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伝説 的様

道志村には数多くの伝説がある。
中でも源頼朝公を讃える話は非常に多くそれにまつわる遺跡も残されている。「的様」の話は代表的なものであろう。ここに紹介する伝説は伊藤堅吉氏の著書『道志七里』を元にしています。


目 次

[的さま] [頼朝の足型石] [牛嫌いの八幡様] [光淵] [試し岩] [公論橋] [湯元の不浄洗い] [大幟飛ぶ]
[二本栩] [馬乗石] [阿弥陀淵] [衣乾石由来] [弘法大師とカジッカ] [信玄の米研ぎ] [雛鶴姫]
[ヤシャラマンガンの秘宝] [山伏峠由来] [頼朝の豪弓] [御正体山の妙心上人] [頼朝に水を献ずること]
[頼朝の馬蹄石] [鐘撞山と長者]


的様

道志川の支流室久保沢を1500メートルほど遡った所に頼朝伝説の一番手とも言える的様はある。昔、源頼朝富士巻狩りの時字的場に高櫓を造り櫓上から4粁ほども離れた室久保沢の沢床にある的様を射ようとした。ところが矢の通り道には樫・檜・椿・椹などが生い茂り薄暗く標的の的様を見通すことが出来なかった。
そこで頼朝公は「暗かろうぞ」とこれら樹木を睨み付けると4種の樹木はすべて枯れ果ててしまった。不思議なことだが現在でも檜・椹・椿・樫の木は室久保沢には存在しない。
また、櫓が建てられた地から本坂峠沿いに登る沢には櫓沢という名前が付けられている。
当時は一の的、二の的、三の的と三つの的が存在したが、現在は二の的三の的は埋没し見ることは出来ない。
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頼朝の足型石

大室山北面にある大室指に頼朝の足型石はある。滝山から大室指まで馬に乗り馳せ下ったが、ここまでくると草鞋の紐が緩んだので馬を止めて岩につま先をかけて紐を締めた。このとき踵の跡が残ったとされている。また、岩の前に大樫があるが、ここにも頼朝公が登ったとされる足型がある。

つま先をかけたのになぜ踵の跡?そもそも岩がへこむ?なぜ頼朝が木に登る?何かにつけ頼朝に結びつけられずはいられなかったのだろう。
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牛嫌いの八幡様

大室八幡様は牛が嫌いだ。牛肉を食べたものはこの神社を通ることはなかった。
ある時7頭の牛を曳いた男が境内を横切ったら、一頭残らず一晩のうちに死に果ててしまった。
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光淵

道志村と秋山村をつなぐ巌道峠の奥に御堂があって、金の阿弥陀如来象が安置されていた。ある時一人の乞食が如来像を盗もうと如来像を背負って逃げ出した。罰はすぐに下って乞食は糞壺に落ちてしまった。それでも乞食はめげずに大羽根の急坂まで来た時だった。ここは道志川を遙か足下に見下ろす断崖の上である。乞食は急に身体の自由を失い道志川の深淵に落ち流されてしまった。
川底に残された阿弥陀如来像は何とか外に出たいと光を放ち村人に訴えたが、これを見た村人は乞食の幽霊が出たと恐がり何時しか七日の日が過ぎてしまった。
八日目道志川は豪雨に見舞われ大荒れとなった。このとき、阿弥陀様も津久井の村まで流されてしまったが、この村では悪疫が流行し村人は苦しんだ。
ある日村人の夢枕に川底に如来様がおられて道志の久保に帰りたいとお告げがあった。村民は川浚いをし金の阿弥陀様を外に出すと、悪疫も収めることができた。この地は字道志と呼ばれ、道志村を奧道志と呼びこの地を下道志と呼ぶのはこの伝説から来ているという。
一方乞食が転落した大羽根でも大室指の人転んで怪我をすることがあり、易者に見てもらった所乞食の祟りとわかり、施餓鬼を行い霊を慰めた。この地のあるお宅には乞食の位牌が祀られている。
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試し岩

大羽根の地で武道錬成に時間を費やした源頼朝は突然駆け出そうとした馬を止めようと刀を傍の岩に突き立てた。そのときの刀痕であると伝えられている。
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公論橋

字大椿地内に十王堂がある。この堂の前に公論橋と言う幅36センチメートル1メートルほどの岩を3枚並べた石橋が小川にかかっている。
ここで山路は地獄極楽に進む六道の辻道だった。十王堂の堂内から悲しみを訴える声、嗚咽にむせぶ声が聞こえる時には必ず不幸があった。
堂宇の中では閻魔大王が九眷族と獄卒、監守、巡邏を従え懲罰司法の評定が続けられているのである。亡者在世中の是非曲直によって極楽に行ける者、地獄に行く者公論橋の六道に振り分けられて懲罰司法の審判は公論橋の橋裏に刻み込まれ大権は終わるのだった。
つまり村中に死人がでるとその罪科を決めるために、堂中は口論で大騒ぎになるのでこの名前が付いたとされる。
現在の公論橋はコンクリートで固められ昔の面影はない。3枚の石板のうち2枚は移動され、現在所在はわからない。残りの1枚のみがコンクリートの端から顔を覗かせているのみである。
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湯元の不浄洗い

昔、道志川の北岸から村には珍しい出湯が流れ落ちていた。
ある婦人が夜半にこの温泉で不浄物を注ぎ洗いをしたが、それ以来この出湯は止まってしまった。

近年この伝説から道志村にも温泉が出るに違いないと調査が行われ、現在和出村地区室久保川上流に「村営道志の湯」、小椿地区道志川沿いに「紅椿の湯」の二つの温泉施設が湯煙を上げている。
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大幟り飛ぶ

北都留大原村(現在の大月市猿橋)に八幡社があった。ある時野火がありこの社まで燃え移りそうになった。氏子はご神体だけでも移そうと社の扉を開いたら大幟が火炎にあおられて空高く舞い上がり、どこかへ飛んでいってしまった。
幟は道志まで飛んできて馬場に舞い降りた。馬場を中心としたこの地域を長幡と呼んでいるのはこの伝説のためと言われている。
ここから幟は大渡に舞い降り、さらに相州大山の麓、柏尾薬師へと飛び去った。
大渡の地名は大幟が舞い降りた地として「大幟」と名付けられたが何時のまにか大渡と変わっていった。
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二本櫟

馬場の田代に3軒の家が東西に並んでいる。東から”下隣””中””新家”と呼ぶ。この下隣と新家の北側に櫟の大木が一本づつ枝を差し交えるように繁茂していた。この二本の櫟、一年ごとに代わる代わる花を咲かせ実を結んでいた。後にこのうちの一本は枯れてしまう。
それからというもの、残された一本は年毎に東側の枝に花実を結ぶと西に無し、西側に枝に花実を結ぶと東に無し。と、いうふうに二本の時と同じような不思議な実の付け方をした。
その後残る一本も枯れ今は株の後も見ることが出来ない。
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馬乗石

国道から道志川を渡った竹之本の川辺に頼朝公にまつわる馬乗石がある。頼朝公が馬に乗る為この岩に登った時沓型がこの岩に残ったと伝えられている。
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阿弥陀淵

湯本に惣兵衛という木こりが住んでいた。道志川に御姫淵という深淵があるが、惣兵衛翁は淵に差し出た川辺の崖で木を倒していたら誤って斧を淵へ落としてしまった。斧を拾うために淵へ飛び込むとそこでは河の女神機姫が機織りをしていた。翁は恐る恐る姫に近づき落としてしまった斧の一件を訪ねると姫の傍にその斧が置いてあったがなかなか返しては貰えなかった。
機姫は翁に向かい道志の里の艶話をしてくれれば斧を返すと言うので翁はこれに応えて里に秘められた数々の話を詳しく語り聞かせると、姫はたいそう歓び歓迎の宴を開きいつしか三夜を過ごしてしまった。
斧を返してもらった翁は土産に機の糸管を手渡され、家に帰ってみると家ではなんと僧侶や親族が車座となって翁の三回忌の法要をしていた。翁はたいそう驚いたが、とにかく家に入ると今度は一同が腰を抜かした。しかし、幽霊でもなさそうだとわかると法要は祝いの宴に変わった。
その後翁は奥さんに機姫から貰い受けた糸管を使い機を織らせていたが不思議なことに糸はいくら使っても一向に無くなる様子がない。この話は近所で話題になり、その一人が媼に訪ねると、媼はうかつにも御姫淵の話を口外してしまった。すると糸管は忽然と消え去り翁媼はただ唖然とする他はなかった。
御姫淵からこのとき不思議な怪鳥が飛び出したが、そのときに湯本の犬鶏家畜をすべて攫っていってしまった。その後湯本では犬鶏家畜を飼うことが出来なくなってしまった。
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衣乾石由来

馬場は川久保の地に昔川久保山魚藍寺(またはゴアン寺)という堂宇があった。
ここに巌道峠の峰続きににある蛇坪に生息していた大蛇が、ある時女性に化けてこの堂宇に泊まったことがあった。この美しい女性は魚藍寺の僧を口説き落とし、仏門三昧の厳行を破らせてしまった。大蛇はこの僧に激怒すると大水を出して寺も僧もすべて道志川に流してしまった。このとき僧の衣が磧石に引っかかり残った。この磧石をさして衣乾石と呼んだ。
今はこの川久保の地も開発が進み、存在したというゴアン寺のあった場所も、衣乾石も所在はわからない。
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弘法大師とカジッカ

道志川の神地付近には”カジッカ”と呼ばれる魚が群生していた。これは、昔弘法大師が道志川の下流よりこの魚を放流しながら上ってきたのであるが、神地まで来たら広々とした流路を作っているのでここが最適な放魚地として、大量のカジッカを放ったためだといわれている。
現在カジッカは数が少なくその姿を見ることは難しい。
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信玄の米研ぎ

城ヶ尾峠から県境の尾根の西方に一寸した平坦地がある。ここは武田信玄が北条勢を監視した見張り台であると言われる。
ここに水源を持つ白水の沢は、信玄が兵糧の米を研いだ沢だと言う。
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雛鶴姫

道志川の支流神地沢(道坂川)に御墓の沢という小さな枝沢がある。この沢の落合には小さな石祠が祀られてあった。
護良親王の首級を携えてきた雛鶴姫は、ここまできて息絶えてしまった。村人は集まり棺場の沢(神地沢の枝沢の一つ)の立木を伐って棺を作り雛鶴姫の亡骸をこの地に葬った。後に祠を建て毎年三月十五日に村人は酒をつるしてここにきて祭り事に一日を過ごしていた。
しかし大正九年八月四日の大荒れで祠は流されてしまいどこかに埋もれたままになっている。
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ヤシヤラマンガンの秘宝

長又の久保平に光明寺があった。上の堂下の堂と二つの堂宇があり参道の両側には十三体の地蔵尊が立ち並び、堂内には阿弥陀如来を本尊にいくつかの仏様が安置されていた。ある時一人の旅僧が諸国巡の途中に立ち寄った。この僧はどこかのお寺の再建を目指し懐には巨万の浄財を蓄えていた。
雨露を避けようと尼がこの寺に立ち寄ったとき、僧はこの尼に色欲を訴え、財宝を地下に埋設するとここを終局の地としようとしたが、心ならずして僧は病死してしまった。
その後地下に埋められた財宝を狙うものが絶えなかったが、盗人が寺の中にはいると地蔵の首が落ち果ては踊り回って皆驚き逃げ帰ったのであった。
地下の財宝について次のような唱え詞が伝えられていたらしい。
今は知る人はいない。

   雀が三踊りするところ
   びらんじょうの木の下に
   平らな大きな石がある
   漆が千杯.朱が千杯
   金がヤシヤラ万貫埋めてある

今から百年以上も昔、この寺が寺小屋として使われていた頃お師匠が弟子を使いこの地を掘り返したことがある。しばし掘り下げると地中から平らな大きな石がでてきた。皆一喜一憂し石の周りを掘り広げてみたが、いくら掘ってもついに掘り起こすことができず、元の通り埋め戻してしまった。
その後堂宇も朽ち果て今は山畑地となり首のない石仏があるだけだ。
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山伏峠由来

ある年一人の山伏が道志川を遡って白井平・長又の地へ入ってきた。山伏はとんでもない悪法院であり、穏やかだった山里も阿鼻叫喚の地獄へと変わっていってしまった。山伏は盗みを働き、暴力をふるい、放火をし、女とみると強姦した。
この狭い山間の地に、血と汗を滲ませ年月をかけようやく作り上げた財産も次々とはぎ取られ火を放たれ、愛娘、愛妻のかまいなく肉親の前で犯される悪鬼のような振る舞いにも、仕返しを恐れ刃向かえず不安の日々を過ごすしかなかった。
しかし忍耐にも限度があった。白井平の水越一家と、長又の池谷の一部は手に手に鍬や棍棒を取り、ついに悪法院追討に立ち上がったのである。多勢に無勢、さすがの悪法院も逃げるほかなく峠越えをして山中へ逃れようと急坂を駆け上った。しかし、そこは生まれ育って慣れた峠道、峠の頂でついに山伏をとらえ衆人の滅多打ちにあって山伏は絶命することとなった。
村民は山伏の骸を峠に葬り法院塚と名付けたが、それから村内にひどい疫病が流行し次々と病に倒れていった。この年村では神官を立て祈祷を行ったが山伏の祟りであるとの御占召がでた。白井平では村山権現という山伏の霊を祀る神苑を作り、長又の水越一家は白井平らへ移り住んだ。が、その後も古屋敷の地は鍬を入れれば人が死ぬなど奇怪なことが続きここにも慰霊のための石祠を祀り、ようやく平穏な村に戻ったのであった。
山伏を葬った峠は誰が云うともなく『山伏峠』と呼ばれるようになった。
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頼朝の豪弓

道志村の一番上流の長又に矢頭(ヤノウ)と呼ばれる道志川に面した小さな大地があった。源頼朝はこの地でも弓を引いたが、その標的はなんと神地の矢先と呼ぶ地点に及んだ。(もっとも矢先と呼ばれるのはこの物語に依るのでこの後になる)距離にして約4キロメートルのもなるのであるから驚き。矢先の川に沿った断崖の上に巨大な松が枝を伸ばしておりこの枝に標的をつるした。
頼朝の放った矢は白井平・板橋・善の木部落の頭上を越え矢先の標的に見事に突き刺さったのである。その後当時の矢の根らしい物を拾ったという人が現れて、長又では頼朝の武勇をたたえて、この矢の根を御神体とした矢の根神社を祀った。

それにしても先の的様の件といいこの村の頼朝に対する崇拝ぶりは思わず笑ってしまうほどだ。
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御正体山の妙心上人

御坂山塊の最高峰御正体山は古くより山頂に御正体権現がおかれ、古くは登拝するものが多かった。幕末の頃信州善光寺から妙心上人という法師が御正体山頂に杖を引いた。
そして頂上から少し西側の酒庫という洞窟を見つけ、自然の露岩の上に抜坐すると荒行と念仏三昧に明け暮れた。
たまたま狩猟に出かけていた白井平の猟人が、法衣は破れ、髭は伸び放題の法師を見つけいぶかしげに「いつ頃登られたか」と聞くと、「すでに三つ年の瀬を過ごしもうした」と応えた。
当時御正体山を囲む山麓一帯には山犬が群生していて、農作物や人畜など群れをなして里を襲い大きな被害を受けていた。しかし、俊敏で神出鬼没の山犬に妙策もなく万策尽きただ歯ぎしりするほかなかった。猟人はこの里の苦境を法師に告げると、法師は印を結んで祈念すると御正体山を囲む十里四方の山犬をすべて封じ込めてしまった。
これには里の人々がどれほど喜んだことか、それからというもの法師の噂はそこかしこに伝わり、上人を慕う信者は激増し道志村の里人はもとより、都留、秋山、忍野遠くは津久井、相模地方からも信者が登拝してきた。上人は山村に住む人々を愛し、禁獣、医療、予言などをし、里人の苦難を救った。
しかし、常に祈祷三昧草を蒲団に岩を枕にし、食事は蕎麦粉を水に溶いて食べるという簡易なものだった。丹沢と御坂の山塊に囲まれた過酷な環境の中に辛うじて炊煙を上げて慎ましく暮らしていた里の人々が、上人にいかに教えられ助けられたことか。上人が生き神のごとく慕われたのもうなずける話である。
法師にも寿齢はてる時がきた。法師は死後自分の骸をミイラとし死して後まで衆生徳化に資したいとし、信徒に「わしは明日丑の刻衆生の罪業を一身に背負うて入寂する」と宣言した。信徒は上人の臨終近きを知ると忙しく御正体山に馳せ登った。上人は多くの信徒に見守られ逝ける歓びに頬をやわらげ、中央の厨子に入り念仏しつつ丑の刻を待ったが、信徒の間に上人の遺物の奪い合いが始まり、仕方なく厨子を降り、争いの元となった書物を取り上げ、これを呑み込んでしまい厨子に戻ると、丑の刻はすぎてしまっていた。

     「少し遅れた」

これが衆生済度に身を捧げ通した上人の最後の言葉となった。法師の骸はミイラとなって御正体峰宮に奉安されていたが、甲府の代官の指示で一時鹿留に降ろされたことがあり、明治期に大阪の博覧会に出品されたとも言われる。下にも記すが上人のミイラは明治23年生まれ故郷の岐阜県にある横蔵寺に安置され現在に至る。

妙心上人について
安永8年(1779)11月1日美濃国大野神原庄(現岐阜県大野郡谷汲村字神原)に生まれる。幼名熊吉、小市郎。9歳で聖護院宮内正行院の弟子となって修行したが、寛政9年(1791)師が遷化し、先に父母を失ったことをきっかけに、享和元年(1802)善光寺の別当亮寛の弟子となり師に乞うて諸国を行脚した。文化10年(1813)鹿留村(現都留市鹿留)に来たときこの地を修行の場と定め、御正体山を開いた。小野若宮の神官に了解を得て谷村、道志、相模方面に信者を広めていった。文化12年(1815)4月24日、このとき35歳5ヶ月と23日、御正体上人堂に籠もりミイラとなる。その後も上人堂に祀られ信者を集めた。御正体山にはその後2代妙善尼、3代巨戒上人が入山し信仰を広めたが、明治維新による修験宗廃止により衰退していった。妙心上人のミイラは明治23年生まれ故郷の横蔵寺に安置され、現在も拝観することができる。
上人は座ったままの姿でミイラ化している。信者に棺を作らせその中に入ったというが、よくもこんな形でと思う。また、全く自然のままミイラ化し、そのまま保存のための処理をせず現在に至っているらしい。湿度の高い日本では信じがたいことだ。ミイラと言えばエジプトだが、このエジプトでも腐らない様に内臓や脳みそを取り出しているのに、である。
私は即身仏となる様な高層は老齢のお坊さんと思っていたが、上人は36歳手前と非常に若い、現在の私よりも若い。このような若さで入定を決意した信条はいかなる物だったのだろう。

道志村上流の地域の念仏には妙心上人和讃が見て取れる。

御 正 体 山 念 仏
帰命頂礼こうづいか 山野深山のしばの岩
世にうたがいの人あらば いざ物語らん世の中に
高徳智識は昔より あるともここに希なるは
甲州郡内都留郡 鹿留山は開かれて
しよく日に一度の大行者 妙信きよこうあじやり仏
清き流れの氏として 父澄勝の三男は
安永八年中の冬 母浜菊の子と生れ
二十余りの三つの年 ていはつせんねの身となりて
日本国中のこりなく 千山万岳ここかしこ
塩ごりはだしの行をなし うきかんなんのこうを積み
娑婆無浄の理をさとり 難行堂をふりすてて
何時甲州の門に入り けやくどじうしたまいて
頃は文化十二年 三月七日のあけぼのに
八重のかすみ踏みわけて 鹿留山の奥に入り
四十四日のだんじきに すでにうづきの末つかた
二十三日の夕べより 早やあかつきとなる時に
涙の清水で身を清め りんげの行を正しくも
二十四の午のこく すぎればひづじのじよこくに
しよごの音もかすかなり ねんじのこえともろともに
世間三十七として 若葉のしづくうどんげの
つゆと消えさせ給ふ時 今世にのこるえもだ岩
ぼさつの相を現わして 病難ひんくすくわんと
せひのげんにもえざるは ほんじじよほん地蔵尊
すいしやくこの土にういげんじ いしよう上なく法のむれ
遠く消えざる友がらは 近くこうむる老若は
せんか希なる観音の 日々に誠ぞましにけり


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頼朝に水を献ずること

水越の姓は白井平に多い。これはこの伝説に由来する。
頼朝が御正体の山頂に一夜仮の宿を取ったことがあった。山頂には水が無く、さすがの頼朝も難渋した。これを聞いた、白井平の人が道志川の水を汲み山頂まで運びあげて頼朝公に献納した。頼朝は非常に喜びこの労を褒賞し、その印として水越の姓を授け茶釜と掛け軸を与えたとされている。
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頼朝の馬蹄石

山梨県と神奈川県の県境になる月夜野の北面に流れる宮ノ沢に子ッ沢(熱沢)と呼ばれる枝沢がある。この子ッ沢の沢筋にハラミダナと呼ばれる岩が沢床を埋めている。岩の形が妊婦の腹を想像させるところからこの名が付いたいわれる。
源頼朝は馬にまたがり子ッ沢を駈け下ったのであったが、ハラミダナを一気に飛び降りたためここの岩面に馬蹄形の窪みを残した。その後、砂防工事が行われ馬蹄石は埋もれてしまった。
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鐘撞山と長者

道志川最大の支流である神ノ川に長者舎と呼ばれるところがある。ここにはいつの頃から来たのか、大長者の老夫婦と美しい折花姫と呼ばれる娘が住み着く様になった。この長者はいずれから来たのか定かではなかったが、大室山の東鐘撞山の頂上に鐘守を置いて見張りをさせていた。ある時、急襲してきた群衆に老夫婦と折花姫は共に逃れようとしたが、果たせず老夫婦共に殺害され、姫は自害した。残された長者舎の屋敷跡からは「さる木の下に小判千枚」という書き物が発見されたという。

この老夫婦と姫は今から400年以上も昔甲斐武田氏滅亡の際武田氏の側近である小山田氏ではないかと伝えられているが、他にも説がある。
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