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2024-2025 N響定期公演

2024年9月14日 第2016回 定期公演

 今年は、サントリーホールの公演が1万円に値上がりしたことで、シニア割引のある都響に鞍替えすることも考えました。しかし、ファビオ・ルイージの主席指揮者の契約が延長になったことや、昨年は来日がかなわなかったブロムシュテットが今年は来るかもしれない、ということなどを考慮し、少し安価なNHKホールでのAプログラムに変更することにしました。7月の会員優先の席替え時期に旅行に行っていたこともあり、あまり期待していなかったのですが、ステージに向かって右ブロックの17列目、かつ通路側という比較的良い席が取れたのは幸いでした。予約したのは席替えが始まって3日目でしたが、まさか通路側の席が空いているのは思いませんでした。今期はシーズン開始直前になっても、サントリー・ホールを含めて会員を募集していましたので、さすがのN響人気も、この値上げでは年金生活者には負担ということなのでしょう。今年は郵便料金も上がるので年賀状の見直しなど、生活防衛のために固定費削減が必要なご時世になってきました。
 2024年シリーズの最初はファビオ・ルイージによる、ブルックナーの交響曲 第8番。初稿ということで、1時間半を超えるため、休憩なしでこの1曲だけですが、聞き応えがありました。第1楽章はあまり気にならなかったのですが、久々のNHKホールで、だんだんと気になるところが出てきました。まず、空調の音。こういう会場は広いこともあって、通常はほとんど気にならないのですが、9月とはいえ、真夏並みの暑い日だったことも影響しているのかもしれません。これについては以前にも書いたような気がしますが、ステージが反射板で覆われているのと側壁面からの反射が少ないので、ステージ付近で音がこもりがちです。オーケストラの音が広がるのではなく、ステージから音の塊が聞こえてくるような感じです。そのため金管はよく響くのですが、前方にある弦がよく聞こえません。特に、オーケストラの弦を支えるコントラバスが貧弱で、金管楽器とのバランスが取れません。ブルックナーの曲はこれでもかというくらい、金管が張り出しますので、余計そのように感じるようです。更に、8月に聞いたサイトウ・キネン・オーケストラの弦が分厚い響きでしたので、その違いが増幅されたきらいはあります。サントリー・ホールではそういう不満は感じなかったので、やはりホールによる違いとみて間違いないでしょう。

 演奏はファビオ・ルイージらしい、歌うようなフレーズと爆発的なダイナミズムが緻密に組み合わされた演奏でした。充実感があるので、ブルックナーによくある、一瞬音楽が止まったかのようなブレークも自然につながります。第2楽章は、ともすれば執拗と感じるリズムに支配された音楽ですが、反復に至るまでの過程が丁寧に描かれるので、そのリズムが必然のように感じられます。第3楽章は音楽自体が荘厳そのものですが、こういう息の長い音楽にも適合するルイージの音楽性は、イタリア人らしからぬところです。もっとも、ブロムシュテットもアメリカ育ちですが、ブルックナーを得意にしていますし、このグローバルな時代に、国籍はもはや関係ないのでしょう。かつてCDで良く聞いたブルックナーですが、最近はほとんど聞きません。興味がなくなったわけではなく、ああいう悠然とした流れについて行くのが少し難しくなっているように感じます。
 先月、サイトウ・キネン・オーケストラの熱気溢れる演奏を聞いたばかりということもあり、緻密ではあるものの、整然としたN響の演奏に物足りなさを感じたのも事実。金管ではホルンの首席奏者がいつもと違っていて、あれ?という一幕もあり、NHKホールの音が気になったりして、毎度のこととはいえ、あまり楽しめなかったのは残念です。(2024年9月)

2024年10月19日 第2020回 定期公演

 去年の10月はブロムシュテットが感染症で来日が不可となりましたが、今年は10月に入ってN響からのダイレクトメールで、予定通り来日し、リハーサルを開始したとの連絡がありました。何しろ今年で97歳という驚異的な年齢ですから、指揮以前に来日することも困難なはずで、N響自身もそんなメールを出すほど気をもんでいたのでしょう。ステージまで歩くのも大変そうでしたが、今月予定されていたA,B,Cの全てのプログラムに登場するというのは驚きです。ともあれ、ファンにとっては、はるばる日本まで来てくれたというだけでも感激ですが、当夜の演奏から聞こえてきた祈りの精神と、哀しくも美しさに満ちた音楽は感動的でした。
 当夜のAプログラムはオネゲルの交響曲 第3番「典礼風」と、休憩を挟んでブラームスの交響曲 第4番。最初のオネゲルですが、第1楽章は不穏な雰囲気の複雑な音楽であるにもかかわらず、よく統制された響きが印象的でした。そのため、あまり馴染みのない曲にもかかわらず、曲想がよく理解でき、初めてこの曲の良さを知ったように思います。第2楽章は美しい旋律で、透明感のある演奏から聞こえてくるのは祈りの精神。もともとブロムシュテットはヒューマンな音楽をやる人ですが、オネゲルで表現したかったのは、この祈りだったのだと理解した次第。第3楽章の終盤でその思いが確信になったのは、穏やかで美しい響きはもちろんのこと、曲が終わっても、しばらくその祈りが続いたことです。あたかもミサ曲でも聴いたかのようで、聴衆もそれに応えていたのが印象的でした。

 後半のブラームスの交響曲第4番、こんなに哀しい曲だったかしら、というのが演奏中に何度も思ったこと。8月に同じ第4番を、サイトウ・キネン・オーケストラのガッツに溢れる演奏で聴いたから、余計にその違いを感じたのかもしれません。ただ誤解のないように書いておきたいのは、ブロムシュテットの年齢や姿勢ゆえにそう感じられたのではないということです。もちろん座ったままの指揮ですので、身振りも制限されますが、その音楽はむしろ若々しく、ダイナミックさも十分で、弱弱しさなどまったく感じられません。それにもかかわらず第1楽章からして寂しさが感じられるのは何故か。その寂寥感ともいう気分が、より強く現れるのが第2楽章ですが、ここでは寂しさより美しさをより強く感じました。意外なのは、第2楽章までに比べて、快活で明るさのある第3楽章において哀しさを感じたこと。それも後半の力強い響きの部分でその気持ちが高まっていくのは、まったく想定外のことでした。その感情が頂点に達するのが第4楽章でしたが、静かな部分ではなく、トゥッティのような力強い響きの中で哀しみを感じたのは初めてのこと。それはブロムシュテットの指揮が恐らくこれが最後、という感傷がもたらしたのは言うまでもありません。それは純粋に音楽を鑑賞する上では余計なことかもしれません。しかし、そもそも音楽はその時の気分によって大きく変わるのはこれまた自然なこと。次に涙がこぼれるほど感動するのは、コンサートに来るのが困難になった時かもしれません。(2024年10月)