昨シーズンはA席、それも二階の最上部に近いところでしたが、それでもNHKホールに比べれば、はるかに豊かな響きを味わうことができたことは、N響定期公演2009のページに記載しました。あれから一年、今シーズンは初めての申し込みと違い、定期会員の更新ということで、座席の変更も優先的にできます。この座席変更の申し込み締め切りは6月15日で、電話による申し込みは7月11日でした。初めて会員になる場合よりましとは言え、これもかなりの激戦で、電話がつながったのは受付開始から25分後です。それでもS席はいくつか残っており、同じ二階でも前から三列目で、しかも右側のブロックの通路側ということで、中央に近く、予想以上に良い席が確保できました。
いよいよその新しい席でどんな響きが聞けるかと期待していましたが、残念ながら9月の定期演奏会は出張と重なり行けませんでした。今月の指揮者はかのネヴィル・マリナー。アカデミー室内合奏団を創設したのは1959年ですから、50年も昔のことで、このHPで、オーディオのページによく登場するハイドンのネイムシンフォニー集も70年代のアナログ録音です。そんなわけで、もう日本に長旅できる年齢ではないのではと思っていましたが、今月は6回も演奏会を持つほど元気で、いかにも健康的な音楽をやる人らしいところです。とは言え、1924年の生まれで今年で86歳ですから、今回聞き逃すと、次の機会があるか気がかりではあります。一日券はNHKホールしかないので躊躇していましたが、やはり聴いておきたいという思いが強くなり、25日のAプログラムのチケットを購入してNHKホールで聴いてきました。
曲目はシューマン生誕200年と題して、ピアノ協奏曲と交響曲第3番「ライン」という組み合わせ。NHKホールは直接音が飛び込んでくる前の座席に限るということで、当日券でしたが前から5列目の左端のA席が確保できました。この曲、実はどちらも生で聴くのは初めてで、あまり演奏会には取り上げられない曲かもしれません。ネヴィル・マリナーの音楽は昔から一貫していかにもイギリス人という感じで、誰にも馴染みやすく、素直な印象ですが、悪く言えばBGM的です。昔の演奏と直接比較したわけではないので、憶測ですが、恐らく演奏スタイルは若いときから変わらないのではないかと思われ、いささか年寄り特有の性急な印象はあったものの、この人らしい明快な音楽を聞かせてくれました。
ピアノコンチェルトも有名な曲ですが、ピアノはアンティ・シーララという、フィンランド出身のピアニスト。こういったCDで聴き慣れた曲はいつものことながら、最初は違和感があるものの、やがてその人のやる音楽に引き込まれていくことになります。この人のシューマンも最初は叙情的なところとダイナミックなところがちょっとかみ合わない感じでしたが、聴くにつれて引き込まれていきました。得に第三楽章は実に楽しい音楽で、コーダに向かって盛り上げていく高揚感など、音楽の持つ構成力をきちんと表現できる、どちらかといえば理性的なピアニストであると感じました。
NHKホールの音も、確かに響きは乾いた感じなのですが、直接音が主体のさっぱりしたところがマリナーの音楽には合うようで、さほど不満を感じませんでした。シューマンの音楽ということもあり、オーボエやクラリネットの語りは日本のオケとは思えないほど雄弁でした。(2010年9月)
10月は昨年すばらしいベートーベンを聞かせてくれたネルロ・サンティ。イタリアオペラでは巨匠と呼ばれる存在らしいが、個人的にはまったく知らなかった指揮者です。その理由は明白で、日頃から頻繁に演奏会通いのできる環境にない場合、CDなどをたくさん出しているアーチストしか知る機会がないわけで、これが日本の平均的音楽ファンの姿なのではないかと思います。
さてそのサンティ、今回は二階の二列目のやや右寄り(先月は三列目と書きましたが、Cの席は一列目がなく、二列目が最前列となる)という好条件での鑑賞となりました。オーディオファンとしては、まず気になる音ですが、これが分厚い低域と繊細な広域という、普段オーディオで聴き馴染んだ音に極めて近いバランスで、よく言うピラミッド型の音であることを、まず感じました。低域がよく届くというのが第一印象で、1階席より低域が減衰しにくいようです。当日はNHKが録画しており、そのマイクが席とステージの間にあり、その関係をそのまま延長したところで聴いているという感じです。つまり、マイクが設置された場所に最も近い席であるというのが、オーディオで聴くオーケストラの音、それもリスニングポイントで定在波の影響を補正した音のバランスに近い、と感じた理由ではないかと思われます。
今月の曲目はこれまた去年と同じオールベートーベンで、前半が第8シンフォニーとレオノーレ序曲、後半が第5番という組み合わせ。8番はいささかエンジンがかからない印象でしたが、当夜の真骨頂はレオノーレ序曲。ベートーベンの序曲はオペラの序曲というより、ほとんどの演奏では管弦楽曲という印象ですが、この人のはまさしくオペラの序曲で、いかにもこれから物語が始まるという期待に満ちた音楽。オペラの指揮者ということを言われなくても、それが十分わかる演奏でした。昨年聞いたときは、もっと古典的な構成美を感じさせる印象でしたが、今年はそれよりもドラマチックさが勝った感じで、それがこの指揮者の真骨頂と思います。ドラマチックといっても表現が過度になることもなく、あくまで古典としての、抑制された枠内での話しですが、フレーズがとても美しく、この人の目指す音楽の姿を、より明確に理解できたように思います。
オーケストラの配置はいわゆる古典的配置で、バイオリンが左右に分かれ、その間にチェロとヴィオラが並び、左の第一ヴァイオリンの後ろにコントラバスが並びます。では去年はどうだったかというと、それについては何も書いてありません。恐らく同じ配置だったのだろうと思われますが、今となっては知る由もなく、それだけ経験が浅かったということです。ただ、各フレーズが浮き立つような美しさがあると、同じことが書いてあり、その印象は今年も変わらず、実に心地よい、素晴らしい音楽を聴かせてくれました。(2010年10月)
今月は前々日まで出張で、また聞き逃すところでしたが、予定通りに行けたのは幸いでした。もっとも出張でなくとも、企業戦士ともなれば、ウイークデーの定期演奏会に欠かさず来るというのはなかなか厳しいというのが現実でしょう。現に私もかつてはもっぱら土日のプログラムを選んでいましたから。
さて、今月はマルクス・シュテンツという、名前からしてドイツ人とわかる指揮者で、ブラームスのヴァイオリンコンチェルトとシューマンの交響曲2番というプログラム。ヴァイオリンはこれもドイツ出身のヴェロニカ・エーベルレという女流ヴァイオリニスト。いずれも全く予備知識のない演奏家ですが、このヴァエロニカ・エーベルレのヴァイオリンの音の美しさときたら、ちょっと比類が無いほど。音に伸びがあって、しかもよく響く音で、ヴァイオリンの音ってこんなに大きかったかなというのが、真っ先に受けた印象です。ヴァイオリンは日本音楽財団貸与のストラディヴァリウスですが、それは以前NHKホールで聴いた諏訪内晶子や庄司紗矢香も同じで、少なくとも楽器の違いではないはず。日本人ヴァイオリニストは得てして線が細い傾向にあるものの、NHKホールではオーケストラに埋まってしまう位、ヴァイオリンが聴こえてこなかったので、これはもうホールの違いと思わざるを得ません。現に、諏訪内は後でTV放送を聴いた時、まったくそんな感じはせず、ヴァイオリンの音が専用マイクでしっかりと捉えられていたので、唖然とした記憶があります。
そういう美音にもかかわらず、いや美音だからか、すっかり睡魔に襲われてしまい、ブラームスはいつの間にか終わっていました。会社帰りで、軽く食事を済ますと、ちょうど最初の曲くらいに眠気が襲ってくるわけで、少し間をおいた7:30くらいに始まると良いのですが、N響は年配のメンバーが多いので、帰りのことを思えば、そうもいかないのでしょう。そんななかでも、二楽章の管楽器のやりとりなど、まるで室内楽ような心地良さだったのが印象に残っています。
一方、休憩後のシューマンはしっかり聞きました。シュテンツのシューマンは、日本人が持つシューマンの優しい、穏やかな印象を打ち砕くような、激しく、情熱的な音楽でした。4曲あるシンフォニーの中でも、第二番は特にそういうイメージとは正反対の音楽という印象を持っていましたが、シューマンの音楽はこんなにダイナミックで激しいものなんだと、身をもって訴えるような指揮ぶりでした。本番ではあまり細かく指図しないのが通例ですが、この人の場合は、表現したいものが体からあふれ出るような指揮で、まさに体の動き自体が音楽そのものという感じです。
パンフレットによれば、N響には初登場とのことですが、とてもそうは思えないほど、よく統制されており、弦がまるで一つの楽器のように生き生きと感じられたのは、めったにないことです。テンポは比較的早い方ですが、それが軽さを感じさせることはなく、きびきびとした印象を与えます。そういう点ではやはり現代の指揮者という印象で、少し年長のティーレマンやパーヴォ・ヤルヴィなどと通じるところです。いろいろ聴いてみたいと思う指揮者であることは間違いなく、Cプログラムのマーラーも聴き応えのある演奏なのではないかと思います。(2010年11月)
昨年の11月から4ヶ月ぶりの定期演奏会に行ってきましたが、秋から冬のベストシーズンを全部聞き逃してしまったわけで、およそ定期会員とも思えない有様です。仕事柄出張が多いので予想されたことでもあり、座席は一つだけ確保し、自分が行けないときは家内が行くということにしましたので、幸い無駄にはしておりません。さて、その演奏会ですが、冒頭から、いきなり、あ、これはC-3800の音だと思いました。そんなことは実際あり得ない話で、C-3800がいかに忠実にオーケストラの音を再現しているかという証拠なのですが、C-3800の音がまざまざとよみがえってきて、音楽よりももっぱら音に関心がいってしまいました。
当夜のプログラムはロジャー・ノリントンの指揮で、オールべートーヴェンという、およそこの指揮者らしからぬ曲目。おそらく平均的日本人が持つべートーヴェンのイメージとはかなり異なるものではないかと思います。曲目は、プロメテウスの創造物序曲、交響曲第2番、休憩をはさんで、ピアノ協奏曲第5番。冒頭の序曲は上述のとおり、もっぱら音に関心が向いてしまいましたが、最後の一振りで、いきなり回転するかのように、体を客席に向けたのにはびっくり。そういった指揮ぶりが示すように、遊び心たっぷりという感じの音楽で、それがベートーヴェンの音楽と違和感のあるとことろで、ベートーヴェンの音楽の持つ重厚さとは対極の演奏です。
ノリントンのCDは数枚しか持っていませんが、たまたまなのか、あまり印象に残るものがなく、ほとんど一度聞いただけといった状況です。共通しているのは、音楽がとても軽やかに聞こえることで、いわゆるピリオド奏法のもたらす、きびきびした音で、非常にノリが良い音楽です。それに遊び心が加われば、ベートーヴェンも軽快な音楽になるのは当然です。なにもしかめ面をした音楽だけがベートーヴェンではなく、いろんなベートーヴェンがあってよいわけですが、その楽しむスタイルがどうも音楽の持つ力強さとかスケールの大きさとかみ合わないのも事実で、むしろモーツアルトがしっくりくるのではないかと思います。ただ、何を演奏してもノリントンの音楽になるということは、それだけのものを持っている指揮者ということですが、一方でこういうスタイルの演奏は当たり外れが多いように思います。
ピアノコンチェルトもまるでフレンチ音楽のようで、華やかでかつおしゃれな演奏。ピアニストはマルティン・ヘルムヒェンという、ドイツの若手。どこかで見たことのある顔だと思ってCDを探したら、ユリア・フィッシャーとシューベルトのヴァイオリンソナタ集のピアノを担当していました。このCDのピアノパートは実はあまり印象がなく、彼のピアノは当夜、初めて聞いたようなものです。このコンチェルトでのヘルムヒェンは、音楽の深みというより、音の多彩さや美しさを追及するタイプで、ノリントンの音楽性と合っているのではないかと思いました。全体的にはやはりシンフォニーの時に感じたのと同じで、伝統的なベートーヴェンとは遠い存在ですが、ノリントンらしさというのは一貫して感じ取れ、そういう観点では、彼の人間性も含めて愛好家は結構いるのではないかと思います。
N響の機関紙であるフィルハーモニーに、ノリントンからのメッセージが記載されていましたが、これによると、ノリントンは「ベートーヴェンの音楽は歴史的観点から取り組むことが重要で、初期のマーラーの作品を扱うのではなく、後期のモーツアルトを扱っているのである」と言っています。そうい実験的アプローチとしての取り組みと思えば、もう少し理解度も深まるように思いますが、その結果としての音楽に共感するか否かは、やはり個人の好みの問題でしょう。(2011年4月)
今月は、開演前に心地よい風に吹かれながら軽い夕食を楽しむ余裕があり、こういう雰囲気で迎える演奏会というのは良いものです。そういった条件は抜きにしても、今月の定期公演は予想をはるかに上回る演奏でした。曲目は、グリンカという馴染みのない作曲家による歌劇「ルスランとリュードミーラ」序曲、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、休憩をはさんでラフマニノフの交響的舞曲。指揮はアレクサンドル・ヴェデルニコフという、ロシア人。この演奏会、予定ではシモン・トルプチェスキのピアノで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番でしたが、来日不可能になったとかで、急にアレクサンドル・メルニコフというロシアのピアニストに変更になり、しかも曲目は同じチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番となりました。第2番というのはほとんど演奏される機会もなく、初めて聞くチャンスを逃したのは残念でしたが、曲目の変更はピアニストの意向によるものなのでしょう。
最初のグリンカは曲もさることながら、実にノリの良い演奏で、いきなりスロットル全開という感じで、ロシア人という先入観もあり、今日はブルドーザのような音楽を聞かされるのではないかと、いささかうんざりしました。ところが、これがまったく外れで、チャイコフスキーの冒頭から、何か大切なものを包み込むような、柔らかい響きが聞こえてきて、当初の予想は見事に外れました。この曲は得てして、ピアノ競争曲と呼ぶのがふさわしい、いわばアスレチック競技のような印象がありますが、今夜の演奏は、まるで映画の美しいシーンが次々と現れるかのよう。そういえばこの曲を使った映画は記憶にありませんが、こういう演奏なら映像は不要で、心の中で思い描いている方がはるかに楽しめます。ピアニストもそういった心の遊びを共有するかのように、表情がとっても豊かで、しかもffは力強く、緩急の変化を見事に表現していました。
ヴェデルニコフの良さは表現が過度にならないことで、むしろ淡々とした感じなのですが、それが音楽の流れを自然で、美しいものにしています。当夜のプログラムによれば、ヴェルデルニコフは1964年の生まれですから、まだ46歳です。ロシアといえば、ロマン派寄りの味の濃い音楽を多い浮かべてしまいますが、ロシアもボーダーレスの時代の反映か、現代に共通した、軽快なテンポ、美しい響きなどで、音楽本来の持っている抒情性をさりげなく表現する指揮者といえるでしょう。そういった特徴が良く出ていたのは、ラフマニノフの交響的舞曲で、第1楽章の管楽器の響きです。長年オーディオに取り組んできましたが、こういった響きは生には絶対にかないません。その差をあえて言えば、音色の多彩さ、空間への拡散、透明感といったものでしょう。なんだかいつもの管楽器と違う音色が聞こえてきたと思ったら、アルトサックスでした。もうひとつはバス・クラリネット。これら低音楽器もオーディオでは再生困難な代表例で、生のようにその存在をきちんと再現するのは容易ではありません。それにしても、N響からこれだけの響きの奥深さを引き出すのは、並みの指揮者でないことの証明です。特に3楽章であれだけ多彩な打楽器が登場するにもかかわらず、うるさくならないというのも、響きの美しさが保たれているためでしょう。ただ、何がそのような響きの奥深さをもたらすのか、その要因はいまだによくわかりません。
N響では毎年ファン投票で、年間を通じてもっとも心に残った演奏会を選んでいます。昨年はこのHPでブロムシュテットのブルックナー第5番を選びましたが、ファン投票でも2位でした。ちなみに一位はサンティのアイーダでしたが、これはAプロで聞いていませんので、Bプロでは一番人気ということになります。良いと思う演奏会は皆さん同じということですが、今年はこのヴェルデルニコフに一票。もっとも5回しか聞いていないので、またファン投票で選ばれるかわかりませんが、私にはそれだけ印象深い一夜でした。(2011年5月)
今シーズンも最後の定期演奏会となりましたが、そういったシチュエーションは抜きにしても、心地よい演奏会でした。今夜の曲目はショスタコービッチの弦楽八重奏のための2つの小品、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、休憩をはさんでショスタコービッチの交響曲第5番。先月は、年間の心に残った演奏会として一票投じましたが、恐らく今夜の方が人気があるのではないかと思います。指揮は常連のアシュケナージ。去年はマーラーでしたが、今年はロシア物。随分と昔の話ですが、アシュケナージもロシアから亡命した一人で、ロシアの音楽は本来得意なはずで、そういう背景もあってか、昨年感じたような整いすぎという印象はなく、もっとリラックスして楽しめる演奏でした。とはいえ、演奏会の常で、聞く側の体調やその時の心情によって左右される要素も大きく、こちらがそういう状態だったということかもしれません。
弦楽八重奏はショスタコービッチの初期の作品で、いわば習作といったところ。プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲は第1番は何度か聞いたことがあるものの、第2番は初めて聞く曲でした。そのためもあり、神尾真由子のヴァイオリンは期待していたものの、特に書いておきたいと思うような印象は受けませんでした。11月の定期演奏会でブラームスのヴァイオリンコンチェルトを弾いた、ヴァエロニカ・エーベルレのような豊かな響きではなく、もっと研ぎ澄まされた感じの音です。線が細いという感じはありませんが、CDのジャケットなどで見る風貌から想像していた、力強いエネルギッシュな演奏ではなく、むしろ繊細な印象で、ちょっと意外な感じでした。
ショスタコービッチの第5番は、ショスタコービッチ特有の、まるで闘争心を煽るかのようなフレーズの繰り返しが比較的目立たず、むしろ抒情的な作品で、15曲のシンフォニーのなかでも親しみやすい曲です。アシュケナージの演奏はいつもながらよく統制されてはいましたが、決して堅苦しい感じはなく、曲自体の持つドラマチックな音楽を素直に表現していました。アシュケナージというと生真面目な印象が強いのですが、ショスタコービッチの音楽の特性もあるのでしょうが、今夜はそんな印象もなくオーケストラの壮大な響きを楽しめました。こうやって毎月の印象を書いてはいますが、やはり演奏会というのは素直に音楽に浸ることができるか否かがすべてで、余計なことを考えたり、感じたるするのは何か違和感があるということなのでしょう。これはまったくの仮説ですが、アシュケナージは自分の目指す音楽のあり方に非常に厳しい人で、その真面目さが表にでてしまうのではないかと思います。N響との付き合いも長いわけですから、自分も楽しむくらいの気持ちでやれば聴衆もそれを共感できるのではないかと、そんな気がした一夜でした。(2011年6月)