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国内オーケストラ2020年度−

2020年12月17日 都響12年公演

 エソテリックのCDプレーヤK-01 XDの導入記にも書きましたが、2020年3月以降、オーケストラ公演は中止となり、更に2019年は出張でほとんど行けなかった事情も加わって、このコンサートのページも実に2018年10月のN響定期公演以来の更新となります。5月に退職して時間的には自由な身になったにもかかわらず、コロナ騒ぎで演奏会は中止、海外旅行はもとより、Go Toトラベルで補助金の出る国内旅行も心から楽しめない状況が続いています。そんな環境下で、オーケストラの公演は9月頃から再開となり、9月はN響、10月は都響と、いわば慣らし運転のように演奏会通いを再開し、今月は再び都響の公演に行ってきました。
 もちろんこの12月公演もいわゆる定期公演ではなく特別メニューですが、小泉和裕の指揮、ゲルハルト・オピッツのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番と、ベートーヴェンの交響曲第5番という組み合わせ。感染防止のため、海外からの来日公演はほとんど中止となる中、オピッツがどうやって入国できたのかはプログラムにも記載なくわかりません。日本でも人気のあるピアニストであり、その演奏を聞いたことがないので、この機会に行ってみました。加えて、ブラームスのピアノ協奏曲は演奏会で聞いた記憶がなく、生で聞いてみたいという気持ちもありました。


 後日思い出したのですが、ブラームスのピアノ協奏曲は第2番の方ですが、2014年10月にゲルギエフ指揮、マリインスキー歌劇場管弦楽団とネルソン・フレーレのピアノという、豪華メンバーで聞いていました。もう7年も前ですが、この時は第2番を第1番だと思い込み、我ながら情けない思いをしたのを覚えています。ただし、第1番については、演奏会で聞くのは初めてと思います。(歳とともに思い込みが激しく、あまり自信はないのですが)


 そのブラームスのピアノ協奏曲第1番。冒頭のトゥッティはCDでも聴き馴染んだ出だしですが、やはりティンパニーの響きが圧倒的で、やっぱりオーケストラは生に限ると思った次第。この曲、老練な第2番と違い、冒頭の第1主題は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番のような若々しく、やる気満々という感じなのですが、すぐ第2主題のブラームスらしいロマンチックな旋律に引き継がれます。CDでこの雰囲気に馴染んだせいか、どうも第1番に持っていた甘美な印象ではなく、その第2主題さえ、荘厳な雰囲気が勝った印象。これは小泉の指揮よりもオピッツの重厚なイメージが支配的なようで、もちろん悪くはないものの、もう少し夢見るような甘美なムードも欲しいところです。ブラームスがこの曲を完成したのは24歳の時で、その後も改定を続けたとはいえ、その年齢を考えれば、やはり荘厳な雰囲気は似合いません。当夜のパンフレットによれば、オピッツはドイツ正統派を代表する演奏家とあり、それはこのブラームスを聞けば納得できます。このような感想を持つのは、自分自身の持つこの曲のメージにとらわれていることもありますが、かつてはドイツ正統派と言われる荘厳で重々しい雰囲気から、最近はピリオド楽器の演奏に代表される、より軽快で見通しの良い響きが好まれるようになってきたことも大いに影響していると思います。

 休憩をはさんで、最後はベートーヴェンの交響曲第5番。小泉の指揮は現代風の軽快なテンポで、久々にフルオーケストラの醍醐味を味わうことができました。当夜の聴衆も不自由な生活を強いられているなか、久々の演奏会を堪能したようで、良い音楽を共有することへの感謝の気持ちからでしょうか、全楽員が立ち去るまで拍手で見送っていました。(2020年12月)

2021年1月17日 バッハ・コレギウム・ジャパン メンデルスゾーン≪エリアス≫

 この演奏会が開催されたのは1月17日で、3週間もたってからそのレポートを書くのはとても気が引けるのですが、非常事態宣言下での普通でない演奏会の記録を残しておくという意味で思い直しました。演奏会そのものは期待を裏切らない感動的なものでしたが、その頃に始めたこのサイトのスマホ対応ですっかり行き詰ってしまい、その作業を中断して演奏会の印象を残しておくという気持ちになれなかったというのがその理由です。
 当夜の演目はメンデルスゾーンのエリアスというオラトリオで、曲そのものはヘレヴェッヘとコレギウム・ヴォカーレ&シャンゼリゼ管弦楽団のCDで馴染んでいますが、実演の機会は多くなく、コレギウム・ジャパンも日本では初めての公演とのこと。これは逃すわけにいかないと思い、コロナ渦中ではあるものの、早々と昨年11月頃にチケットを確保しました。ただ発売開始は9月でしたので、予想通り、S席はA席より前の1〜2列前しか空席がなく、ならばということでA席の最前列を購入しました。しかし蓋を開けてみれば二度目の緊急事態宣言下だった故でしょうか、空席が目立ち、S席にしなかったのが悔やまれます。ただし、それは音のためではなく、感染リスク回避のためです。というのは、多くの人がわずか一列の違いならA席で良いと思ったようで、A席の最前列のみが満席な一方で、S席の方はチケットを確保した時には埋まっていたはずの席も、当日は多くが空席だったからです。
 チケット確保時と大きく異なるのはソリストです。カタログではソプラノ:キャサリン・サンプソン、アルト:マリアンネ・ベアーテ・キーラント、テノール:セイル・キム、バス:クリスティアン・イムラ―と、豪華な顔ぶれでした。特にソプラノのキャサリン・サンプソンは鈴木雅明のカンタータで馴染みの人で、その澄んだ声はこのような宗教曲にはぴったりです。実はこの公演、エアリスという曲目に加えて、このソリストも大きな魅力でした。とはいえ、コロナ下で果たして海外からの入国が可能なのだろうかと訝しんでいたら、案の定、12月になって、ソプラノ、アルト、テノールの出演者変更の通知がありました。その時点ではまだバスのクリスティアン・イムラ―は来日予定とありましたが、1月8日(公演の9日前)になって、12/26の政府による入国禁止措置によりやはり変更とのこと。この状況ですから仕方のないこととはいえ、騙されたような気分です。

という経緯で、ソリストはソプラノ:中江早希、アルト:清水華澄、テノール:西村 悟、バス:加耒 徹となりました。最後までバスにこだわったのは、バスはこの物語の主人公であるエリアス役だからと思います。恐らく入国困難ということも想定していたのでしょう。詳しくは知りませんがバスの加耒 徹はコレギウム・ジャパンのメンバーのようで、やや声量に弱さがみられるものの、見事に代役を果たしていました。その点では他のソリストも同様ですが、印象に残ったのはテノールの西村 悟。良く通る声で、天井の高い東京オペラシティで、後方席でも十分な声量でした。
 エリアスはオラトリオといっても、そこはメンデルスゾーンでから、とても親しみやすく、それでいてオペラとは違う、宗教曲らしい劇的でありながら、しかも真摯な音楽です。 ソリスト変更に伴い、チケット払い戻しの申請受付もありましたが(空席が目立ったのはコロナのせいだけではないようです)、コレギウム・ジャパンのコーラスや管弦楽はそれを補って余りあるものでした。

 当夜のパンフレットには日本語訳がなく、実は今後CDを聞くときに使えると思っていたのですが、当てが外れました。その代わり、オペラと同様、字幕で日本語訳が流れるやり方で、日頃は音楽だけで楽しんでいたのですが、この手の楽曲はやはり言葉(物語)を理解しておく必要があると実感した次第。(2021年2月)

2021年2月13日 N響2月公演

 今月は東京芸術劇場でのN響公演です。今回も定期公演ではなく、特別メニューですが、熊倉 優という若干28歳の指揮者の登場です。N響の機関紙(Philharmony)によればパーヴォ・ヤルヴィのアシスタントを務めているそうで、そういえば2月は例年パーヴォ・ヤルヴィが登場する月です。さもありなんと思ったのは、当日の演目であるシマノフスキのヴァイオリン協奏曲のソリストがイザベル・ファウストだったからです。このコロナ下でどうやって来日したのかは書いてないので、知る由もないのですが、恐らくパーヴォ・ヤルヴィの希望で来日公演が決まり、当のパーヴォ・ヤルヴィは来日できなくなったものの、ファウストだけは予定通りとなったものと推察します。


 この日の公演会は、5月2日に「NHKクラシック音楽館」で放映されました。そのなかで、イザベル・ファウストの来日に関する話とインタビューがあり、緊急事態宣言下で14日間の隔離を経て、なんと一か月半も日本に滞在したそうです。というのも、ファウストの居住地であるドイツも含め、ヨーロッパはロックダウンで閉鎖、予定していた演奏会がすべて中止となり、長期間の日本滞在が可能になったとのことです。日本では演奏会は行われていると聞いていても、来日して目の当たりにするまで信じられなかったと話していました。もっとも、4月25日に始まった三度目の緊急事態宣言では演奏会も中止となり、チケットを確保していた4月25日の都響の講演会もキャンセル、払い戻しとなりました(2021年5月 追記)


 ということで、お目当てはそのイザベル・ファウストだったのですが、始めて聞くシマノフスキのヴァイオリン協奏曲はとてもファンタジーにあふれた曲で、あまり演奏会やCDで見かけないのが不思議なくらい印象的な曲でした。当日の曲目は、スメタナの「売られた花嫁」からの三つの舞曲と、そのシマノフスキのヴァイオリン協奏曲、そして休憩をはさんで、ドヴォルザークの交響曲第6番という、チェコとポーランドの作曲家による作品です。売られた花嫁もあまり馴染みのない曲ですが、いわゆる舞曲でノリの良い曲。冒頭で景気づけというところでしょうか。続いてシマノフスキ。演奏会であまり取り上げられない作曲家ですが、スターバト・マーテルはラトルがまだバーミンガム市交響楽団を指揮していたころのCDがあったことを思い出しました。久しく聞いてなかったのですが、今回のヴァイオリン協奏曲に魅せられ、また聴いてみようと思います。
 そのヴァイオリン協奏曲ですが、幻想的かつ詩的な音楽で、森の中を歩きながら、いろんなものに出会ったり、思いを巡らせたりといった感じの曲で、とても新鮮でした。恐らくイザベル・ファウストのヴァイオリンによるところが大きいのでしょうが、独奏からフルオーケストラで引き継ぐときの盛り上げ方など、まるで映画の一コマのようで、とても幸せな気分にさせられます。若い指揮者ゆえ、優れた演奏者との共演により触発されることも多いと推測しますが、この曲の雰囲気を見事に表現していました。それはイザベル・ファウストも演奏後のカーテンコールで、オーケストラを盛んに盛り立てていたことからも感じられました。

 休憩後のドボルザークはシマノフスキに比べて、少し単調なところがありました。それは指揮者というより、この曲自体について言えることかも知れませんが、7番以降の作品に比べてやや印象が薄い感じがします。パンフレットによれば、チェコの民族的な要素を盛り込もうと試みる過渡期の作品だそうで、後期の作品に馴染んだ者には、そういうところが物足りなさを感じる原因かもしれません。熊倉 優の指揮は、もちろんダイナミックさは十分で、緩徐楽章も心地良く聞かせます。一方でややストレートすぎると言いますか、曲の持つ性格がそのまま表出されてしまい、その分物足りないと感じられるようです。もっとも、それは作品への正攻法なアプローチであり、単調と感じさせない演出は今後の課題ということなのでしょう。音楽への情熱と熱気を感じさせる人柄は好感を持てますし、この春には欧州に拠点を移すそうですから、大いに期待したいところです。

 ところで、先月のオペラシティと違い、今回の公演は緊急事態宣言下での発売ゆえ、席も一つ置きで両隣が空席です。加えて、自粛している人が多いせいでしょうか、座席数を制限している割には直前でも良い席が取れます。興行者には申し訳ないし、不謹慎ではありますが、音楽をゆったりと楽しむには極めて良好な環境です。(2021年2月)

2021年3月20日 都響3月公演

 今月は久々のサントリーホールでの都響スペシャル。都響は12月にブラームスのピアノ協奏曲を聞いていますが会場の記憶がなく、12月のパンフレットをチェックしたら都響のホームである東京文化会館でした。サントリーホールでオーケストラを聞くのは、演奏会通いを再開した9月のN響以来となりますので、ちょうど半年ぶりです。それで久々と感じたのですが、やはりサントリーホールはオーケストラには最適なようで、あの大編成で華麗なムソルグスキーの展覧秋の絵(ラヴェル編曲)でも飽和することはなく、気持ちの良い音響が楽しめました。

 3月の演目は、ラヴェルの組曲≪マ・メール・ロワ≫と、プーランクのピアノ協奏曲、休憩をはさんで展覧会の絵という、オール・フランスものです。指揮は都響初登場という鈴木優人。鈴木優人といえば、鈴木雅明のバッハ・コレギウム・ジャパンでオルガンやチェンバロを担当しているイメージが強いのですが、最近はN響にも登場したり、読響でもクリエイティブ・パートナーを務めるなど、活躍の場を広めているようです。その鈴木優人がフランスものを指揮するという物珍しさもあり、聴いてみましたが、とても器用な人というか、指揮ぶりはちょっとヘレヴェッヘを思い出させる感じで、構えたところがなく、ごく自然に流れていくような音楽をやる人と感じました。マ・メール・ロワは音楽自体が穏やかな曲なので、よけいそういうイメージがあったのかもしれませんが、まったく違和感はありません。
 一方で、プーランクのピアノ協奏曲は、美しい旋律と八方破れ的なところが同居した感じで、2楽章が緩徐楽章と思いきや、金管金管が派手に鳴り響いたりして、落ち着かない印象の曲でした。ピアノを担当した阪田知樹は初めて聴くピアニストですが、ものすごい技巧の持ち主のようで、バリバリと弾くのが印象的でした。その観点では、あまり知られていないプーランクを取り上げたのは、わかるような気がします。昔といってもレコード全盛の時代ですが、ワイセンベルクという技巧派のピアニストを思い出した次第で、最近ではちょっと珍しいタイプのピアニストです。アンコールも、同じくプーランクの≪3つの小品より第3曲 トッカータ≫でしたが、音が飛び散る感じで、あっけにとられるうちに終わってしまいました。これだけの技術があれば何でも弾きこなすでしょうが、今後も現代曲を中心にしたレパートリーで行くのか、古典にも取り組むのか、興味のあるところです。(当日のパンフレットによると、阪田は2016年のリスト国際ピアノコンクールで第一位とのこと。その技巧については、さもありなんと納得した次第。)
 最後のラヴェル編曲の展覧会の絵は演奏会でもよく取り上げられますが、これぞオーディオファン向きといった曲です。オーケストラの醍醐味を満喫できる曲なのですが、CDを所有していないのは曲自体があまり好きではないからです。当日は体調が良くなかったせいもあり、久々に眠くなってしまいました。プーランクのピアノ協奏曲では、2楽章でホルンとトロンボーンが重なる部分など、都響の金管のレベルが少し落ちたかと思われるシーンもあったのですが、この展覧会の絵ではそのようなことはなく、曲自体の性格の違いが大きいのかもしれません。

 この会場には、かの鈴木雅明が一階席の通路のすぐ後の列の真ん中に陣取っていました。親父の目前で演奏するのはどんな気持ちだろうと思ったりしましたが、いつも共演しているので、脇から見るほど気にならないのかもしれません。恐らく初の都響とのフランスものということで、父親としてというより、どういう演奏をやるのか聞きたかったということでしょうか。(2021年3月)

2021年4月11日 東京・春・音楽祭 モーツアルト≪レクイエム≫

 今年の東京・春・音楽祭は、3月30日の国立博物館での菊池洋子のバッハについで二回目となりますが、4月11日の合唱の芸術シリーズ vol 8 モーツアルト≪レクイエム≫に行ってきました。「合唱の技術シリーズ」は2014年のガラコンサートを皮切りに毎年開催されてきましたが、昨年のベートーヴェンのミサ・ソレムニスはコロナで中止となりました。ベートーヴェン生誕250年ということで企画されたのでしょうが、昨年の公演で中止となったのはこれに限りません。事務局はチケットの払い戻しで膨大な作業を強いられたことと思います。
 今年もコロナ禍であることは変わらず、海外からの客演についてはその多くが中止となっています。一方で公演自体は、代役をあてたり、感染対策をとることで何とか継続している状況です。コロナの感染対策という点では、声楽曲というのは特に扱いがやっかいです。当日も4人の独唱者は合唱団の前ではなく横に配置して、合唱団の息がかからないよう考慮されていました。指揮者はシュテファン・ショルテスで、オーケストラは東京都交響楽団。たまたま都響が続きましたが、あまり演奏会で聴く機会のないレクイエムということで選んだ結果です。
 演奏曲目はシューベルトの交響曲 第4番と、休憩をはさんでモーツアルトのレクイエム。シュテファン・ショルテスという指揮者はまったく予備知識がありませんが、ハンガリーの出身で、ウィーンやドイツでオペラを主に活動しているとのこと。恐らく14日間の隔離を経て来日したものと思いますが、その点ではマクベスを公演するリッカルド・ムーティも同様で、この大物がこの時期に来日したのは驚きです。


 4月14日付の朝日新聞に”「大物演奏家」次々 入国基準あいまい”と題して、リッカルド・ムーティ他の外国人演奏家の入国に対する記事がありました。これによると、ムーティの場合は3日間の短縮隔離が適用されたものの、半径2m以内の随行者と共演者全員に、3日に一度のPCR検査が義務づけられるとのこと。スポーツ界にはすでに「バブル方式」があり、音楽家にも相応の対応を、との声に押されて文化庁が認めたようです。当初、文化庁は”トップクラス”のムーティのみ短縮隔離を認めるつもりが、ムーティ側から事業として成立するには4人必要との要請を受け、4人に短縮隔離を適用、公演に出演する歌手3人は14日隔離で入国を認めたとのことです。(後日追記)


 シューベルトの第4番は「悲劇的」という名前の通り、劇的な曲なのですが、シュテファン・ショルティスのシューベルトは厳しさよりも、穏やかでいかにもウィーンという優雅さを感じます。弱音の扱いが特徴的で、トゥッティで盛り上げるのではなく、ピアニッシモを掘り下げてダイナミズム作っていく印象です。また弱音に限らず、旋律の扱いが非常に丁寧で、それが優雅さを感じさせる要因と思います。後でパンフレットを見て、各地の歌劇場で主要ポストを歴任という経歴が、ちょっと意外な感じでした。その点ではレクイエムも同様で、ドラマチックというより、隅々まで気配りが行き届いた模範的というか学究的な演奏。この曲は美しい旋律にあふれた劇的な盛り上がりと、対位法を駆使した高度な音楽性が同居しているのですが、都響がいつものモダン・オケというより、古楽器的な見通しのよいアンサンブルとして聞こえたことに、この指揮者の特質がよく表れていたと思います。
 独唱者はソプラノ:天羽明恵、メゾ・ソプラノ:金子美香、テノール:西村 悟、バリトン:大西宇宙というメンバー。西村 悟はコレギウム・ジャパンのエリアスで名演を聴かせてくれましたが、今回はやや表現不足という感じ。ソリストたちの中では、バリトンの大西宇宙(名前はTAKAOKIと読む)が安定した歌唱で楽しめました。一方、合唱団は東京オペラシンガーズといい、1992年に小澤征爾の要請で創設された団体のようですが、経験を積んだ合唱団らしく、穏やかなレクイエムを、清涼さと力強さを備えた歌声で、大いに盛り上げていました。冒頭書いたように、今回はソリストは合唱団の横で、斜め前に向かって歌う一方、合唱団は正面を向いていますので、ソリストに物足りなさを感じたのは、その影響もあるように思います。

 今回の演奏会は、1階の24列19番という、かなり後方ですが、ほぼ真ん中の席でした。座席予約の時には気にしてなかったのですが、これだけ後方の席は久々です。これまでは大抵前方の席でしたので、これほどまとまりのあるオーケストラサウンドは聞いたことがなかったわけです。文化会館は2階席が1階席の上に張り出していないので、サントリー・ホールで言えば、2階席の最前列に近い場所でしょう。今回の席から見ると、ステージが奥の方に位置し、その分、視野角が狭くなりますので、オーディオに於けるリスニング・ポイントと二つのスピーカとの配置に近く、それがオーディオを思い起こさせる要因となっているのは間違いありません。最初のシューベルトでまずそのことに気づき、演奏はそっちのけで、オーディオで再現しているのは、まさにこの「まとまりの良いオーケストラ・サウンド」なのだと確信した次第です。
 すでに故人となりましたが、真空管アンプのメーカの創業者である上杉佳郎がよく「特等席で聴く音」と言っていたのを思い出しましたが、当時は随分とあいまいな表現で、何を言いたいのだろうと思っていました。しかし、今回はこれこそがその「特等席」だと思い至った次第です。つまり、オーケストラを構成する楽器群がハーモニーとしてまとまって聞こえる席ということです。それは上杉が女性ボーカルがヒステリックに聞こえるような音をひどく嫌っていたことにも通じます。その前提に立てば、オーディオでのオーケストラの再生のあり方が見えてくる一方で、それは箱庭的な再現に陥る危険も含んでいます。生の演奏を聴くからには、前方の席で音を浴びるように身近で感じたいと思うのも当然で、その体験を何とかオーディオでも再現したいと思うわけです。よく指揮者はオーケストラをまとめるのに対し、オーディオマニアはオーケストラを分離したがると言いますが、まさにその通りで、今回のような「まとまりの良い音」を基本としつつも、生ならではの迫力や緻密さも追求するのがオーディオの醍醐味と言えるでしょう。(2021年4月)

2021年6月1日 都響 第928回 定期演奏会

 この演奏会に先立ち、4月26日にマーラーの「大地の歌」を、藤村実穂子のメゾソプラノで聞く予定でしたが、3度目の緊急事態宣言が発令され、公演が中止となりました。指揮は大野和士で、ショスタコーヴィッチの交響曲第1番という、意欲的な組み合わせでした。指揮者も演奏曲目も久々の登場なので、楽しみにしていたのですが、残念です。その「大地の歌」の公演とほぼ同時期にチケットを確保したのが今回の定期演奏会で、演奏曲目はオネゲルの交響曲第3番とフォーレのレクイエム。4月にモーツアルトのレクイエムを聞いたばかりですが、有名なフォーレのレクイエムを生で聴くのは始めてです。その後、緊急事態宣言は6月20日まで延期されたものの、イベントは入場制限を設けて開催可能となり、ようやく演奏会が戻ってきました。
 会場はサントリーホールで、指揮は都響の終身名誉指揮者の小泉和裕。都響とのかかわりについては詳しく知りませんが、長期にわたって継続的に指揮をしているようです。オネゲルの交響曲第3番は「典礼風」という副題の通り、礼拝にまつわる題材をテーマにしているようですが、音楽は激しく、まるで戦闘シーンのよう。当夜の解説書によると、第2番と第3番はともに第二次世界大戦の悲惨さが反映された作品で、"戦争交響曲"と呼ばれているようです。第2楽章は抒情的な旋律でホット一息し、第3楽章のフィナーレはコラール風で終わるものの、全体の印象は刺激的で、およそ馴染みやすい曲ではありません。演奏会だから面白味も感じられるものの、CDでまた聞いてみようという気にはなりませんでした。

 休憩をはさんで、後半のフォーレのレクイエムは有名な曲ですが、演奏会で聞いたことのある人は以外に少ないのではないかと思います。独唱はソプラノが中村恵理で、バリトンが加耒 徹。バリトンの加耒 徹は1月のバッハ・コレギウム・ジャパンがメンデルスゾーンの「エリアス」を公演したときのバス(エリアス役)でした。今回はバリトンということもあったのでしょうか、エリアスより更に安定した歌唱が聴けました。ソプラノの中村恵理は始めて聞く歌手ですが、もう少し伸びが欲しいというか、やや歌い難そうな印象を受けました。でも、この日の主役は合唱団です。新国立劇場の合唱団でしたが、少ない人数にもかかわらず、良く通るしかも澄んだ歌声は、まさにフォーレのレクイエムにぴったり。この曲、CDで聞くと、ひたすら穏やかな曲なのですが、演奏会では同じく穏やかであっても、より味わい深いというか、説得力があります。全体を通じて心地よい響きが楽しめる曲なのですが、それだけに、第5曲のアニュス・ディでの盛り上がりがより際立つのは演奏会ならではというところです。トロンボーンが3本あってもほとんど待機していて、出番はこの時のみというのも穏やかさとの対比を象徴しています。第1曲や第2曲ではヴァイオリンが登場せず、ビオラにその役割を与えられていることなど、演奏会でしか実感できないことも多く、コロナ禍であることを除いても、充実感のある演奏会でした。たまたま4月にモーツアルトのレクイエムを聞いたばかりですが、今回の方が圧倒的に良かったと思う一方、今回の座席が13列目の左ブロックながら中央通路側という、細部がよく聞き取れる席だったことも影響しているのは間違いないでしょう。
 ちなみに、今回の演奏会の入場料は、同じ都響のモーツアルトのレクイエムに比べて7割以下です。都響の場合、シニア割引がありますので、更に差は大きいのですが、演奏の出来栄えでいえば、その逆くらいの印象です。モーツアルトの場合は東京・春・音楽祭の主催ですし、さらに指揮者は海外からの客演ですから仕方ない部分もあるのでしょうが、何ともやりきれない思いは残ります。(2021年6月)

2021年7月21日 読響 第610回 定期演奏会

 ほとんどのオーケストラは7月の定期公演はお休みですが、たまたま読売日本交響楽団の定期公演があり、しかも予定していた指揮者の来日が困難となり、代わりに46年ぶりに定期公演に登場という飯守泰次郎ということで、梅雨明けの猛暑のなか、サントリーホールに行ってきました。以前から読響は一度聞いてみたいと思っていましたが、さすが人気のある交響楽団らしく、N響の演奏会と変わらないくらい席が埋まっていました。飯守泰次郎といえばワーグナーを連想するほど定評のある指揮者ですが、新国立劇場の芸術監督を務めていた2016/2017シリーズで、ワーグナーのワルキューレとジークフリートを聞いています。その時のオーケストラは東京フィルと東京交響楽団でしたが、ピットの中ではオーケストラは盛り立て役で、当時の演奏についてはあまり記憶にありません。
 当夜の曲目は、モーツアルトの交響曲第35番≪ハフナー≫と、ブルックナーの交響曲第4番≪ロマンティック≫。飯守は当年80歳とのことですが、足腰が弱っているようで、指揮台まで歩くのが難儀そうに見えました。初めての読響でびっくりしたのは、コンサート・マスターが長身でスタイルの良い女性だったこと。後でプログラムを見たら日下紗矢子という人で、「特別客演コンサート・マスター」とのことでした。読響との関係や、特別客演となった経緯は知りませんが、ソリストとしても活躍しているようで、常勤というのは困難なのかもしれません。

 最初のモーツアルト、まず気づくのはフル・オーケストラの分厚い響き。管楽器は指定通りなのですが、弦楽器の数が多いようで、それが深々とした響きを作っているようです。最近のモーツアルトは古楽器編成の見通しのよい、スリムな感じのアンサンブルが多いのですが、それとは対極の古き良き時代みたいなモーツアルト。でも、個人的にはこういう響きの方が好きで、特にハフナーは管楽器による和声の重なりなど、ベートヴェンを思わせるオーケストレーションで、曲の趣にも合っています。

 休憩をはさんで、後半のブルックナーはその分厚い響きという特徴がより発揮されていました。特筆すべきは管楽器群の力強さで、これぞブルックナーという感じです。一方で、フル・オーケストラの迫力が勝るあまり、いささか剛直な印象もあり、表題の「ロマンチック」なところはあまり感じません。4番に限らず、個人的に気に入っているのはブルックナーの抒情性なのですが、オーケストラの重量感や金管の派手さばかりが強調される印象で、いささか食傷気味でした。もっとも、ブルックナーの音楽は、このような重量感のある響きが本来の持ち味で、その点では王道を行く演奏かと思います。その重力感について言えば、飯守の指揮もさることながら、比較的若い団員で構成された読響の特質も発揮されているのは間違いないでしょう。読響の力量は十分感じながらも、本命のブルックナーで、モーツアルトのように演奏を楽しむという雰囲気になれなかったのはいささか残念です。(2021年7月)


 後日知ったのですが、日下紗矢子は2009年からベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラのリーダーを務めているそうです。このベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラは、旧東ドイツを代表する名門オーケストラである「ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団」を母体とするオーケストラで、2009年に結成されています。その後、2013年に読売日本交響楽団コンサートマスターに就任し、2017年度より「特別客演」となっています。日独両オーケストラのコンサートマスターを兼務するわけですから、常任とはいかないのは当然です。ドイツで活躍するほどの実力を備えたヴァイオリニストということですが、たまたま知る機会がなかったのでしょうか、読響の公演がきっかけというのは遅きに失した感があります。(2021年8月追記)

2021年11月26日 バッハ・コレギウム・ジャパン 第145回 定期演奏会

 バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)は、今年の1月にメンデルスゾーンの≪エリアス≫を聴いていますが、クリスマスのアドヴェント(待降節)にちなんで、クリスマス・オラトリオの公演があり、ほぼ一年ぶりに行ってきました。会場はいつものオペラシティのコンサートホール。当夜のプログラムは、鈴木雅明のオルガン独奏で、バッハのトッカータとフーガ ヘ長調とアドヴェント・カンタータ 第61番≪いざ来ませ、異邦の民の救い主≫。休憩をはさんで、クリスマス・オラトリオの前半3部という、盛りだくさんの内容。今年のアドヴェントは11月28日なので、2日早いのですが、その観点ではクリスマス・オラトリオは一か月も前ということになります。冒頭、指揮者の鈴木優人からそういった主旨の挨拶がありましたが、この後メサイアやベートーヴェンの第九の公演(過去にはメサイヤしかなかったと思う)を控えて、この時期になったものと思われます。
 このところ、フルオーケストラの演奏会が多かったせいもあり、久々にバッハの音楽を、それも当時を思わせる素朴な音色の楽器と演奏スタイルで楽しむことができました。小編成ですので、当然音量は小さいのですが、オペラシティは、床面積に比べて天井の高いホールで、各声部が良く聞き取れ、本来の音楽のあり方というものを思い知らされたような気がしました。冒頭のオルガンは派手な曲で、大音量で響き渡る様は圧巻でしたが、その後の演奏とはちょっと異質な感じで、BCJのファンサービスといったところでしょうか。

 独唱陣は、この時期ということもあり、ソプラノ 森 麻季、アルト 青木洋也、テノール 櫻田 亮、バス ドミニク・ヴエルナーという日本人主体のメンバー。バスのドミニク・ヴェルナーが良く通る声で、抜きんでていましたが、いずれも良く登場する面々で、これだけ役者が揃っていれば質の高い演奏になることは間違いないでしょう。ただ、このクリスマス・オラトリオでは、アリアで管楽器やチェロ、ヴァイオリンの独奏による伴奏があり、BCJの管弦楽の名手による演奏も大いに楽しめました。座席からステージまで遠くて確信はありませんが、チェロの独奏は鈴木秀美(2014年までBCJの主席チェロ奏者)のようで、久々に登場したのかもしれません。
 ステージまで遠くてよくわからなかったという点では、ソプラノの森 麻季も同様で、実は彼女の出場する演奏会は初めてで、体系は細身なものの顔は割合にふっくらしていて、どうもCDのジャケットでみるのとは違う印象でした。ただ、声はとてもチャーミングで、バスのドミニクのように良く通る声ではないものの、カンタータに華やかさを添えていました。これもBCJでは定番のやり方ですが、独唱者も合唱団の一員となりますので、そのことも、有名人にありがちなオーラを感じなかった要因と思います。

 クリスマス・オラトリオは6部構成で、前半の3部がクリスマスの礼拝のため、後半の3部が新年の礼拝のためとなっています。前半の3部のみといえども、通して聴くと集中力が維持できないのですが、その中で印象に残ったのは、アルトの青木洋也。男性のアルトというのは、裏声で落ち着かない印象がありますが、この人はそういうことはまったくなく、安定した音程に加えて、声の質が柔らかく心地よいものでした。それが生きていたのが第2部 19曲のアリア。もともと穏やかな曲なのですが、青木の歌唱はこの曲の持つ雰囲気を良く表現していました。第2部 15曲テノールのアリアも記憶に残る演奏でしたが、櫻田以上に存在感があったのはフルートの独奏です。金管フルートの華やかな音色ではなく、くすんだ柔らかい響きで、それが実に心地よい音楽を作っていました。青木のアルトについてもう一つあげると、第三部 31曲。こちらはもう序奏からして心に響く音楽なのですが、このときのヴァイオリンの独奏が、歌唱の間を縫うようで、これまた当夜の聴きものでした。歌唱と楽器とのやり取りは、このクリスマス・オラトリオのアリアで多く聴かれる手法ですが、第3部 29曲もその一つ。このアリアはソプラノとバスの二重唱ですが、この時の二本のオーボエ・ダモーレもまた、歌唱との絡み具合がとても印象的でした。多くのコラールでは、少ない人数なりに迫力のある合唱も聴けましたが、鈴木優人のスタイルもあるのでしょうか、全体的には抑えた感じで、まさにクリスマスに相応しい演奏会でした。

 ところで、このBCJの演奏会ですが、前回のエリアスの時に、S席が当日は空席が目立ったのですが、今回も自分の席の前は2列に渡って空席(6名分)でした。もちろんチケット予約時には空いていませんでした。空き方がバラバラなので、コロナ対策とは思えず、また予約時にもそのようなコメントがなかったので、何とも不可解です。(2021年11月)

2022年3月30日 東京春祭 ワーグナー・シリーズ vol.13 ≪ローエングリン≫

 今年の東京春祭も、コロナがまだ終息しない状態での開催となり、海外からの演奏家の来日がキャンセルになるのではという心配がありました。しかし、日本の鎖国政策ともいうべき状況には内外の批判も多かったようで、3月から入国規制が緩和されたのですが、そのタイミングが、まるでこのワーグナー・シリーズの公演に合わせた(リハーサルを含めて)かのように決まったのは嬉しい出来事した。
 そのワーグナー・シリーズですが、前回はいつだったかと東京春祭の記録をたどると、昨2021年と一昨年の2020年はコロナ禍で中止となり、3年ぶりの開催となります。さらに個人的には2017年の「神々の黄昏」を聴いたのが最後で、実に5年ぶりで、前回はいつだったか思い出せないのも当然です。今年の演目である「ローエングリン」は、2018年にウルフ・シルマーの指揮で公演されていて、2回目の公演となります。翌2019年はダーヴィト・アフカムの指揮で「さまよえるオランダ人」が公演されていますが、この両年はマレク・ヤノフスキの都合がつかなかったのでしょうか。そういう経緯を振り返ってみると、今年のヤノフスキによる「ローエングリン」が予定通り開催されたのは、なおさら感慨深いものがあります。

 その「ローエングリン」ですが、期待以上の素晴らしい演奏で、ワーグナーの世界を堪能した一夜となりました。出演者は以前と同様、豪華な歌手陣で、ローエングリン:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー、エルザ:ヨハンニ・フォン・オオストラム、ラルラムント:エギルス・シリンス、オルトルート:アンナ・マリア・キウリ、ハインリヒ王:タレク・ナズミというメンバー。このうち、エギルス・シリンスは、以前ジークフリートのヴォータン役をやった人で、今回も安定した歌唱を聞かせてくれました。相手役のオルトルートを演じたアンナ・マリア・キウリは予定されていたエレーナ・ツィトコーワの代役として出演したのですが、役に乗り移ったかのような表情豊かな演技でしたが、さすがに最後のあたりで疲れがでたようです。肝心のローエングリンとエルザですが、エルザ役のオオストラムは、最初は少し声が出にくい感じでしたが、気品ある役柄を見事に演じていました。いつもながら、ワーグナー楽劇の主役はテノールで、3時間半も歌いきるのというだけでも、体力勝負みたいなものです。そのローエングリン役のヴォルフシュタイナーですが、女性陣に比べて表情は乏しいものの、とても張りのある声で、最後まで安定した歌唱を聞かせてくれました。ただ、お腹の出たローエングリンというのは、ちょっと興覚めで、オペラにはつきものの事とは云え、清楚なエルザとはどうみても似合いません。

 ワーグナーの歌劇となれば、やはり歌手がメインであることはゆるぎない事実ですが、演奏会形式のメリットは、オーケストラやコーラスが、対等のものとして楽しめることです。さほど広くない東京文化会館のステージに、フルオーケストラと、背後に合唱団が並べば、当然楽器や合唱メンバーの立ち位置は近くなります。コロナ禍では許されなかった密な配置が、背面に設置された反射板の効果も加わって、管楽器群と弦楽器群とが重なり合う分厚いハーモニを生み、また登場人物の心の在りかを音のうねりとして聞かせるなど、ワーグナーのオペラに相応しい緊迫感と響きをもたらしていたと思います。随所で聴かれる合唱も同様で、これまでの団員が離れて立つ場合とは異なり、まさに民衆の声として響いてきたのも特筆すべき点です。
 ヤノフスキが、これらの要素をすべて掌握していたとは思えませんが、そういう効果を引き出した合唱指揮者や音楽コーチの選出も含めて、長年ワーグナーを指揮してきた音楽家ならではの仕事、という印象を強く感じた今年のワーグナー・シリーズでした。(2022年3月)

2023年7月14日 都響スペシャル

 丸2年ぶりに都響の公演に行ってきました。このページも去年の3月以来の更新で、1年半近くN響以外の公演に行っていなかったことになります。その理由はコロナ禍というより、演奏会自体にかつてほど感激しなくなってきたことにあります。加えて、現在進行中の「アマティで保有CDを聞き直す」という作業を通じて、オーディオで聴く方が演奏に集中できる、という思いを強くしていることもあります。
 そんなわけで、毎月のサントリーホール通いでも、例の分厚いパンフレットを受け取ることもなく、この公演も新聞で見つけた次第です。この都響スペシャルは、翌7月15日のプロムナードコンサートとセットになっていますが、チケット購入時は空席が多くて気になってましたが、当日は8割程度埋まっていました。指揮はアラン・ギルバートで、都響の主席客演指揮者を務めていますので、すでに何度か公演しているようですが、個人的には始めて聞く指揮者。ちょっとアントニオ・パッパーノを思わせる風貌で、ダイナミックかつドラマチックな演奏も共通するところです。プログラムはニールセンの序曲≪ヘリオス≫と交響曲 第5番、休憩を挟んでラフマニノフのピアノ協奏曲 第3番。通常の演奏会では協奏曲は前半に組まれますが、演奏時間の配分からか、当夜は最後に登場しました。

 最初の序曲≪ヘリオス≫でまず感じたのは、ヴァイオリンの高域が目立つこと。都響ではもちろん、N響でも聞いたことがないヴァイオリンの響きで、この曲に対する新たな挑戦なのかもしれません。座席は17列19番で、1階席後方ですが、N響ではまず取れない中央ブロックの席。そこでどう聞こえるかも、今回の関心事でしたが、これが期待外れで、中央ブロックは前後の席が同じ配置のため、前列の人がステージを完全に遮ってしまいます。従って、少し左寄りであっても、指揮者はもちろん、ピアニストも鍵盤も見えず、中央ブロックにはこういう欠点があるということを知ったのは大きな収穫でした。左右ブロックに比べて、オーケストラの音のバランスの良さは言うまでもありませんが、聴覚は視覚的要素により大きく影響されます。ちょうど来季のN響のBシリーズの席を確保したところで、席替えは一般より優先されるといっても、狙った中央ブロックはすでに空席がなかったのは、かえって幸いでした。
 そんなことに気を取られて、肝心の演奏については楽しめずに終わってしまいました。へリオスでのヴァイオリンはきらびやかな反面、時に耳にきつく感じることがありました。演奏会場で、ピッコロなどで高域のきつさを感じることはあっても、ヴァイオリンでは珍しいことです。これは高域の再生に敏感なオーディオマニア特有の感覚かもしれませんが、弦にしなやかさが足りないのも、その要因ではないかと思います。ただ、次のニールセンの交響曲では差ほど気にならなかったので、管楽器とのバランスの問題もありそうです。ニールセンの交響曲 第5番ですが、抒情的な部分もあるものの、戦闘的なイメージが支配的で、面白さはあっても、あまり楽しめない曲という印象は変わりません。
 当夜の収穫はラフマニノフを弾いたキリル・ゲルシュタイン。アメリカ人とのことですが、出身は旧ロシアというパンフレットを見て、なるほどと納得した次第。というのも、かつてのロシアのピアニストを思わせるスケールの大きな音楽をする人で、これぞヴィルトゥオーソそのもの。最近あまり聞かれない言い方ですが、そのピアニズムは、まさにひと時代昔を彷彿とさせられます。もちろんラフマニノフですから、甘美な旋律は十分楽しませてくれますが、むしろカデンツァでの、がっちりした音の造形に圧倒されました。ゲルシュタインの演奏を聞いて思いを馳せたのは、CDでしか知らないリヒテルとかギレリスとか往年のロシアのピアニスト達。現代ではあまり見かけないタイプであるが故に、貴重な存在と思います。聴衆も堪能したようで、演奏が終わらないうちに盛大な拍手で埋め尽くされました。(2023年7月)

2024年3月27日 東京春祭 ワーグナー・シリーズvol.15 ≪トリスタンとイゾルデ≫

 毎年通っている東京・春・音楽祭のワーグナーシリーズですが、昨年はニュルンベルクのマイスタージンガーというあまり馴染みのない演目で、不参加。ということで、2022年のローエングリン以来となりますが、今年のトリスタンとイゾルデ、もちろん音楽の良さが際立った演目ということもありますが、これまででもっとも感動的な公演でした。冒頭の前奏曲からして、これまでN響から聞いたことがないような深々とした響きで魅了され、これだけでワーグナーの世界にどっぷりと浸かりました。

 指揮は毎年登場するマレク・ヤノフスキ、いつも表情を変えないのですが、今年は満足できる出来だったのでしょうか、例年より愛想が良かったように思います。独唱陣はトリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン、マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ、イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン、クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ、メロート(バリトン):甲斐栄次郎、ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセという、例年ながら第一級の歌手陣でした。日本人が主要メンバーに加わるのは珍しいですが、メロート役の甲斐は見劣りしないバリトンを聞かせてくれました。トリスタン役のスケルトンは体調が良くなかったのでしょうか、しきりに水を飲んでましたが、巨体ゆえに歩くのも難儀そうで、ちょっと気になりました。ただ、歌唱はそういうことをまったく感じさせず、最後まで歌い切ったのはさすがです。男性陣の方が総じて出来が良かったのですが、印象に残ったのはブランゲーネ役のドノーセ。見栄えのするスタイルと顔だけでなく、メゾソプラノらしい、厚みがあり良く通る声が素晴らしい。スケルトンもオーストラリア出身ですし、主役のイゾルデ役のクリステンセンはノルウェー出身、ドノーセはルーマニア出身と、いずれもドイツ系ではない歌手たちがワーグナーを歌うというのも今年の特徴です。

 演奏会形式とはいえ歌劇ですから、歌手が主役で、その存在は大きいのですが、今年の主役というか、感動したのはN響の演奏でした。冒頭書いた通り、精緻な前奏曲から引き込まれたのですが、これだけの表現力を示すN響は聞いたことがありません。劇的な第1幕の媚薬による激変、第3幕終幕の高揚感は言うまでもないのですが、時にはしつこいと感じる第2幕でも飽きさせないのは、それだけ表現が深いということなのでしょう。そうは云っても、全体的には抑えた表現というか、統制の効いた演奏で、そのあたりはヤノフスキらしいと思います。コンサートマスターは、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場管弦楽団のコンマスである、ベンジャミン・ボウマンのゲスト出演で、ヤノフスキの指名らしい。N響からワーグナーの音を引き出すには、コンマスの役割が大きいということなのでしょう。
 随所で活躍するオーボエが、いつも見かける池田氏ではなかったので、今回は出ていないのかと思いきや、第3幕でイングリッシュ・ホルンの「嘆きの調べ」で登場しました。そういうことだったのかと思いましたが、こういったことは生でないと分かりません。第2幕で、ブランゲーネ(ドノーセ)が客席から「見張りの歌」で二人に警告するのも同じで、こういった効果はその場にいてこそ感じられます。いつもの演奏会は、非日常という感覚はないのですが、歌劇ということもありますが、やはり「トリスタンとイゾルデ」効果でしょうか、演奏が始まると非日常の世界に入ったような錯覚を覚えました。ちなみに、隣の女性も鼻水がとまらなかったようで、それだけ感動的な公演だったということです。(2024年3月)