられるのです。 この会議での各先進国政府の本音は、環境問題に前向きな努力をしていると自国民にアピ―ルするとともに、自国の競争力をいかに守り、相対的に強めるかでした。競争相手の国に高い目標を課し、相対的に自国の経済的効率、労働生産性をあげられれば、国際的経済競争で優位にたてるからです。つまり環境問題を、経済競争を勝ち抜くための手段にしたのです。 しかしこれは、驚くべき事です。各国政府のこのような思惑があったにせよ、やはりこれは国際世論の力の証明でしょう。私達が経済競争が環境を悪化させるだけでなく、家族を破壊し人類社会を根底から崩壊させかねないとアピールし、世界世論の支持が得られれば、場合によりかなりの改革が可能となるでしょう。 「先進国」の労働時間を減らす事や、夜間労働の制限、過当競争を招く投資の制限、特許期間の短縮や特許の独占を禁止し有償であれ必ず公開させるなど特許制度の改革、協同組合型企業の拡大策、あるいは、国家間の過当競争を少しでも緩和させるため、世界的分業体制の構築に向けて協議するように各国政府に強いる事も可能かもしれません。 また、問題なのは炭素だけではないので、環境問題はさらに経済活動の規制を求め私達の強力な援軍となるでしょう。要は働けば働くほど、エネルギーを消費し環境に負荷が掛かかります。世界が、とりわけ「先進国」が経済競争を続け、成長を追求する限り、環境と人間を破壊し続けるのです。 「先進国」は消費生活のレベルを下げ、「後進国」の生活レベルを上げて、世界中がほぼ均一の生活レベルになるようにしなければ、安定した安全な犯罪や戦争のない世界はできません。また、資源やエネルギ―は、必要最小限のみ消費する社会への転換を急ぐ必要があります。環境問題は、母系社会にも関わる問題です。 アメリカの労働組合は、自国の雇用を守るためかもしれませんが、ある自国企業の靴を製造するインドネシアの労働現場を調査して過酷な労働条件や低賃金を告発しました。そこでは靴を作る労働者は賃金があまりにも安いため、靴を買うお金がなく裸足で作業していたのです。このような活動は、過酷な労働条件を改善させ、世界的競争の緩和に役立つでしょう。日本の労働組合がこのような活動をしているのか知りませんが。 狩猟採取民の1日の労働時間は2時間程度。それも木の実などの採取労働で狩猟は1週間に1度ぐらいなのだそうです。彼らのリーダーは、文字どうりの公僕で苦労のほうが多いので、皆リーダーになりたがらないグループもあるそうです。私達の政治家達の暮らし振り振る舞いと比べるとどちらが本当の民主主義なのかわかりません。 犯罪の増加に怯えながら暮し、年間3万人以上が自殺して子供までも自殺するような私達の国は、本当に「先進国」なのでしょうか、いささか不安になります。私達が「後進国」と呼んでいる国の人々は私達へのお愛想で、この私達の自称を許しているだけなのかも知れません。 |