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道志村の怪奇(ミステリー)

道志の谷に語り告がれてきた、怪談。全国にもその地に密着したこの手の話は数々ありますが、道志谷にもこの地ならではの話が残っています。


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[巌道峠] [七滝の大蛇] [子供を泣かす狐] [小豆研ぎ] [かんちき] [寺を訪ねる死霊] [角のある大蛇]
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巌道峠

道志村の久保から秋山村の安寺沢に山越えをする峠を巌道峠と呼ぶ。
古くは甲州街道に続く最短路として村人の利用者も多く、木炭や生糸を上野原の市場に運び生活を送っていた。 10年ほど前、車が通ることができるようになったこの峠に、二つの話が残されている。
その一つ目は、餓鬼の話し。
ある年一人の乞食が飢餓に迫られ、飢え死にしてしまった。
村人が集まりやむを得ずその場所に埋葬したが、それからというものこの峠を通る人に乞食の亡霊がとりつき、一歩も足が進まなくなってしまう。ある者は青白く光る人魂を見たとも言います。当時は餓鬼が一番おそれられていたので、上野原に行った帰りには饅頭を買ってきては藪に投げ込みながら帰ったという。
<餓鬼 生前の罪の酬いで餓鬼道に落ちた亡者のことを言う。常に飢えと渇きに苦しんでいる>
二つ目は「巌道峠」の名前の由来になるもの。
先にも話したが、巌道峠は生糸や木炭を市場に運ぶための重要な役割を果たしていた。
そうして得たお金で生活していたのである。
そうなると、市場に行った帰りには懐にはお金がしまわれていることになり、当然と言うべきか、これをねらった夜盗が出没することになる。
伊藤堅吉氏著「道志七里」によると、「明治の28年か29年の頃川原畑の市蔵という行商人が上野原へ絹糸を売りに行く途中峠で何者かに惨殺され、自殺を装って栗の木につるされた事があり、一時「強盗峠」の名で天下に紹介された。」とある。
そして、大正7年頃久保小学校の小沢という先生が、「強盗峠などという不名誉な名前を後に残してはいけない」と、「巌道峠」と呼びその後この名前で広く呼ばれるようになったと言います。
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七滝の大蛇

道志渓谷でも指折りの景観を誇る七滝は、大室指の対岸にある。
渓谷北面の山肌は絶壁となり、七つの岩棚を道志川に落ち込む姿はまだに絶景といえる。
この七滝に大蛇が住んでいた。
これとは又別に、七滝の落ちるところに一人の美しい娘が住んでいた。
この娘が道志の沢水に身を清める艶姿には振り返らぬ者はいなかったという。
七滝の大蛇がこの娘に恋いこがれ、人間に化けると夜毎娘の元へ通い始めた。
娘はまもなく身ごもり幾月かの後産み落としたのがなんと蟾蜍の卵のような異物だった。
娘は驚き次に男が忍び来たとき着物の裾に針を刺して帰した。
その後七滝の滝壺では大蛇の苦しみわめく声が木霊し、大蛇はその後どこかへ姿を消してしまった。
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子供を泣かす狐

ある日山へ猟に出かけた猟師が、狐を仕留め損ねたことがある。
寂しく帰ってくると、その日から子供の夜泣きがものすごく、全く寝付かず仕舞いにはやせ細ってさえ行くので占いをしてもらうと、狐の祟りであることがわかった。
そこで、狐除けをしてもらうと夜泣きはぴったりとやんだ。
又、別の家でも子供の夜泣きに悩む母親がいた。
ある夜明かりを消して寝床に入ろうとすると、突然着物の裾でが重くなった。
不思議に思い明かりを点けてみると、袖に狐の糞が大量に入っていた。
当時子供を泣かせる悪狐が板橋に住んでいたといいます。
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小豆研ぎ

道志川の野原と久保の境あたりに、魔口と呼ばれる小沢が道志川北面より流れ落ちている。この魔口に「小豆研ぎ」という怪奇現象がよくおきた。丁度小豆を水で研ぐような音が聞こえた。
この音を聞いた者は、背筋に冷たい悪寒を感じ、顔面蒼白となり逃げ帰るのだった。その正体はわからないが、白い着物を着た女性だという人もいたという。
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かんちき

小椿の百六歳になるおかめ婆さんが10歳になる娘を連れてワラビ採りに出かけた。
大川に降りて丸木橋を渡ろうとすると、娘はしきりに川向かいに小さな子がいると訴えた。しかしおかめ婆さんにはそれらしい姿が少しも見えなかった。
娘が橋の半ばまで来るとその子はとたんに見えなくなり、娘は丸木橋から転落し流れに飲まれてしまった。おかめ婆さんは慌てふためき、激流に飛び込むと下砂原まで流されながら娘を捜し回ったが、娘は腹を空っぽにされた骸になって浮かび上がった。
かんちきはこの頃、秤石淵という大淵の底にすんでいて、人間の尻ごう玉(肛門)から手を入れ、内蔵を引きずり出して食べていた。秤石淵は大正期の大荒れで破壊されてしまい小淵になってしまった。
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寺を訪ねる死霊

死霊は臨終に際してよく寺を訪れた。男の死霊は本堂に現れ大音響を起こすことが多く、女の死霊は台所や庫裏で者が倒れるような音を立てた。僧侶はこれに慣れきっていて、「ほい、又魂がおいでなさった」と合唱するのだった。

 昔、久保にある円福寺では寺の世話人の会合が行われていた。道志は七里の長い村で、当時は車など無く、こうした会合の際には遠くの者は寺に泊まり込むことになる。
ある晩、数人の者が泊まり合わせて、世間話に夜が更けるのも忘れていた。このとき二階で突然何か巨大な物が倒れるような大きな音が起こった。肝をつぶして飛び起き手に手に明かりをかざして二階を点検したが、何の異常も見つけることができなかった。
丁度このころ、村では胃を患った重病人が地類の手により谷村の病院に担ぎ込まれていたが、時を同じくして息を引き取ったのだった。

 竹の本のある掃除好きの女が危篤に陥り、臨終寸前に「おらあ久保のお寺へ掃除に行って来た」と言い残して死んでいった。丁度この時間に円福寺の石段を登ろうとしていた寺の内儀が本堂を荒々しく掃き立てる箒の音に気づき近寄ってみたが、本堂には誰一人おらずひっそりとしているだけだった。

 竹の本のある酒豪が寺の世話人となって、酒色を帯びるたびに「おらあ死んだら寺の位牌をひっくり返してやる」と口癖のように気勢を上げていた。たまたまこの男が村相撲を取って肋骨を痛めて死んでしまったが、臨終の時が来ると円福寺にある位牌が一つ残らず倒れてしまった。

 「いや、これだけは確かで、お魂が来れば檀家で誰か死ぬ」円福寺の住職は瞳を輝かせながら語るのだった。
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角のある大蛇

昔、加入道山の裾にある小椿の老婆が、日陰道を大室指へむけ歩いていた。熊穴沢(クマノサワ)の大岩と云う露岩が道側に突き出したところまで来ると、大岩と傍にある楢の巨木に跨って太さ四斗樽くらい、長さは十メートルはあろうかという大蛇が、老婆の通りすぎるのをじっと睨んでいた。
 その後、大水が大室山の山腹を荒らし回った時、大羽根の光淵へ魚掬いへ出かけた久四郎という男が、大川を跨って巨木が引っかかっているのを見つけた。これは又川を渡るに丁度よい橋ができたと、自然が作った丸木橋を渡って振り向いて驚いた。巨木と思ったのは大蛇であり、激怒した大蛇は眼光爛々頭から角を出して久四郎を睨み据えた。久四郎は宙を舞うような勢いで家に逃げ込み寝床にもぐり込むとそのまま死んでしまった。
 この恐ろしい大蛇は、大室山背にある烏帽子岩北面尾根裏の池ノ窪に長く棲んでいたが、丁度この地に棲むこと千年を迎えたので、川に千年、海に千年合わせて三千年の後、天竺の龍河川で水を呑んで天に昇ってしまった。
 大蛇が棲み家をかえてから池の窪の水は乾上がってしまい、わずかな窪地となった。
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川天狗

小善地から道志川に急降下するところにクソマタ淵という川水が淀む淵がある。この少し下手に栃ノ木沢が小滝となって南面の断崖に美しい景観を作り上げている。今から80年ほど前(大正末期頃か?)直径3メートルくらいの栃ノ木が滝際にあって一段と美しい風景をなしていた。この栃ノ木は以前は3本が隣立する立木であったが、いつしか1本に混成されてしまったの口碑されていた。この栃ノ木も東京の材木屋に売られてしまったが、製材した材木屋は幹の中に木質を3つに分ける、樹皮が深く入っていて里人の昔話を実証した。

 この話は栃ノ木がまだ繁茂していた時代の話し。道志川に溺死体が浮かぶとき栃ノ木から蒼い火の玉が飛び出した。狩人がこれに筒先を向けたことがあったが、火の玉はすぐさま木の中に帰っていた。ある時、クソマタ淵で子供が釣り糸をたれていた。すると誰かが大声で「子供!子供!」と呼ぶ。子供はおそるおそる声のする栃ノ木の方向を見ると、そこには黒い坊主が立ちはだかっていた。
 怪異はそれだけではなく、
 魚労の男が夜釣りにさいを歩くと磧を歩くと「ざぶり・ざぶり」と網を打つ音が聞こえてきた。この網音を聞くといつでも全く魚が捕れなくなった。
 的場向こうで樵が休んでいた。急に眠気を覚えうとうとして、ふと気がつくと蜘蛛の糸が足先と傍のうつぎの木に絡みつき、次第に糸が太くなってきた。樵は驚いて糸を断ち切ったが、やがてうつぎに絡んだ糸がものすごい力で引っ張り始め、うつぎを大川に引きずり込んでしまった。
 池の原の奥に白石と呼ぶところがある。ある冬鴨猟に出かけた二人連れの男が山中で焚き火を囲って露営をしていたが、ひょうきん者だった二人はメンバ(弁当箱)をかぶり万歳をして楽しんでいた。すると突然暗闇の中から血染めの大手が現れ大室権現に向かって合掌した。二人は万歳楽も鴨猟んも忘れ転げるように山から逃げ帰った。

 里人はこれらの現象は川天狗の仕業と恐れ語り合ったという。
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蛇窪

道志村と秋山村とを結ぶ巌道峠続きの山稜を西に行ったところに、東西五間ばかりの蛇窪と呼ばれる窪地がある。昔、大羽根の河平と呼ばれる地に棲んでいた大蛇が、この蛇窪へ移り棲むようになった。大蛇は窪地の東端にある岩を枕に蟠り村人の恐怖の的とされていた。ある時、又々この大蛇が棲み家を変えようと「道志へ下ろうか秋山へ降りようか」思案中であると久保の組長の夢枕にたった。久保組の村民は驚いた!こんな怪物に降りてこられたら一大事である。
早速黒金の杭を用意して、大蛇が降りられないように山腹へ柵を作ってしまった。それでもこの大蛇は道志を慕ってか一向に秋山へ這い出す気配を見せなかった。
この頃蛇窪下に水源のある御堂沢に阿弥陀様が居られて、村民の苦難を助けようと五体に汗をかいて念じ込まれた。さすがの大蛇も仏の威光には勝てずついに秋山に向かって下っていった。
この時秋山川の磧には齢19になる少女が洗濯をしていたが、その黒髪のフサフサと踵まで垂れ下がる色白の少女を見ると、大蛇はたちまち娘を攫って秋山川へ躍り込んだ。このために川瀬は大洪水となり、全てを押し流し静まるのを待つより他はなかった。
今、海河原と呼ばれこの地は広々とした磧を留め、蛇窪の地は大蛇が枕に見立てた露岩を見ることができる。
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神隠し

川原畑の東の息子がある日突然姿を消してしまった。村では鐘太鼓を打ち鳴らし息子の名前を連呼しながら探し回ったが見つけだすことができずに何日かが過ぎた。ある日、その息子が気抜けしたように菜畑山頂に座っているところを発見された。家人は歓び「ともかくどこへ行っていたのか」と問いつめると、「背が高く鼻の鋭い人が呑龍さまへ連れて行った。」と、参詣の模様を事細かに語るのだった。しかし、この背の高い男は再び現れて、頭を剃らねば今度は讃岐の金比羅様へ連れて行くのだと云ったと話した。家人は驚いて早速息子の頭を坊主頭に剃り落としたら、その後何事もなく過ぎていった。

 又、川原畑の金次郎という人が、蓑笠姿で雨の中を出かけたまま行方不明になった。二日目に谷村で村民が見つけたが、何でも川を一またぎに渡ったら、大男から目をつむれといわれたが、その後はどこをどう歩いたかさっぱり判らぬと答えたまま、宙を歩くような気持ちで家まで連れ帰られた。
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長い男根

旧幕時代の頃か、道志の古い言い伝えに

  ”どこ道志の三本まら”

と、三名の名物男がいたらしい。どこの部落にか男根が秀でて長い男がいて、座っていると膝頭まで突き出した一物をよく人に踏まれて飛び上がることがあった。ある時小豆をこぼして座敷いっぱいに散らばったことがあったが、この男が拾い回ったらミミズが這い回ったような跡がついた。
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