突然ですが、驚いてください
2002年四月のことです。

さて、4月26日、今、僕は山中湖にこもっています。
湖畔の「清渓荘」という日本青年館経営のホテルに合宿して、近くの別荘を借りて、そこをロケセットに
TBSの月曜2時間ドラマ『軽井沢夫人』という作品を撮影しています。
4月17日から、ずっと(もっとも24日は東京に帰りましたが)入っています。現場マネージャーの涼子君が一緒です。

24日は友人の俳優古谷一行が主演、製作を担当している
松尾昭典監督の映画『手紙』に友情出演するために、金沢にJALで飛びました。
松尾監督も、とてもお世話になった監督です。
石原裕次郎さんがデビューしたときから監督をやっていらっしゃった名監督で
今回の映画『手紙』を監督生活の集大成としてつくっておられるのです。
古谷君は主役の郵便屋さん。ボクの役は、災害派遣された金沢の自衛隊の班長です。
現場には現役の自衛隊員の人たちがエキストラできてくれて、
中には習志野のパラシュート部隊のバッジとレンジャー部隊のバッジをつけた精鋭の兵隊さんもいました。
隊の中でも、みんなから一目置かれているようです。

23日の山中湖の撮影が深夜まで続いたので、24日の金沢行きは一度自宅に帰ったものの
睡眠時間1時間ほどで羽田に駆けつけたものです。
金沢空港から1時間ほど車で走った現場。
半日ほど、道路補修工事の自衛隊の指揮官役で
金沢の山中で過ごし、
松尾監督や遠藤照明技師、小野撮影技師、一行クンたちと昔話に花を咲かせる暇もなく、
すぐその足で再び東京に戻り山中湖に入ったのです。


『軽井沢夫人』は、プロデューサーがなつかしい『Gメン75』の近藤照男さん。
監督は『野生の照明』『敦煌』でお世話になった、佐藤純彌さん。
主役の軽井沢夫人が『池中玄太』で、競演した坂口良子さん。影の主役が、敬愛する丹波哲郎さんと、それに僕というわけです。

警察庁の潜入捜査官の話です。
熊谷真実ちゃん。安藤力也改め力也くん。片桐はいりさん。
中山仁さん、梅津栄さんなどが主だった配役です。

僕なんか嵐の夜に、稲妻の中で殺されそうになるんですよ。どうです、面白そうでしょう。

これはね、視聴率さえよければシリーズ物になります。
また放映日近くなったらご連絡しますから隣近所にも宣伝して
ぜひ月曜日はテレビを6チャンネルに合わせておいといてくださいね。

    どうも長々と書いてしまって申し訳ありません。    またあう日まで。                   原田大二郎

p/s 緊急報告

人生って、どこに落とし穴が転がっているかわかりませんね。

落馬しました。手術です。『軽井沢夫人』、撮影終了日もまじかの26日になって、小雨の中、乗馬シーンを撮ることになりました。

同じ佐藤純彌監督の映画『敦煌』で、6ヶ月にわたって中国の土漠で蒙古馬を乗りこなしてきたのです。
毎日3時間の外上(馬場の表に出て乗り回すことです)が日課だったんですから、乗馬は、へたなはずがありません。

でもその割には、馬場のオーナーには僕の馬上の姿勢は、朝からなんとなくぎこちなく見えていたそうです。

撮影に入って1時間、その間ずっと馬を走らせ続けているのですから、馬もたまりませんが、
僕の方も、いい加減、腰が痛くなってきました。
30過ぎてすぐに始まった「腰痛持ち」が、その「腰痛」を、だましだまし、なんとかこれまでやってきたんですから。  
上体と下肢の蝶つがいが、うまく作動しない感じ、わかります?

それに3年ほど前、佐久山荘でぎっくり腰をやったことを自分ではすっかり忘れていました。

馬を疾走させてカメラのほうに向かおうとしたそのとき、
ツと、鞭を持つ僕の右手から手綱が離れ落ちました。
馬はそのまま小回りに走っています。手綱をとりなおし体勢を立て直そうとした瞬間、
馬が足でも折ったように、よろめきました。
84キロもの重さを1時間も背負って走り続けているんですからね。馬を責めることはできません。

こういうときは、騎手は手綱を持ち上げてやるだけで馬はたちなおるものなのです。
ところが僕の右手は、手綱をちゃんとつかみきれていなかったのです。
バランスを崩して、あっという間に馬の左側へ落ち込みました。 

落ちる途中で障害用の硬い木の柱が、視界に飛び込んできました。
ヘルメットをちゃんとかむっているのに「あ、障害の柱なんかに当たっちゃうと、障害者になるんじゃないか!」と考えたのが、
最初の不幸の始まりでした。
きっと、何か無理な体勢になってしまったのです。どーんと地面を蹴ったに違いありません。
何しろ自然に馬なりの「落馬」なら、競馬の最中なら別のこと、普段はまず怪我なんかしません。
馬は決して落馬する人間を踏んだりしないのが普通です。
手術が必要なほどの怪我するというのは、よほど無理な体勢で落馬したことなのですから。

右足をアブミにとられたまま、さかさま立ちに馬体と柱の間の狭い隙間に転がり落ちながら、
障害の柱を上手に避けながら着地したとき、両足に猛烈な、こむら返りがおきました。
ふくらはぎが、ブルブルと鋭い痙攣をおこしているのです。
なんと、この間、
例の「障害者」云々と思ったときから、足のコムラ返りを知覚するまで、自分の中に一切の記憶がないのです

寝そべったままで、駆けつけたスタッフに頼んで長い乗馬靴を脱がせてもらい
足の親指を膝頭に向けて反らせてもらいます。思いっきり足の親指を上体のほうへ引っ張るのです。
大体これでこむら返りは治ります。
右足を担当した若いスタッフには、その方法を教えてやらなければなりませんでした。

こむら返りがおさまったので、みんなを安心させようと思って、起き上がったそのとき、イヤー、ビックリしました。
体重が左足にまったくかからないのです。
直立することが不可能だということが、判明しました。右足一本で立つこともままならないのです。
あわてて両側のスタッフの肩をつかみながら、監督に撮影続行不能を進言しました。
「監督ーッ、だめでーす。動けませーん」

これ、言うときの役者ってつらいんだよね。役者が動けなかったら、ソレ役者じゃないもの。

すぐに富士吉田の市民病院に担ぎ込まれてレントゲンとMRIを撮ってもらいました。

「僕が主治医なら、即座に手術です。東京のほうにお帰りになるでしょうから東京の病院あてに紹介状を書かせていただきます」若い先生が、写真を見て即座にそうおっしゃいました。

その後、病院から山中湖の別荘にとって帰し、急遽、僕の動きを「座ったまま」ということにして
最後の1シーンを撮り上げました。
急を聞いて駆けつけてくれたマネージャーの武田君と規梭子夫人、虎太郎君、涼子ちゃんとをしたがえて
エステマ、マークU2台連れ立って、東京に帰ってきたのは夜も遅くなってからでした。

慶応病院の救急に入りました。
規梭子が去年6月からお世話になっている
神経内科の天野先生のお骨折り(僕も左足お骨折りです)で、入院の部屋を確保できたのです。

ざっと症状を説明しておきましょう。
大たい骨をひざのところで受けているのが脛骨です。むこうずねというやつですね。
脛骨はおおむね、頂上部が平たくなった骨で、
頂上に軟骨とゼリー様の半月板を乗せて、それで丸い拳骨みたいな大たい骨の端を受け止めているのです。

馬から落ちるときに
左足の頚骨のてっぺん付近に、一点集中的に異常な重みがかかったらしく
てっぺんのうしろ外側が粉々に砕けて(粉砕骨折)、1センチほども陥没しているというのです。

「僕は手術は受けませんから」
慶応病院に担ぎ込まれた時から、そう連発していましたので、
翌日の病室には「慶応大学病院膝班」の先生方が何人もいらっしゃって、舌を尽くして説得に努めてくださいました。
天野先生までわざわざ来てくださって、手術を勧めてくださいます。
このままでも膝は固まるが、正座ができなかったり、体が一方に傾いてしまうようなことになる。
原田さんご自身の左側の骨盤から骨を幅1センチ長さ4センチばかりきりとって、
脛骨の砕けた箇所に植え込んでやりましょうというわけです。
ちょっと『ヴェニスの商人』みたいな話ですが
当初予定の5月1日はついに手術室がとれず、一日延期で5月2日に手術です。

今日21時から絶食のところ、そういうことで一日伸びました。
 
ところで、事故がおきてから今日に至るまで、一度も痛んでいません。
看護婦さんは部屋に入ってくるたびに「痛みませんかぁ」といいます。
痛まないというのは、とっても不思議なことのようです。
                            2002/4/30   大二郎





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  手術前日
 今日はとうとう手術の日 その1
 今日はとうとう手術の日 その2
 手術、なんとか成功裡に!
 手術・第4段
 脛骨粉砕骨折手術経過報告 第5弾
 脛骨粉砕骨折手術経過報告 第6弾
 脛骨粉砕骨折手術経過報告 第7弾