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ヴァイオリンの音

 ヴァイオリンの音に注目した経緯はDISCのページに書いたとおりですが、オーケストラの一員としてのヴァイオリンの次は独奏ヴァイオリンの登場です。まずはヴァイオリン協奏曲ですが、このところ女流ヴァイオリニストの登場が相次ぎ、CDも次々と発売されています。聴いてみたのは諏訪内晶子、五島みどり、アンネ・ゾフィー・ムター、ヒラリーハーン、リサ・バティアシュヴィリ、ジャニーヌ・ヤンセン、サラ・チャン、バイバ・スクリデ、ユリア・フィッシャーほか。言うまでもなく全員女性で、かつてヴァイオリンよりもピアノが人気があった頃には想像もつかないほど人材が豊富です。
 これらを聞いて、まずうれしかったのはヴァイオリンの音が聞きづらいと感じたCDが皆無であったこと。一時期デノンのCDプレーヤと聞き比べたことがありますが、エソテリックに代えるとヴァイオリンの音がくっきりと描かれ、切れ込みは鋭いのですが、決して刺激的ではなく、その違いは鮮明でした。これは特筆すべきことでしょう。

 これらのヴァイオリンコンチェルトの中で唯一音が気になったのは、ルノー・カプソンのヴァイオリン、ダニエル・ハーディング指揮、マーラーチャンバーオーケストラによる、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト。これはヴァイオリンの音が刺激的になる寸前のところで留まっているという感じですが、その理由はオケに比較して異常にヴァイオリンの音が大きいこと。ヴァイオリンコンチェルトの録音はほとんどの場合、ヴァイオリンのところにマイクを置くのですが、最近の録音ではそのバランスが自然ですが、これほどヴァイオリンが目立つ録音は珍しい。トゥッティでもヴァイオリンの音がしっかり聞き取れるところなど、いかにも不自然です。2003年の録音ですが、未だにこのような録音があることがちょっと信じがたい気がします。

 一方で演奏は極めて面白く、先ほど並べた女流ヴァイオリストは足下にも及ばない芸達者で、まるで曲芸師のごとく弾きこなす様はまさに快感です。今までのメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトのイメージとは全く異なり、リズム感にあふれ、感傷に浸るまもなく、あっという間に一曲が終わってしまいます。メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトで良いなと思ったのは、五島みどりとヤンソンス、ベルリンフィルのSACD。五島みどりはあまり関心がなかったのですが、このCDを聴くと見かけの印象とはまったく異なり、大陸型でスケールの大きな演奏をする人で、深々とした情感豊かな演奏は、若い時から米国で育った人はやっぱり違うなと思わせるものでした。


 ヴァイオリンコンチェルトでも、SACDのメリットは大きく、これはヴァイオリンそのものの音もさることながら、オーケストラのダイナミックレンジが効果的なためと思います。このメンデルスゾーンもその点は見事に発揮され、それがスケールが大きい演奏と感じさせることに大いに貢献しています。まったく同じことは諏訪内晶子とオラモ、バーミンガムシティオーケストラによるシベリウスのヴァイオリンコンチェルトにも当てはまります。このSACDは人気のあるアルバムだそうですが、諏訪内のヴァイオリンはみどりよりも線が細く、いわゆる柳腰のイメージなのですが、これとダイナミックレンジの大きなオーケストラとのコントラストが何とも心地よく、聴いていると実に切ない気持ちになります。

 まあシベリウスの曲そのもののがそのような感情をもたらすわけですが、やはり演奏の違いは大きな要因です。たとえば、ヒラリー・ハーンのシベリウスはヴァイオリンの音そのものがまるで違い、粘りがあって伸びやかな音なのですが、全体がそのような引き方なので、ちょっとのっぺりしたところがあり、切なさといった日本的情緒を感じる演奏ではありません。さりとて、これが北欧の雰囲気かと言われるとそれも違うように思われ、やはりヒラリー・ハーンのシベリウスということでしょう。

 若手演奏家で特に印象に残ったのは、リサ・バティアシュヴィリ。この人のシベリウスはハーンの力強さと諏訪内の繊細さを合わせもったものという印象で、そのバランスがすばらしい。まさに泣かせるところはウエットに、盛り上がるところは情熱的にといったところです。こちらの指揮は諏訪内と同じオラモ。ただしオーケストラはフィンランド放送管弦楽団です。音楽の構成がしっかりしている印象をうけたので、きっとベートーベンのヴァイオリンコンチェルトも性格的に合うのではないかと思っていたら、なんとシベリウスの後に出たCDがベートーベンのコンチェルトだったので、我ながらびっくりしてしまいました。グルジア出身のヴァイオリニストですが、ベートーベンとのカップリングに自国の作曲家の民族的作品を持ってくるなど、若いけれどそれなりの経験と主張のある人と思いました。(2008年11月)


 女流ヴァイオリストといえば、アンネ・ゾフィー・ムターを外すわけにはいかないでしょう。2006年はモーツアルト生誕250年で、かつムターのデビュー30周年ということでモーツアルトのヴァイオリン曲を集めたアルバムが発売されました。ムターとモーツアルトいうのはあまり結びつかないのですが、グラモフォンの企画とはいえ、そのようなアルバムを作ることは本人も同意の上でしょうから、少なくとも本人はそうは思っていないということでしょう。
 さてモーツアルトのヴァイオリン協奏曲ですが、全部で5曲あり、1番が1773年、あとの4曲が全て1775年に作曲されています。1775年はモーツアルト19歳で、いずれも流麗で明るいモーツアルトらしい作品です。若いからというのはモーツアルトには当てはまらない言葉ですが、ピアノコンチェルトに例えれば、明らかに20番以前の作品群に分類されるたぐいの曲で、一度聴いたら忘れられないという作品ではありません。モーツアルトの作品について述べるほどの知識はありませんが、この5曲で止めてしまった理由は知りたいところです。何故かあの20番以降のピアノコンチェルトに相当するような味わいのある曲はヴァイオリンコンチェルトには存在しないのです。当時の生活環境から推し量ると、おそらくヴァイオリンコンチェルトの作曲の要請がなかったということなのでしょう。しかし一方で、ヴァイオリンソナタの方は生涯を通じて作曲していますので、ヴァイオリンに興味を無くした訳ではなく、生活のためだとすれば残念に思います。もっともヴァイオリンソナタはそれを補って余りある成熟した音楽の宝庫で、それで十分だろうというモーツアルトの声も聞こえてきます。特にヘ長調K377、変ホ長調K380、変ロ長調K454、変ホ長調K481、そして最後のイ長調K526。ヴァイオリンコンチェルトが音の遊びとすれば、これらは自らの心のありかを音に表現した、まさに大人の音楽。K380など、ベートーベンのヴァイオリンソナタ5番(春)を思わせる楽想で、もしかしたらベートーベンが手本にしたのではないかと思える精神の高揚が感じられる曲です。

 さてムターのヴァイオリンですが、今時こんな音楽をやる人がいるのかと思われる位、表情たっぷりで、古きロマン派の生き残りという印象です。嫌みはないのですが、モーツアルトですすり泣きをやられると、ちょっと違和感があって、しばらく聴くと演出過剰なところが気になってきます。言ってみれば最初はおいしいのだが、だんだんしつこく感じられるちょっと味の濃いレストランでの食事に似ています。まあ日本人には絶対出せない味といえるでしょう。5曲あるヴァイオリンコンチェルトでは3番以降が曲想の変化があって比較的成熟した印象ですが、3番のカデンツァなど、ムターのはまるでおしゃべりのように聞こえます。


 ムターのモーツアルトと対極に位置するのがユリア・フィシャーで、決して表情が不足ということではないのですが、ムターを聴いた後では余計そう感じる傾向はあると思います。3番のカデンツァでムターをおしゃべりとすれば、こちらはバッハを思わせるリリシズム。考えてみればおしゃべりのように感じるというのは、まさに肉声のイメージですから、それだけのテクニックで聴かせるということで、これだけでも特筆すべき才能と言えるでしょう。ただし、どちらがモーツアルト、得にこの音楽的に未成熟なコンチェルトにふさわしいかと言えば、特に1楽章のアレグロや3楽章のロンドでは素直な表現の方が曲の本来の持ち味を生かし、若きモーツアルトらしい快活な音楽を楽しむことができます。


 モーツアルトのヴァイオリンソナタについていくつか紹介したので、ついでにムターの演奏について一言。ヴァイオリンコンチェルトに比べると大人の音楽なので、それだけ自由度というか許容度が大きいというべきか、それほど演出過剰な感じは受けません。アダージョはちょっともたれる印象がありますが、それでも全楽章を通じて一つの世界を作り上げているところはさすがで、円熟した音楽を聴かせます。モーツアルトがどのような演奏を望んでいたかは知る由もありませんが、このような演奏はモーツアルト後のロマン派の存在を知っている世代だからできることで、ベートーベンの登場以前に、こんなに多彩なアプローチができる音楽を書いたモーツアルトの偉大さを改めて思い知らされます。

 同じグラモフォンでこれも生誕250年記念ということで発売されたのがヒラリー・ハーンのヴァイオリンソナタ集。同じ曲目での比較ということで、イ長調K526を聴いてみました。まずヴァイオリンの音が研ぎ澄まされた感じの切れ込みの良い音で、これは彼女らの音楽の特徴でもあり、よく言えば若さあふれた音楽ですが、果たしてこれが同じK526かと思えるほど。決して味わいがないというのではありませんが、モーツアルトのアレグロではなく、フリーウェーを快走する印象。録音がまたヴァイオリンもピアノの音もフォーカスが定まった明快な音で、これがそのような印象を強めていることは間違いありません。ヴァイオリンという楽器の種類について云々する知識は持ち合わせておりませんが、明らかに楽器の音色が違い、奏法もストレートな印象です。

 このムターとハーンの中間に位置づけられるのがフィリップスから発売されたマーク・スタインバーグのモーツアルトヴァイオリンソナタ集。このアルバムは内田光子がピアノを受け持っています。こちらはSACDで、録音の評価が高かったのですが、残響が多すぎて楽器のフォーカスが甘く、世間の評判ほど良い録音とは思えません。ただし演奏はすばらしいもの。ムターとハーンの中間と言いましたが、中間というのは表現の違いを並べただけの話で、ムターのような過剰表現ではなく、音楽の本来の良さを生かしつつ、十分に歌わせた演奏で、個人的には最も気に入っている1枚です。ここにもイ長調K526が収録されていますが、ハーンと比べるとまさに円熟の音楽。とは言え、ヒラリー・ハーンとナタリー・スーも改めて聞き直せば、ロマン派を知らないモーツアルトの演奏は実はこのようなものではなかったのかと思わせる、このコンビならではのフレッシュで好感の持てる演奏です。(2009年1月)


 ヴァイオリンソナタとくれば、次はやはり弦楽四重奏でしょう。この分野は名曲が多いのですが、4つの弦楽器という簡素な構成のためか、無駄な要素がそぎ落とされた、凝縮された音楽が多いのです。中でもベートーベンの後期四重奏は孤高の傑作として良く知られています。しかし、モーツアルトもそれに劣らず、極めて洗練された音楽を作っています。四つの弦楽器と言う、ファンダメンタルな構成ゆえに、音楽による思想の表現や、深みを追求することになるのでしょうか。
 そんな思いを抱きながら聴き始めたのですが、これがオーディオの難しさで、いくつかのCDを聴いてみましたが、いわゆるピーキーな音で、到底弦楽器の持つあの豊かな響きが出ないのです。ここで再度セッティングから見直すことになり、まずはスピーカを床から浮かせ、床の振動を受けないようにしてみました。オーディオの楽しみとは、まさにこのような特定の音楽ソースから、こうあってほしいと思う音を引き出すための努力にあるわけですが、そのための試みをここに記載すると、このページのテーマとあまりにかけ離れてしまうので、以降の改善については、スピーカのセッティングのページに記載しました。その後またこのページに戻ることになりますが、これこそオーディオと音楽が交錯する醍醐味ということで、ご理解ください。(2009年4月)

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