田部京子はシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンなど、いくつかのCDで聴き馴染んでいるピアニストスで、一度は生で聴いてみたいと思っていたところ、たまたまチケットが安く手に入ったので、行ってきました。場所は浜離宮朝日ホール。ここは客席数552と、比較的こじんまりしたホールですが、響きは非常に良く、またサイズがピアノや室内楽にはちょうど良い大きさでした。当日はほぼ満席で、2007年から続いているシリーズですが、常連と思われる聴衆もかなりいるようでした。曲目は表題からも予想されるように、シューマンの作品2曲とブラームスのピアノソナタ第3番。シューマンは花の曲 変ニ長調Op.19と幻想小曲集Op.12。どちらもさほどポピュラーではない曲ですが、一曲目の花の曲はちょっとまとまりがない感じで、それもまたシューマンらしいと言えますが、あまり印象に残らない曲でした。
このリサイタルに行く気になったのは、もちろん田部京子のピアノを聴いてみたいということですが、同時にオーディオで最近気になっているピアノの音像の大きさを確かめることもその目的でした。ピアノのソロではさほど感じませんが、ヴァイオリンのページで紹介したスタインバーグと内田光子のモーツアルトや、最近出たユリア・フィシャーのシューベルトなど、ヴァイオリンと比べてピアノの音像が大きく、一度コンサートホールで確認する必要があると思っていました。
まずその音像ですが、結論から言えば、ステージ一杯に広がる感じで、音源は弦をたたく音ではなく、響板であるという、極めてあたりまえのことを再認識しました。このことを確認したくなったのは、最近のピアノ録音はホールの間接音が過剰ではないかと思われるほどで、それが拙宅のオーディオ装置のせいなのか、あるいは録音の故なのか知りたかったのですが、やはりソースにそういう音が入っているいうことでしょう。中にはエコーを意図的に付加して録音もあるのでしょうが、最近のホールの響きが良くなっていることも、その要因と思われます。浜離宮朝日ホールでのスタインウェイはステージ全体から聞こえてくるほど広がりがあり、これを収録すれば、よほど指向性の鋭いマイクでも使わないかぎり、音像がぼけるのは当然と思いました。
CDで聴く田部京子のピアノは情感豊かなのですが、それを決して表に出さず、むしろ楚々とした印象を与えるところが良さで、非常によく考えられた演奏であるにもかかわらず、自然で素直な音楽を聴かせます。今回のリサイタルもその印象は変わりませんが、これは演奏会の常として、腕の動きや苦しげな表情が見えるだけに、決して悠然と弾いているのではなく、ましてや音の流れに身をまかすなどというのは聞いている側の錯覚にすぎない、といった余計なことを考えてしまいます。しかしこれは生演奏に付き物で、個人的にはオペラでさえ、映像付きのものを好まないのと共通の感覚です。
そういった要素も含めて、オーケストラのように音響やスケールの違いがどうしようもない場合はともかく、ピアノに関してはオーディオで楽しむのも悪くないと思いました。さらにオーディオでは自分の部屋にピアニストを呼び寄せ、あたかも独占したような錯覚を抱かせることもあり、これはオーディオならではの楽しみでしょう。とはいいつつも、次回の2010年6月はクライスレリアーナを弾くと知れば、やはり生で聴いてみようかと迷います。
さてリサイタルに戻って、2曲目の幻想小曲集は構成が子供の情景を思わせる曲想で、これは十分楽しめましたが、いささか飽きてきたことも事実。最後の曲はブラームスのピアノソナタ第3番。これはCDを持っていてもめったに聴きたいと思わない曲で、残念ながら田部京子をもってしてもその印象を塗り替えるものではありませんでした。田部京子の演奏を聴いていて思ったのは、ブラームスはベートーヴェンの29番のソナタのような曲を目標にしたのではないかということ。しかし、ソナタ全体としての楽想に統一感がなく、1楽章はスケールの大きな曲想なのですが、それがベートーヴェンのピアノソナタのように全体を通したテーマとして感じられないもどかしさがあります。3楽章から5楽章は同じようなパターンが繰り返され、5楽章まである意図がよくわかりません。ブラームスのピアノソナタは三曲ありますが、いずれも20歳頃に作曲されたもので、そういう背景を考えればなるほどと思えます。ブラームスのピアノ曲にはOp.116〜118といったすばらしい曲があり、本人もソナタよりこういった小品に自らの才能を認めたのではないでしょうか。(2009年12月)
リーズ・ドゥ・ラ・サール、この何とも覚えにくい名前の女流ピアニストはフランス出身のまだ27歳。Lise de la Salleと書くとしっくりきますが、このピアニスト、どうして知っているかというと、このHPを公開した頃にしばらくメール交換をしていた人が、ブログで紹介していたからです。それがきっかけで、CDも数枚持っています。もちろん演奏も悪くないのですが、下のパンフレットにあるように、いかにもフランス出身という顔立ちで、名前よりもこの風貌の方が印象に残ります。そのラ・サールのリサイタルが銀座のヤマハホールであるというので、行ってきました。
当日は出勤日で、早めに会社を出てと思っていたら、夕方から打ち合わせが入り、かなり慌ただしいながらも、近くということも幸いして、開演の20分前に着きました。会場で、とりあえず腹の足しになるものを食べて席についたら、しばらくして演奏が始まりました。このヤマハホール、小さなホールですが、3階分位が吹き抜けになっており、天井も高く、やや幅が狭いながらも、良い感じのホールです。ところが演奏が始まったとたん、その圧倒的な音にびっくり。この前、といっても2009年の12月ですから、すでに5年前になりますが、田部京子の浜離宮朝日ホールとは大違いで、あちらは非常に豊かな、いわゆるホールの音でしたが、こちらは迫力満点で、まさにスタジオの音。ラ・サールの力強い弾き方も大いに影響していると思いますが、久々にピアノという楽器のダイナミズムを堪能しました。ヤマハホールだから、当然ピアノはヤマハのフルコンサートグランド。ホールはもとより、ピアニストも違うので単純比較はできませんが、スタインウェイに比べると、より刺激的な音と感じられるところは、ヤマハのピアノということも影響していそうです。
当夜の曲目は、ブラームスの主題と変奏、ラヴェルの夜のガスパール、休憩を挟んでドビュシーの前奏曲集からの抜粋、そして締めはまたブラームスのヘンデルの主題による変奏曲とフーガ。前述のスタジオの音という印象は、最初のブラームスでまず感じたことですが、ダイナミズムの起伏が激しく、ffでは鍵盤をたたきつけるような強烈な迫力で迫ります。この作品、ブラームスが30代のころの創作ですが、いわゆる渋いブラームスではなく、元気一杯で、気力が有り余っているようなブラームスです。となると、聞いていて疲れるというのは否めず、あまり楽しめないのは残念なところ。さすがにラヴェルは迫力で聞かせるのではなく、音をちりばめたようなきらびやかなピアニズム。ここでもダイナミズムの大きさはブラームスと同じか、それ以上ですが、強烈なピアノの音にもだいぶ慣れてきて、音楽そのものを楽しめるようになりました。
その点、休憩後のドビュッシーはがらりと変わって、豊かな音の響きを生かした演奏。ここにきて、ようやくくつろいだ雰囲気になりました。昔は、ピアノの優秀録音というと、まるでピアノの中に首を突っ込んだような録りかたが多かったのですが、ヤマハホールの音はまさにそういう感じを抱かせる音で、これはオーディオマニアにとっては快感です。個人的にはそういう音よりもホールの響きが感じられる音の方を好ましく思いますが、そういう傾向は音楽マニアには支持されるようで、その昔よくあった楽器の直近で録った音というのは流行らなくなってきました。それに、東京だけでなく、地方にも音の良いホールができて、そういうところでピアノを聞く機会が増えたのも大いに影響していると思います。
最後のブラームスはまた音の乱打という感じで、どうもブラームスには馴染まない感じが最後までしました。本人の選曲でしょうから、気に入った曲なのでしょうが、こういう力強いブラームスというのは、どうも日本人には馴染まないような気がします。思い返せば、20年くらい昔に買った、ウゴルスキーのブラームスのピアノソナタ集もそういう印象で、最近はほとんど聴いていません。もっとも、個人としての嗜好は横に置くと、実はそのダイナミズムこそ、若きブラームスの音楽ということなのかもしれませんが。(2015年3月)
今年に入って出張がほぼ毎月、それも日程が決まるのが直前ということもあり、コンサートはほぼあきらめムードでしたが、出張から帰って一週間もたたない時に、河村尚子が紀尾井ホールでベートーヴェンのピアノソナタに取り組んでいるということを新聞の広告で知り、公演の3日前にチケットを購入しました。コンビニでチケットを入手したのが演奏会の前日という、ネット時代だからこそできることですが、当然良い席はなく、2階の横一列の席という場所でしたが、ステージは見渡せないものの、音響には何の不満もない席でした。
さて、河村尚子のベートヴェンですが、期待通りというか、これまで馴染んできたショパンやロシアものより、さらに力強く気迫に満ちたベートーヴェンが聴けました。当夜の曲目は、26番、27番、29番という組み合わせ。第三回目ということで、すでに後期ですが、個人的に好きな28番がないのはちょっと残念。とはいえ、26、28、29では少し重すぎるのも事実で、間に27番を入れたのはそのあたりも配慮してのことと思います。
最初の告別で、すぐ思い出したのはもう何十年も前になりますが、アシュケナージの演奏会に行って、ワルトシュタインを聞いた時のこと。当時は演奏会もそんなに経験がなかったので、特に印象深かったのだと思いますが、はつらつとして、リズム感にあふれ、そして何よりも音の美しさに圧倒されました。当夜はその時の思い出がまざまざと思い出されて、ああこれこそ演奏会のだいご味、と強く印象づけられた次第。ペダルの使い方なのでしょうが、音が濁らず、フルコンサート・ピアノの豊かな響きにしびれました。ピアノの音と言えば、これも珍しいのですが、当夜のパンフレットにベーゼンドルファーを紹介したチラシがあり、河村尚子のベーゼンドルファーへの賛辞が寄せられています。
ベーゼンドルファーと言えば、バックハウスの格調高い演奏を思い出しますが、それはレコード時代の話。CDになってから買いなおすことはなく、ベートヴェンはもっぱらブレンデルを聞いていました。26番といえば、すでに後期に分類される作品ですが、河村のはもっと若いはつらつとしたベートヴェン。だからこそ、アシュケナージのワルトシュタインを思い出した次第。ダイナミックレンジの幅の広さこそ、ベートヴェンの音楽の特徴ですが、それこそベーゼンドルファーの持ち味で、豊かな低音のうえに、高音の美しい響きが溶けあい、極上のピアノの音が楽しめました。そこで思いを馳せるのは、やはりオーディオでの再現性。これだけの強靭さをオーディオで再現するのはやはり無理。日頃オーディオの音に馴染んでいるが故に、その違いを大きく感じるということなのでしょう。
休憩後のハンマークラヴィーアはまさに音の乱舞。音数の多さではラヴェルが最右翼で、ベートヴェンのソナタでそんな印象を受けることはまずないのですが、音が濁らないので、すべての音が聞こえてくるからでしょうか。ただ、音の構造物という印象が強すぎて、あまり音楽を楽しめなかったのも事実で、その点では告別の方が圧倒的に良かった。26番はリズム感と情感とが見事にマッチしていましたが、こちらは、より実験的というと語弊がありますが、ピアノとしての表現の限界に挑んだ作品という印象。その点でいえば、まさに作品の本質に真正面から向き合った演奏と言えるでしょう。前述のアシュケナージがハンマークラヴィーアのレコードを出した時、第3楽章がまるでショパンと言われたことがありました。河村はそんなことはなく、もう少しロマンチックな雰囲気を出してもよいのではと思わせるくらい、この作品に対する姿勢は一貫しています。この河村尚子のベートーヴェンシリーズは、次回は最終回で30、31、32番。最後のシリーズはもっと穏やかな面も期待したいところですが、29番ほどではないにせよ、ピアノという楽器での表現力を試すという姿勢は変わらないでしょう。まさにそれこそが、コンサートでこのピアニストが目指すことであり、自己表現の場であるが故です。(2019年4月)
例年、東京・春・音楽祭にはマレク・ヤノフスキによるワーグナーシリーズに欠かさず通っていましたが、コロナ禍で昨年の「トリスタンとイゾルデ」に引き続き、今年の「パルジファル」も中止となりました。オーケストラのような大編成の公演は東京文化会館ですが、それ以外に上野近隣の美術館、博物館、あるいは音楽学校などで、国内演奏家による小規模な公演が行われています。そのなかで、3月30日に菊池洋子のピアノでバッハのゴールドベルク変奏曲の公演が国立博物館の平成館ラウンジで開催され、会場の物珍しさもあり行ってきました。
当日の写真はまだ公開されていないのですが、過去の公演に比べると座席数を大幅に減らしているようで、全部で150席程度でしょうか、かなりゆったりした配置で寛げました。下の写真は2018年に平成館ラウンジで行われた公演ですが、イメージ的にはこの4分の1程度の観客といったところでしょうか。天井は十分高く容積も大きいのですが、周囲が大理石作りのため、やや反響が多く感じられました。とはいえ、音が濁ったりはせず、見かけよりもはるかに良い状態でした。
菊池洋子のピアノは、バッハらしくないというと語弊がありますが、チェンバロをイメージしたものではなく、現代のピアノの能力をフルに発揮したもの。必要なところではペダルも使い、とても豊かな響きが聴かれました。もちろん、スタッカート奏法も頻繁に使用し、特に低音部の音が明瞭で、バッハ特有のポリフォニーが浮きあがるような演奏です。それにしても、もともとチェンバロ用に書かれたゴールドベルク変奏曲をピアノで演奏するのは大変なようで、右手と左手が頻繁に交差します。まるで二匹のカニが鍵盤上を這いまわっているかのよう。座席は斜め左側でしたが、なにしろ演奏者と同じフロア上で、かつ距離も6〜7mのところで聴くわけですから、意識しなくともそのような光景が目に入ってきます。すべて暗譜でしたが、弾きこなすだけでも大変な30曲もの変奏を記憶するのは並みの努力ではできないことでしょう。プロといえどもこれだけの曲を演奏するための準備にいったいどれだけの時間を費やしたのか、そんなことに思いを馳せるほど、見事に弾きこなしていました。
そのような演奏なので、全体としても音の構造物といったイメージが強く、たとえば第22変奏のAlla breve、とてもロマンチックな曲なのですが、リリシズムよりも、厳しいというか荘厳なイメージ。後半になってくると、ゴールドベルク変奏曲というより、シューマンの、これも多くの変奏からなる「交響的練習曲」を聞いているような錯覚を感じました。言い換えれば、当夜のゴールドベルク変奏曲は、まるで交響曲を聞いているかのような印象だったということで、それだけインパクトのあるバッハだったということなのでしょう。(2021年4月)
小山実稚恵はすでに定評のあるピアニストですが、演奏会で聞くのは始めてです。表題の第5回「結晶体」というのは「ベートーヴェン、そして・・」と題された一連の演奏会の5回目ということで、2019年から続いているシリーズです。このシーリーズは2020年のベートーヴェンの生誕250年に併せて企画されていますが、興味あるのは、第1回が28番、順次29番、30番、そして今回は31番で、最後の第6回は32番と、後期の作品を番号順に取り上げていることです。
今回の曲目は、そのベートーヴェンの31番を最後においていますが、まずベートーヴェンの6つのバガテル、バッハの半音階的幻想曲とフーガ、休憩をはさんでモーツアルトの幻想曲ハ短調と31番というもの。会場はオーチャード・ホールで、第1回からずっとこの会場のようです。演奏の前に本人から、「結晶体」と名付けた意味と、曲目の解説があるのは、他の演奏会とはちょっと違う点ですが、これはベテランならではの良い試みと思います。オーチャード・ホールは過去にオーケストラを聞いていますが、あまり良い印象はなく、今回もその点では同様でした。ホール全体が四角い箱で、ステージの後ろに大きな壁があり、これが反響して、響きが過多になるようです。ピアノも打楽器らしい、切れの良い音ではなく、悪く言えばもやもやした、良く言えば響きの豊かな音になります。最初のバガテルでまず、ペダルが過剰ではないかと思った次第ですが、馴染んでくると、そうではなく、直接音が少なく、反射音が6割くらいではないかという印象です。これは1階の後方の席という場所によるところが大きいと思いますが、ピアノらしい切れのある音が聞こえず、何とももどかしい感じがします。
このところ、テレビ番組のピアノ演奏を聞くことが多かったので、余計にそういう思いが強いのかと思いますが、ヤマハホールで聞いた、リーズ・ドゥ・ラ・サールのピアノの音とは対極のホール・トーンをたっぷりと含んだ音です。このように書くと、穏やかな演奏を想像するかもしれませんが、小山の打鍵は力強く、現代ピアノの性能をフルに発揮させた演奏です。その姿勢はバッハやモーツアルトでも変わらず、よくあるチェンバロやフォルテ・ピアノをイメージしたものではありません。その点では、バッハもモーツアルトも、ベートーヴェンを演奏する時と同じスタイルであり、劇的かつ強靭な音楽であることが伝わってくる演奏です。それこそが、小山が名付けた「結晶体」、つまり「長い創作人生の結晶として生まれた珠玉の結晶体」ということなのでしょう。確かに今回の作品はバガテルを除き、どれも楽曲としての完成度の高い作品です。
この日の真骨頂は、最後のピアノソナタ第31番でした。ベートーヴェン特有の抒情性と力強いフーガとのコントラストが見事で、久々にベートーヴェンの醍醐味を味わいました。オーチャード・ホールの音に慣れたこともありますが、こういう演奏を聞くと音は気にならなくなるものです。冒頭のショート・トークで言っていましたが、この後期の3曲について、30番はベートーヴェンの気持ちが素直に表出された作品、31番はピアノソナタの総決算とも言える作品、そして32番は異次元(これは第6回のテーマでもある)の作品、という捉え方はまさにその通りで、演奏者とそういう意識を共有できるのは貴重な体験と思います。(2021年6月)