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2013 来日オーケストラ公演

2013年4月4日 ブリュッヘン・プロジェクト

 唯一の定期更新のテーマとなりつつあったN響の定期演奏会も2012年の11月が最新ですから、すでに5ヶ月も経過してしまいました。その間更新しなかったのは、要するにネタ切れということですが、2012年度は10月から毎月、いずれも約2週間という長期出張で、N響の定期演奏会も11月以降は12月、1月、2月と連続三回欠席となってしまいました。

 そういう余裕のない生活もこの3月で終了し、ようやくたっぷりと時間のある生活に戻った(実は2009にリタイア生活を経験済み)わけですが、そのメリットを生かすべく、早速4月4日のフランス・ブリュッヘンの演奏会チケットを予約しました。当該演奏会はブリュッヘン・プロジェクトと名付けられた4回のシリーズもので、新日本フィルのホームである、すみだトリフォニーホールの主催で、第1回から第3回までが18世紀オーケストラ、少し間を置いた第4回は新日本フィルとの組み合わせ。当夜はベートーヴェンの交響曲、第2番と第3番の二曲で、実はこの演奏会に行くまでは、コンサートのページにN響以外の新たなページを作ろうと意気込んでおりました。しかし、なぜかわかりませんが、あまり感動しなかったので、コンサート評としてはふさわしくないと思いつつも、そういうことはN響でもままあり、ともあれ感じたことを素直に記載することにした次第です。
 もちろん、演奏自体は素晴らしいものでした。当夜のパンフレットによれば、これが最後の来日になるようで、そういう意味でも見逃せないものでした。ただ、彼はまだ78歳で、80代でもまだまだ元気な指揮者が大勢いることを思えば、これが最後の来日というのは本当かという思いでしたが、指揮台まで行くにも車いすが必要なブリュッヘンの様子を見て、さもさもありなんと納得しました。

 フランスブリュッヘンと18世紀オーケストラといえば、ハイドンを思い出すほどCDは良く聴いていますが、生で聞くのは初めて。しかし、最近の話題はベートーヴェンの交響曲の全曲録音で、当夜もそのCDを聞いて出かけた人も多かったのではないかと推察します。そのベートーヴェンですが、とても力強い響きで、しかもフレーズの変化が大ききく、まるで一楽章のなかに、いくつかの楽章が入っているかのよう。まさに変幻自在という言葉がふさわしいのですが、それにもまして、管楽器の素晴らしさ。これはフランス・ブリュッヘンがリコーダの名手だったことと大いに関連していると思われ、よくこれだけの名手を集めたものだと思います。にもかかわらず、冒頭述べたように、それだけ素晴らしいのに何故か感動しない不思議さ。むしろ感動したのは、その音を聞いたとたん、CDの音、つまり古楽器特有のやや甲高いけれでも、しっかりした響きが聞こえてきて、我が家のオーディオがこのオケの音を正確に再現できていたことです。この乾いた響きが独特の力強さを醸し出していることは間違いなく、それがまさに古楽器でベートーヴェンを演奏する意義ではないでしょうか。
 一時期、古楽器ブームが起こった当時は、やたらとぎすぎすした音のCDが多くて、閉口したものですが、この18世紀オーケストラはまったく違っていて、きっとこれが古楽器本来の音ではないかと思っておりましたが、当夜はまさそれを実感することができ、オーディオマニアにとっては、それだけでも演奏会に参加した意義がありました。

 コンサートの印象が聞く側の体調によって大きく左右されることはN響の定期演奏会でも経験済みで、今回もそういうこと済ますのは簡単です。ただ冒頭述べたように、この演奏会については特別な思いでチケットを確保したいきさつを考えると、そう簡単に割り切るわけにもいきません。ともあれ、コンサート通いを続けることで解を見出すしかないようです。(2013年4月)

2013年6月10日 コレギウム・ヴォカーレ&シャンゼリゼ管弦楽団

 来日公演の第二弾は、これも日頃CDで聞き馴染んでいる、コレギウム・ヴォカーレ&シャンゼリゼ管弦楽団の公演。当夜のパンフレットによれば、6/5〜10に渡り、モーツアルトのレクイエムを全国5か所で公演しており、まるで宣教師のような活動です。東京公演は最終日で場所は東京文化会館。久々の文化会館でしたが、名前から想像されるように非常に古く、移動するには階段ばかりで、足腰が弱った者にはかなり厳しい構造です。考えてみれば、バリアフリーという概念すらなかった時代の設計ですから、やむなしとしても、身障者に配慮した改修さえもしないのは、建て替えを考慮してのことでしょうか。
 当夜のプログラムは、前半がモーツアルトの交響曲第38番「プラハ」と、レクイエム。実はこのシャンゼリゼ交響楽団は作品が書かれた当時の楽器を使っているそうですが、今までCDで馴染んできた音は、弦はつややかで、しかも厚みがあり、古楽器を連想させるものではありませんでした。しかし、当夜の編成を見て、ヴァイオリンを左右に置いた古典的配置や、楽器の古さ、なによりも当時をしのばせる管楽器をみれば、明らかに現代の楽器ではありません。確かにオーケストラの響きはブリュッヘンの18世紀オーケストラと比べれば分厚いものの、現代のオーケストラよりはるかに軽い響きです。当夜も古楽器による演奏ということは全く感じさせない充実した音が聞けて、楽しめる音楽を聞かせてくれました。

 ヘレヴェッヘといえば、CDで聞く限り、あくまで自然体で、流れるような音楽をやる人というイメージでしたが、生で聞くと、実は細部まで神経が行き届いた、極めて知的な演奏であることを実感した次第。それが顕著に出たのがプラハで、対位法を駆使した音楽というイメージは持っていなかったのですが、当夜はそうした音楽の構造が浮き彫りにされるような演奏でした。漫然と聞いていると、何も特別なことはやっていないようでいて、実はよく練られた演奏であることを認識させられました。
 興味あるのは、全国五ヶ所の公演で、レクイエムは共通ですが、東京だけがプラハで、あとは第41番のジュピターであること。より親しみ易いということかもしれませんが、プラハの後のアンコールで41番の4楽章をやってくれたのは特別サービス。確かに演奏旅行という厳しい日程のなかでは、曲目を絞るというのは質の高い演奏を提供することになります。

 当夜のハイライトはもちろんレクイエム。この曲は数あるモーツアルトの作品の中でも特異な作品でややもすればサロン的とか、遊び心が出てくるモーツアルトにしては珍しく、何かに取りつかれたような、追い詰められた状態でしか生まれてこなかったと思われる類の音楽です。それに加えて、というかそれゆえに、美しさを極めた旋律にあふれ、聞く方にとっても、「特別な」曲です。そんなレクイエムを、これまた最適な音量で、この曲にふさわしい音色の楽器で、そして洗練されたコーラスで聞けるのですから、これ以上何を望むかという印象です。唯一気になったのはテノールの歌い方が、イタリアオペラのように歌謡的だったことです。このテノール歌手はイギリス出身、かつガーディナーとも共演している経歴からみれば、宗教曲の経験も豊富と思われますが、若さゆえといったところでしょうか。ともあれ、こういう幸せな音楽会はめったにあるものではなく、こうなると\13,000という入場料は随分と割安で、秋に来日するベルリン・フィルやウィーン・フィルの、\40,000という入場料は、いかがなものかと思わざるを得ません。聞いてみる以前にわずか2時間足らずにそれだけの金を払う気がしません。こういう優れた演奏会に出会うと、演奏会も基本料+出来高払いみたいな制度にすべきではないかと考えてしまいます。(2013年6月)


 来日公演の場合、演奏会の評が新聞に載ることも多く、音楽評論家の評価と自分の印象を比べて読むのも楽しみです。以前のブリュッヘンもありましたが、的確な言葉による評論はさすがと感心しましたが、全体的な印象はあまり違いはなく、ここにはあえて転記しておりません。今回のヘレヴェッヘも6月17日の夕刊に出ていました。下記がその内容ですが、面白いのはテノールの評価で、4人のソリストのうち、テノールに注目したのは共通ですが、その評価がまるで正反対であることです。しかし、捉え方によっては同じ印象を持ったとも言え、それをどう評価するかは千差万別で、他の評論家であれば、また違った評価をしたと思われます

2014年3月12日 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

 例年3月はN響の定期公演がない月で、そんな事情もあり、ヴァシリー・ペトレンコ指揮のオスロ・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聞いてきました。オスロ・フィルを選択した理由は値段が手ごろ(ヘレウェッジの公演のページにも書きましたが、来日オケといえども個人的には2万円が限度です)というのもありますが、アリス・オットのピアノを聞いてみたいと思ったからです。今回はグリークのピアノ協奏曲で、ピアニストを知るにはピアノソロ公演の方が良いのですが、N響以外のオーケストラを聞くという楽しみもありました。
 このコンサートは東芝グランドコンサートと称するシリーズで、毎年海外オーケストラやソリストを招待しているようです。当夜は1階席の中央という非常に良い席でしたが、たまたまその付近には東芝社員とおぼしき人が数名いました。オスロ・フィルを聞くのはもちろん初めてですが、過去にはブロムシュテットとか、マリス・ヤンソンスが音楽監督を務めていたそうで、北欧のオケという以上の存在のようです。当夜のプログラムは、ニールセンの歌劇「仮面舞踏会」序曲、グリーグのピアノ協奏曲、休憩をはさんでショスターコビッチの交響曲第5番という、いずれも良く知られた曲目です。芸術劇場は最近改装されたようで、トレードマークのパイプオルガンは、ステージ幅一杯の反射板で覆われていました。オルガンを使用しない時はより響きが良くなることを狙ってのものでしょうか。ただ、日頃サントリーホールに馴染んだ者にはかなり狭く感じられ、実際、フルオーケストラにとっては音響的にも窮屈な印象でした。

 まず違いを感じたのは公演開始前で、かなりの人数の演奏者が直前まで特定のフレーズを繰り返し練習していたことです。すでに来日前から決められた曲目で、公演直前までおさらいをする必要があるのだろうかと思う反面、環境の異なるホールで、少しでも馴染んでおきたいという気持ちもわからないではありません。最初のニールセンでのオスロ・フィルはやや乾いた感じの音で、全体に軽く感じられたのですが、ここぞという時のパワーがあります。特に金管楽器のパワー感はすさまじく、弦が埋もれるほどです。これは海外オケと日本のオケとの違いとして良く言われることですが、まさにオーディオでいう、パワーアンプのドライブ力の違いを感じました。
 グリーグは透明感のあるピアノで、ダイナミックな音響の中に、どこか日本的なものを感じさせるのは、オットが日本人の血を引いているからでしょうか。このグリークの曲も、あまたのピアノコンチェルト同様、聞き映えのする曲で、作曲家もピアノ協奏曲ではそういった要素を競うところがあるようです。透明感といえば、オスロ・フィルの音も同様で、それがグリーグの音楽に、とてもよくマッチしていました。オットについては個性がないという批評も聞きますが、独自性をあえて前面に出した演奏よりも、作品自体が本来持っている魅力を引き出すような演奏の方がはるかに好ましく、その真摯な姿勢は長く演奏活動を続けるうえで、大切なことと思います。いずれ、独自の表現を身に着けつていくことが期待できる演奏家ですが、当夜はグリークの世界を心地よく、存分に楽しませてくれました。

 ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は馴染みやすい曲で、ショスタコーヴィッチ特有のしつこさは比較的少ないのですが、そういった背景はなくても、ペトレンコの指揮はどこかクールさを残した印象を受けました。ペトレンコはロシア出身の、まだ38歳の若い指揮者ですが、2013年にオスロフィルの首席指揮者に就任し、他にもロイアル・リバプール・フィルの首席指揮者も兼務しているとのこと。確かにそれだけのことはあると思える、非常に落ち着いた、自信にあふれた指揮ぶりでした。もちろん、ショスタコーヴィッチのダイナミックなところは十分で、オスロフィルの力量もあるのでしょうが、音に余裕があります。まさに3000CCクラスのセダンに乗った感覚です。クールさを感じるのは、その余裕がもたらすのですが、むしろ現代の若手指揮者、たとえばパーボ・ヤルビなどと共通するものを感じます。このクールさは、日本語の「冷めた」という意味で使っていますが、英語の「cool」にも通じるものがあり、たとえば3楽章などは、ひたすら美を追及したという感じの美しさで、極めて都会的です。そういえば、ヤンソンスのショスタコーヴィッチも同類ですが、実際、ペトレンコはヤンソンスに師事したこともあるらしい。このボーダーレスの現代では、ロシアといえども世界共通の価値観で指揮者が育つ時代ということでしょうか。(2014年3月)