道志村地名のルーツ

道志村の地名については、

*関東から富士山への一番への近道であるので、道づくりの始めとして「道始」の名となった。
*渓谷に通ずる四つの古道があり、「道四」の名を成した。
*道路が拓かれない時代に、交通の主体は沢沿いに歩いたので、「沢通し」の名が残った。
*この地に道学者が多く来遊したので、「道志」と名付けた。

と、この様な説があるがこの四つの説は語呂によって強引に考察された感が強い。
道志七里によると平安時代の官職名から生まれたとしている。
村史「道志七里」の一文に、"文化十一年(1814)松平定能が編集した「甲斐国志」の資料として、当時村から提供された検非違使の職名「道志」をもって「道志村」とした、とするのが現在一番有力と考えられる。"と、あります。[原文をそのまま引用]

その検非違使について少し触れてみたいと思います。

平安時代、都の風紀が乱れ強盗・乱闘・殺害・強姦などが横行した。これを粛正するべく配置されたのが検非違使で、現在の警察官に等しい存在だった。

後に時代が下がるにつれ権力が増大してゆき、後には警察官と裁判官とを兼ねた強力な権限が与えられた。検非違使には検非違使庁長官役の『別当(べっとう)』を筆頭に『左(すけ)』『大尉(だいじょう)』『少尉(しょうじょう)』『大志(だいさかん)』『小志(しょうさかん)』『府生』『看督長(かどのおさ)』『案主長(あんじゅのおさ)』『火長』『下部(しもべ)』『放免(ほうめん)』『走り下部(はしりしもべ)』といった職制があり、主力は当初は河内・摂津を主とする畿内の在地領主・有力農民出身の『志(サカン)』だったが、11世紀後半になると北面武士の『尉(ジョウ)』が主体となる。

道志村には、『大志』が配属されたと推測されます。

大志は尉とともに府生・看督長・放免を指揮して追補・捜査・審理・量刑に当たることを任務としていた。原則的に明法家が任じられこれを「道志〔みちのさかん〕」と呼びました。

ここから道志の地名が付いたのではないかと推測されます。

平安時代には強い勢力を持っていた検非違使ですが、武士の勃興により衰退し、室町時代に入り幕府の警察・裁判権が強化されるに伴い権限を吸収され消滅してしまいます。

ちなみに、道志村に縁の深い源頼朝が実弟、源義経は『尉』に任命されました。しかし、このことを頼朝は不快とし次第に義経との距離を取り始め、関係が悪化してゆきます。

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