歳とともに演奏会で感激することはだんだん少なくなったこの頃ですが、今回ばかりは身震いするくらいに感動し、音楽の持つ迫力に圧倒されるような演奏会となりました。この東京・春・音楽祭というのは、その名の通り3月末から4月初めにかけて上野の森の文化会館や美術館などでほぼ毎日のように行われる音楽祭ですが、そのレパートリーは広く、室内楽やリートからオーケストラはもちろん、オペラまであります。私が参加したのは、文化会館で行われた"東京春祭ワーグナー・シリーズ"というもの。このワグナーシリーズは2010年から毎年開催されており、それも全て演奏会形式の公演です。指揮はワーグナーの楽劇のライブ録音、それも全て演奏会形式ということで有名なマレク・ヤノフスキで、オーケストラはN響。このシリーズでは去年からニーベルングの指環が始まり、今年はワルキューレ。まあ、この指揮者とオケなら悪いはずがないのですが、さすがと思ったのは、歌手陣に実力者をそろえたことです。
オペラの歌手、それもワーグナーを得意とする歌手についてはほとんど知らないのですが、演奏が始まれば、超一流をそろえたことはすぐわかりました。まずはジークムント役のロバート・ディーン・スミスとジークリンデ役のワルトラウト・マイヤー。ロバート・ディーン・スミスはアメリカ生まれだそうですが、よく透る声と豊かな表現力で魅了します。表現力という点ではワルトラウト・マイヤーの方がもっと印象的で、この人そう若くはないのですが、心情の表出が素晴らしく、思わず引き込まれてしまう魅力がありました。あとで調べたら、スミスはヤノフスキがベルリン放送管弦楽団と録音したワルキューレに、マイヤーは、あのバイロイト音楽祭で、バレンボイムのタンホイザーに登場しています。この指揮者が好む歌手なのでしょうが、そういう人たちが登場するというのは、この演奏の質の高さの証明でもあります。
ヴォータン役のエルギス・シリンス、ブリュッフンデ役のキャサリン・フォスター、そしてフンデンク役の韓国出身のシム・インスンと、いずれも水準以上の歌手陣たち。ただ、先の二人以外で個人的に最も印象が強かったのはフリッカ役のエリーザベト・クールマンです。この人まったく予備知識はありませんが、その力強い歌唱力は圧倒的で、メゾ・ソプラノだから声量があるとか、そんなレベルの話ではなく、まさにフリッカが乗り移ったような迫力と深みのある声に、ただただ聞き惚れてしまいました。もっとも、第二幕終了時の挨拶にクールマンが登場すると、ひときわ大きな拍手が起こっていましたので、そう思ったのは私一人でなかったようです
演奏会は4月7日でしたが、ウィークデイにもかかわらず演奏時間が長いため、昼の3時開演で、終了は午後8時と延べ5時間、これも初めての経験です。あのワーグナーの楽劇ですから長いのは驚くことではないのですが、やはりこれをライブで聞くのは演奏する方も聞く方も大変です。実演奏時間は4時間程度ですが、3幕の間に休憩がそれぞれ30分あり、合計5時間となります。もっとも、この30分というのはというのは決して長くなく、ゆっくりくつろぐにはちょうど良い長さです。カフェテリアで食事の予約をとってましたが、確かにワインと軽食を楽しむ雰囲気で、実際多くの人がこれまた高いワインを飲んでました。当夜は4月でも寒い日だったので、トイレも休憩ごとに行く人が多かったようで、毎回長い行列ができていました。通常の、それも昼間の演奏会となれば女子トイレの方が混むのですが、そこはワーグナーということでしょうか、男性の観客が多かったということでしょう。とは言え、抒情的なワルキューレだからというのもあるのでしょうが、女性のワーグナーファンも結構多いと見受けました。
実は演奏会形式というのは生では初めてですが、私のように、あまりオペラに馴染みがない、というよりオーケストラを楽しみたいという人にはとてもよい形態と思います。オペラではオーケストラは舞台手前のオーケストラ・ピットの中にいますので、当然のことながら明瞭さに欠けます。これは主役のオペラ歌手を引き立たせるためという以前に、舞台の前にオーケストラが陣取っていれば視覚的に邪魔になります。従い、オペラでは、オーケストラはあくまで引き立て役ということになりますが、演奏会形式は両者が対等になるわけで、何よりもオーケストラの音が良く聴けるのは特にワーグナーの楽劇にはうってつけです。当夜も、ワーグナー特有のうねる弦に落ち着いた管楽器の音色がとても心地よく調和していました。管楽器はブルックナー同様、オルガンの響きを連想させるのですが、ブルックナーはもっときらびやかで存在が際立つのに対して、ワーグナーはもっとやわらかく、奥深い響きです。これは当夜の座席が前から3列目ということも影響しているかもしれません。ちなみにこの席はA席で、16,500円。N響にしては法外な値段ですが、あれだけの歌手陣を招へいしたことを考えれば納得です。勝手なもので、これだけ音楽が素晴らしいと、前から3列目という、音響的に不利な座席のことはまったく気になりませんでした。落ちついた響きといえば、ヴィオラで主旋律のパートを演奏する場面も多く、このあたりはより肉声に近い表現を求めた結果なのでしょうか。ヤノフスキは、にこりともしない表情で長丁場を耐えてましたが、N響の音からワーグナーの音を引き出す手腕はまさに芸人。一聴軽い響きに感じるのですが、多くの楽器が鳴っても重くなり過ぎず、適度なバランスが保たれていて素晴らしい響きが楽しめました。興味をそそるのは、歌謡曲のバックオーケストラと同じで、歌手の出だしに合わせてオケが音出しするところ。指揮者のすぐ横にで歌手がいるので、このあたりの呼吸の合わせ易さも演奏会形式のメリットだと思います。それと余談ですが、オケが見えるという点で興味をそそられたのは楽譜です。いつものシンフォニーのとは違い、数センチはあろうかという、本のような分厚い楽譜で、そんなのはピットにいたのでは絶対にわかりません。
最後に、この演奏会形式には映像がありました。それもかなり大きな画面で、最初の前奏曲では森の中を駆け抜けるようなシーンがあり、音楽には沿っているものの、やや目障りと思いました。その後、第一幕でフンディングの家の中のシーンになると、トネリコの木が中央に映るだけでほとんど動きのない画面となり、あまり気にならなくなりました。全体を通しては控えめな映像で好感が持てましたが、物語を盛り上げる効果は認めるものの、やはり無くても良いのではないかと思います。このあたりは賛否両論というところでしょうか。ヤノフスキはホームでも映像を使っているのか、知りたいところです。(2015年4月)
N響の定期メンバーを止めて、来日オーケストラを中心にコンサート選びをやっていると、以前は敬遠していた、会場の前で配られる例の分厚いちらしを受け取るようになりました。その中で東京交響楽団がジョナサン・ノットの指揮でマーラーの第三番をやるというのが目につき、9月はまだ暑いだろうなと思いつつもチケットを確保しました。今年は連続猛暑日記録を更新した後は、まるで梅雨のようなじめじめした日々が続くという異常気象でしたが、公演日の9月12日は久々の秋晴れで、すっかりコンサートの季節という感じでした。
ということで、6月のNDRの来日公演以来久々にHPの更新にとりかかったわけですが、さてどのページに書こうかとなると、東京交響楽団は来日オーケストラではないし、また新たなページを増やすのも避けたいしとなると、「東京・春・音楽祭」のページしかありません。ということで、今回、表題を「国内オーケストラ公演」に変えて、こちらに追記することにしました。とはいえ、恐らくこのページに記載するような公演に行く機会はそう多くはなく、振り返ってみれば、当初のもくろみ通り、年1回の東京・春・音楽祭のレポートだけだった、ということになるかもしれません。
さて、そのジョナサン・ノットの定期公演ですが、マーラー、それも3番となると、児童合唱に女性合唱が加わり、来日オーケストラでは、さすがに合唱団も連れてくるわけにいかず、自ずと国内オーケストラということになります。従い、東京交響楽団を聞いてみたいというよりも、ジョナサン・ノットの指揮、かつアルトの独唱が藤村美穂子であるということに惹かれたというのがチケットを確保した理由です。ジョナサン・ノットはバンベルク交響楽団の首席指揮者としての経歴が長く、個人的にはシューベルトの交響曲のCDを保有しています。そのシューベルトはまさに正攻法という感じで、奇をてらったところがなく、真摯な音楽をやる人という印象ですが、反面、生真面目なところもありそうです。
久々のマーラーでしたが、まずはホルン8本の腹に響くような力強さに圧倒されました。この第3番、特に最後の楽章が心が洗われるようなきれいな曲で、自宅でもCDで後半を良く聴きますが、やっぱりマーラーは生でなくちゃと思いました。しかし、トロンボーンが加わり、さらに圧倒的な音量になっていくと、どうも音楽が単調なことに気づきます。決して管の技量が劣るということではないのですが、楽譜どおりに吹いているという感じがして、音楽が素直に流れていかないというか、その存在が気になります。
そういえば、NDRは弦と管が区別がつかないくらいに溶け込んでたという感想を持ったのを思い出しましたが、あれは朦朧としていたせいかもしれません。ところが二楽章が始まると、がぜん弦の響きが聞こえてきて、やっぱり一楽章では弦が聞こえないくらいアンバランスだったな〜と思った次第。この日のオケの配置はちょっと変わっていて、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが左右に配置されるのは良くある現代のオーケストラの配置ですが、違うのはチェロがやや左に寄って、その背後にコントラバスが陣取っていること。ヴィオラが第二ヴァイオリンの後方なのは通常通りですが、その奥に二台のハープが並びます。こういう配置の意図はよくわかりません。あるとすれば、大編成なので通常の配置では並びきらない可能性はありますが、それだけではないでしょう。ともあれ、第二楽章、第三楽章と進んだあたりから、ようやくマーラーらしい美しい響きが聞こえてきました。そして、アルトの入る第四楽章で、藤村美穂子のの登場ですが、今までのどんな管楽器よりも楽器らしいというと変ですが、ともかく人の声ではなく、あきらかに一つ楽器が加わった印象です。さすが日本人で唯一のワーグナーを歌える人という噂は本物で、こんなに目立たず、かつ表情豊かな歌唱を聞いたのは4月のワルキューレくらいです。
そこで気づいたのは、一楽章の金管群のことで、要するに表情が感じられないのです。だからマーラーらしい音楽が聞こえてこない。さすがのジョナサン・ノットもそこまでこのオケを育てるには、まだ時間が足りないということなのでしょう。第五楽章でアルトに加えて、児童合唱と女性が入りますが、この児童合唱、CDではボーイソプラノのように聞こえますが、実際は男女混合のようで、当夜は女子児童がほとんどのように見受けました。最終楽章は文句なく美しい、そしていやでも盛り上がる音楽。第一楽章で感じたちぐはぐさもここでは感じることなく、エキサイティングな音楽を楽しめました。やっぱりマーラーは気になるところがあっても、生の演奏会に限るということを改めて認識させられた演奏会でした。
今年のN響の12月の定期演奏は、シャルル・デュトアの指揮で、このマーラーの第三番です。やっぱり比較の意味でもきいてみたいところです。(2015年9月)
昨年の感動から丸1年、今年もマレク・ヤノフスキとN響のワーグナーシリーズに行って来ました。それも、昨年と同じ4月7日。昨年も寒い日でしたが、今年は寒さはさほどではないものの、朝から本格的な雨。春特有の荒れた天気にうんざりしながら出かけましたが、その公演は今年も期待以上で、ワグナーの魅力にすっかりはまった1日となりました。
今年はワルキューレに続く、「ニーベルングの指輪」第2日 ジークフリート。それにしてもワーグナーのオペラの登場人物の名はどれも馴染みにくく、紛らわしい名前ばかり。恐らく現代のドイツ人にとっても、その点は同様ではないかと推察します。歌手陣は、ヴォータン役のエギルス・シリンスとファーフナー(バス)のシム・インスンは昨年に引き続いての出演ですが、それ以外の歌手は初めての登場。主役のジークフリートはアンドレアス・シャーガー、そして相手役のブリュンヒルデはエリカ・ズンネガルドという、スウェーデン系アメリカ人。気品のある風貌がブリュンヒルデ役にぴったりで、ワルキューレから一人の女性として目覚めるという心の変化を見事に表現していました。反面、ワーグナー歌手としてはやや線が細く、舞台から遠い席では、その表現力が届かなかったのではと、余計な心配をしてしまいました。役作りのうまさはブリュンヒルデに限らず、どの歌手にも感じ取ることができましたが、昨年はただ圧倒されるばかりで、そんなことを聞き取る余裕もなかったというところでしょうか。ジークフリート役のシャガーも、まさに怖れをしらない若者という、粗野ともいえる行動力が溢れ出るような歌唱力で、長丁場を見事に歌い切っていました。脇役というより、第一幕では主役に近い役がジーフクリートの育て親であるミーナ役のゲルハルト・シーゲル。この人、良く通るテノールで、お人好しで間抜けな悪役を好演してましたが、今年の東京・春・音楽祭ではリサイタルの公演もやってます。きっと、ミーナ役とはまったく異なるリートの世界を表現してくれるのではないでしょうか。
このジークフリートの特徴の一つは女性の登場が少ないことで、第3幕になって、ようやく登場します。そのことも影響しているからでしょうか、エルダ役のヴィーブケ・レームクールが登場すると、その浸透力のある声に思わず聞きほれてしまいました。コントラルトということもあり、まさにこれぞワーグナーという、ホールの隅々まで響き渡るような声は見事で、もっと出番があれば良かったのにというところです。
N響は改めて言うまでもなく、厚みがあり、かつ重苦しくなく粘りのある、ワーグナーならではの音を出していましたが、今回は特に管楽器とヴィオラが印象的。ワーグナーのオーケストレーションの巧みさは良く知られていますが、人の声に近い帯域のヴィオラに主旋律を奏でさせることも、演出効果を高めているのは間違いありません。と書いて、昨年の記録を読んだらまったく同じことが書いてありました。オーケストラ公演ではあまり感じないことなので、やはりオペラという、人の声が主役となる楽劇ならではというところでしょうか。ヤノフスキのN響に対する感想も聞いてみたいところですが、これだけの指揮者ですから、ワグナーの音楽ができる楽団であるという共感があってこそ、こうして毎年公演を続けていることは、言わずもがなでしょう。
このワーグナーシリーズは東京文化会館での公演ですが、今年もA席で、前から4列目という、舞台を見上げる位置。当然、管楽器は見えませんが、その割には各楽器の存在が明確に聞き取れ、バランスの良いオーケストラサウンドを聞くことができました。以前、芸術劇場の最前列で、舞台が邪魔になって、あまり良い印象を受けなかった記憶がありますが、今回は4列目という違いはあるものの、この文化会館では十分楽しめる席で、悪くありません。まあ、これだけの演奏なら、S席の2万円を払っても十分ペイするでしょうけど。
このジークフリート、第2幕の大蛇との格闘シーンが有名ですが、抒情的なワルキューレに比べると、ジークフリートの成長の過程を表現した男の世界という印象があります。しかし、通して聞いてみれば、第3幕での愛の場面に向けた一連の物語であり、その「転」とも云える構成は、ワーグナーの真骨頂なのでしょう。その証拠に、30分間の休憩2回を含んで、約5時間という上演を長いとも思わず、決して飽きることがなかったのですから。もちろん、優れた歌手を得て成り立つ公演ですが、それを可能にしたヤノフスキこそ、最も称賛されるべき人でしょう。ただし、本人はいたって冷静で、例によってニコリともせず、淡々とやってましたが、拍手の嵐に応えて、N響こそが今日の主役だと言わんばかりに称えていたのがとても印象的でした。(2016年4月)
鈴木雅明率いるこのバッハ・コレギウム・ジャパン、CDでは馴染みのある楽団ですが、何故か縁がなくて、今回初めて行ってきました。表題にある通り、118回目の定期演奏会ですが、バッハのカンタータという、誰でもが馴染みのあるとは言えない曲目でこれだけの回数の演奏会を続けてきたというだけで、大変な快挙です。とはいうものの、さほど大きくないオペラシティのコンサートホールですが、両側の席は半分位は空席で、演奏会に継続して来てくれるファンを維持することは、常に大きな課題と思います。そういう私もバッハはもちろん好きな作曲家ですが、他にも多くの演奏会があるなかで、コレギウム・ジャパンの演奏会に毎回参加することはまずないでしょうから。
当夜の曲目はルター500プロジェクトと称するシリーズで、来年2017は宗教改革から500年目という節目にあたり、それにちなんだ曲目を演奏するもの。そもそもカンタータに関する知識はもっていないので、そう言われても、どういう曲目が対象になるかは理解できず、個人的には特別な意味はありません。この公演、休憩時間に代表の鈴木雅明の解説があり、そこで言っていたのは、カンタータの全曲録音が終わり、次に何を目的にしようかと思案していたら、来年が宗教改革500年というので、これだ!ということで定期公演のテーマにしたと。それこそ、公演継続のための工夫なのですが、明確な公演目的を持つのは、ファン以前に自分たちの課題でもあるということなのでしょう。そのルター500プロジェクトUの曲目は、バッハのマニフィカトによるフーガ、コラール集より「わが魂は主を崇め」の前奏の後、M.プレトリスの8声のマニフィカトで始まり、以降はバッハのカンタータで、第10番「わが魂は主を崇め」、休憩をはさんで第94番「私はこの世に何を求めよう」、第78番「イエスよ、あなたはわが魂を」の3曲。
プログラムをみると、「わが魂は主を崇め」が3曲も集めてあり、このあたりにもこだわりがあるのでしょうが、その背景はわかりません。ところで、最初のフーガ「わが魂は主を崇め」はオルガンの独奏なので、当然としても、次のコラールもオルガンと声楽隊のみで演奏され、鈴木雅明はこの間は脇にいて、次のシオンのムーサたち(1605年)より8声のマニフィカト「わが魂は主を崇め」から指揮台に登場するということになります。オルガンは鈴木雅明の息子の鈴木優人ということで、あたかも息子の仕事ぶりをチェックするといった趣でした。オペラシティのオルガンは初めて聞いたように思いますが、久々にオルガンの壮大な響きが楽しめました。この鈴木優人、いつ頃からコレギウム・ジャパンの鍵盤楽器の担当を務めているのか知りませんが、恐らくどこかの時点で、雅明は指揮に専念することにしたのではないかと推測します。
CDで聞きなれた楽団でも、生で聞くとまた新たな発見があるのが通常ですが、このコレギウム・ジャパンに関しては、あのきびきびして、それでいて柔らかい響きそのものでした。もちろん、生ですから、たとえばソリストは初めから前列に並んでいるのではなく、声楽隊の一員が、独奏の都度、前に出てくるなど、CDではわからないことは当然あります。それと、やや騒がしいガチャガチャした音が聞こえてきて、古楽器特有の楽器に起因するものでしょうが、耳障りということではなく、生ならではといったところです。拙宅のオーディオは分解能が高いと自負していましたが、このあたりはやはり生にはかないません。楽団全体としては、小編成なのですが、ホールのサイズにも助けられてか、音響的には十分で、見かけよりずっと大編成に聞こえます。ただ、ダイナミックレンジは当然ながら、大編成のオーケストラとは異なり、またその必要性もないのですが、CDでの再生と大きな違いを感じないのはそのためもあると思います。
生ならではの新たな発見と言えば、ソリストたち。さすがに録音時のソリストを国内演奏会に招くのは無理と見えて、カウンターテナー以外は全員日本人でした。しかしそんなハンディはまったく感じさせることなく、特にソプラノの松井亜希とテノールの櫻田亮がとても印象的でした。テノールの櫻田亮は声そのものが美しいことに加え、極めて安定した歌い方で、後でパンフレットを見たらすでに有名な歌手のようで、さもありなんと思った次第。ただ、バッハ時代のことを思えば、専任のソリストなどいるはずもなく、声楽隊の一員が独奏を務めるのはごく自然なことだったはず。当夜は週末から忙しい日々が続いた後で、体調があまり良くなく、個々の曲にコメントするほど集中できず、第78番など、とても豊かな曲想の音楽でしたが、好きなバッハをあまり楽しめなかったのは残念でした。そんなこともCDとの比較が頭から離れなかった一因なのかもしれません。(2016年5月)
この新国立劇場、隣接するコンサート・ホールは5月のバッハ・コレギウム・ジャパンの公演で来たばかりですが、オペラシティの謂れでもあるオペラハウスは初めて。というよりも、本格的なオペラを見るのは初めてということです。その新国立劇場での今年度最初の公演がワグナーのワルキューレ。一度見ておこうという気になったのは、言うまでもなく、東京・春・音楽祭でのN響の公演がきっかけです。オペラに馴染みのない身には、むしろ演奏会形式の方が親しめるというものの、やはり一度はオペラ本来の姿を見ておきたいと思っていたところにこの公演、見逃さないわけにはいきません。
その新国立劇場、さすがオペラハウスだけのことはあって、まずアプローチの雰囲気が違います。会場も2階から上はいわゆるボックス席で、会場がそれほど大きくはないので、歌手の声が良く通ります。オーケストラはピットの中にすっぽり囲まれていますが、思ったほど音がこもることはありません。ただ、舞台で演奏するのとは当然異なり、下からドドーンという感じで音の塊りが飛び出す、と言えばよいでしょうか、明瞭さにかけるものの、迫力は十分です。演奏会形式と同じなのは休憩時間で、第1幕と第2幕の間が40分、第3幕との間が35分あり、当日は土曜日でしたが、14時開始で、終了が19時30分くらいでした。文化会館同様、シャンパンやらビールなどのアルコールは当然として、軽食もあるのですが、バカ高い1300円のローストビーフも結構売れていたのは驚きです。それはともかく、土曜の昼下がり、ビールでも飲みながら、オペラを楽しむというのは、最高の贅沢といえるかもしれません。
さて当夜の出演は、新国立劇場の音楽監督、飯守康次郎指揮の東京フィルハーモニー交響楽団、そして歌手陣はジークムントがステファン・グールド、ジークリンデがジォゼフィーネ・ウェーバー、ヴォータンがグリア・グリムスイ、ブリュンヒルデがイレーネ・テオリンといったメンバー。ワグナー歌手の知識がない私にとっては馴染みのない歌手たちですが、十分楽しませてくれました。先のN響の演奏会形式での出演者たちと比べても遜色ありません。ちなみにこの新国立劇場のシーズンオペラに登場する歌手陣ですが、さすがに海外の有名歌劇場の専属歌手は無理としても、それなりの実績を積んだ歌い手を集めているようで、これこそが日本でオペラを演奏する一番の問題なのではないかと感じた次第です。数少ない日本のオペラ歌手だけでこれだけの公演をこなすのは無理ですから、当然招へいするのでしょうが、はたして日本の歌劇場が自分のキャリアにとって、好ましい場ととらえてくれているかどうか。これは日本のオペラ公演の大きなハンディでなのではないでしょうか。
当然ながら、オペラの方が「演技」があるので、見ていても飽きないし、幻想的、かつ迫力のある舞台はオペラならではの醍醐味です。特筆すべきことは、その舞台や演技がワーグナーの音楽自体を楽しむことに、決してマイナスにはならないこと。ただ、当日はそれまで忙しい日々がつづいたのと、風邪気味で体調は最悪。演奏会だったら朦朧とするところでしょうが、そこは舞台があるので、話についていけなくなるようなことはありません。ただ、5時間もの演奏を長いとも思わなかった時と違い、初のワルキューレのオペラ公演を楽しむに至らなかったのは残念でした。(2016年10月)
この東京・春・音楽祭のワーグナーシリーズ「ニーベルングの指輪」も最終幕で、今年は神々の黄昏。それにしても、このHPの更新は昨年の11月以来ですから、実に4か月ぶりです。2017年は年明けからほぼ毎月のように出張で、まったく演奏会に行く予定が立てられず、このワーグナー公演も、前日まで出張というありさまでした。
さて、その神々の黄昏、最終幕にふさわしい、エキサイティングな音楽でしたが、今回の公演では、主役のジークフリート役のロバート・ディーン・スミスに加えて、ブリュンヒルデ役のクリスティアーネ・リボールの二人が練習中に体調を崩し、音声障害で歌えなくなるという、とんでもないハプニングがありました。脇役ならともかく、主役の二人が代役という前代未聞の出来事で、主催者側も大変だったのは想像に難くありません。その代役として、ジークフリートをアーノルド・ベイズエン、ブリュンヒルデをレベッカ・ティームの二人が務めたのですが、ジークフリートのアーノルド・ベイズエンが表現力という点で物足りなく、かなり見劣りしました。その点、ブリュンヒルデのレベッカ・ティームは見事で、代役と言うハンディをまったく感じさせない出来で、やはりプロたるもの、こうでなくちゃと思いました。気に入らないのは、演奏に先立つ代役のお詫びのアナウンスで、彼らは急遽3月29日に日本に来たばかりという事情をご配慮くださいというくだり。まるで、出来の悪いのは我慢しなさいと言わんばかりです。ちなみに、ロバート・ディーン・スミスはワルキューレでジークムントを演じた人。ワルキューレのレポートに書いた通り、とても表現力豊かな歌唱の人で、突然のキャンセルは本当に残念に思いました。救いだったのはレベッカ・ティームで、館に再び登場してからの自信に満ちた訴えから、最後の炎の中に身を投じるまで、代役とは思えない歌唱力で、この盛り上がりを見事に演じていました。
先の、国立劇場でのワルキューレで書いた「さすがに海外の有名歌劇場の専属歌手は無理としても、それなりの実績を積んだ歌い手を集めることが、日本でオペラを演奏する一番の問題なのではないか」ということが、まさに今回も露呈したということでしょうか。致し方ないとはいえ、代役だから許されることでないのは当然ですが、そういう事情に思いをはせれば、それが日本におけるオペラの実情ということなのでしょう。
そういう状況の中で、変わらぬ名演をしたのが、マレク・ヤノフスキ指揮のN響です。毎回これぞワーグナーという音楽を聞かせて聞かせてくれますが、今回はリングシリーズの最終幕という心理的影響もあるのでしょうか、とてもエネルギッシュな演奏でした。特筆すべきは、輝かしい管楽器群に負けない弦の響き。これだけ管楽器が出っ張ると、バランスが崩れるのですが、そんなことはまったくありません。その要因として、弦楽器奏者の数も多いこともありますが、それだけではあの分厚い響きはでないでしょう。奏法によるところが大きいと思いますが、かといって決して重くなることはなく、まさにワーグナーならではのオーケストラサウンドが楽しめました。これこそが演奏会形式の良いところで、オーケストラの響きが理想的な形で客席に届くゆえのことでしょう。特に、最終幕で歌手たちが去った後の見事な管弦楽は、これがオペラであることを忘れさせるほどでした。とは言え、それだけで満足できないのは、やはりこれが歌劇である所以で、歌手の重要性を改めて感じさせられた公演となりました。
最後に、ヴァルトラウテ(ブリュンヒルデに指輪を返すよう説得するヴァルキューレの一人)役のエリーザベト・クールマンが今回も見事な歌唱を聞かせてくれました。ワルキューレではフリッカ役がはまり役でしたが、メゾ・ソプラノなのでブリュンヒルデの代役は無理としても、もっと出番が欲しかったところです。(2017年4月)
私が聞いた日とは違い、4日の公演ですが、ほぼ同様な印象です。さすがという記載はありませんが、コンサートマスターがウイーンフィルを退任した人とは知りませんでした。 (4月10日朝日新聞夕刊)
新国立劇場の2016/2017シリーズは、昨年10月のワルキューレで始まり、今回のジークフリートが最後の公演となります。すでに2017/2018シリーズの発売も開始されていますが、国内でこれだけ質の高いオペラを定期的に見られるのは、ここ新国立劇場ならではです。さて、そのジークフリートですが、ジークフリートはワルキューレでジークムントを演じたステファン・グールド。この人、この新国立劇場のニーベルングの指輪シリーズの主役テノールにすべて出演しており、まさにこのシリーズの専属のような存在です。もちろん本人のチャレンジ(それも日本だから)があったものと思いますが、確かにその歌唱力は素晴らしく、何よりも安心して聞いていられます。ただ、その反面、年齢的(55歳)にも、お腹のたるんだ体つきも、怖れを知らない若者にはほど遠く、第1幕のミーメとのやり取りなど、どう見ても親子のやり取りには見えません。もっともこのことはオペラではよくあることで、およそそぐわないカップルが愛の歌を熱唱することもままあります。頭ではそれは理解していても、そこはオペラ。CDで聞くのと違って舞台で演技をしているわけですから、音楽だけに集中することは不可能です。でもそれこそがオペラの醍醐味であり、音声だけを聞くのとはわけが違います。ただ、本来面白い二人のやり取りがあまり楽しめななかった理由は、決して外観だけでなく、その落ち着いた歌い方にもあるように思います。こういう思いを抱くのは、明らかに東京・春・音楽祭でN響とヤノフスキーによる演奏会形式のシリーズを意識しているからで、演奏会形式なるもの、オペラとは別物と思っても、純粋に音楽を楽むという観点では、オペラより楽しめる形式であることに、改めて思い至った次第です。
そんなことを思いつつ、ジークフリートの山場、大蛇との格闘シーンである第2幕を初めて見たのですが、明らかに迫力不足。大蛇はなんと巨大な風船で、確かに大きさという点ではさもありなんと思う一方、滑稽さの方が勝っていて、これではジークフリートならずとも、怖れの感情は生じないでしょう。舞台で巨大さを表現する難しさは十分理解できるものの、もう少し工夫があってもという印象でした。ただし、舞台の作りは全体的には非常によくできていて、モノトーン、かつ抽象的な表現はワーグナーの世界にふさわしいものでした。それゆえに大蛇だけが異質なものと映ったのだと思いますが、たとえば少し大きめの仮面をつけるだけの方が想像力を掻き立てる効果があったのではと思います。
文句なく盛り上がったのは第3幕。ジークフリートは第1幕、第2幕は、第3幕にいたるまでの経緯と言っても良い構成で、派手な立ち回りの割には面白くありません。その気持ちを一気に解放してくれるのが第3幕で、ワーグナー特有の綿々とした愛の歌が続きます。ただ、目を覚ましたブリュンヒルデがジークフリートの求愛を素直に受け入れられないというのが、これまたワーグナーらしいところです。その気持ちの変化を綿々と歌うところが物語性に満ちていて、音楽的にも一気に盛り上がるよりも効果的に響くのは間違いありません。ブリュンヒルデはりカルダ・メルベート。エルダ役はクリスタ・マイヤー、さすらい人(ヴォータン)はワルキューレと同じグリア・グリスムイ。クリスタ・マイヤーが抜きんでていましたが、りカルダ・メルベートもやや音程が不安定なところもあったが、全体に素晴らしい歌手陣でした。
今年は出張が多く、あらかじめチケットを確保しておくことができません。従い、確実に行けるとなった時点でチケットを確保するので、昨年まで続けていた、来日オーケストラの公演はあきらめざるを得ません。この新国立劇場も公演の4日前に確保したのですが、幸いウィークデーのおかげで、良い席が確保できました。
ちなみに、今回のオケは東京交響楽団。指揮者は同じ飯守泰次郎ですが、その違いはまったく気づきませんでした。これは飯守氏の功績ですが、一方でオーケストラ・ピットに入るとどうしても明瞭さに欠け、いわばお団子状態での音となります。そのあたりが、オケによる違いを感じさせない要因と思いますが、その裏付けとして、あまりオケの音が聞こえてきません。歌手の声が客席に届くというのが最優先の設定とは認めつつも、オーケストラの音も楽しみたいと思っている私のような聴衆には、オペラでオーケストラサウンドも同等に楽しむのは無理な注文ということでしょうか。(2017年6月)
この前オーケストラの演奏会に行ったのはいつだったのか思い出せないくらい時間がたってしまいましたが、久々にN饗のダイレクトメールで10月はブロムシュテットのブルックナーがあると知り、もしかしたらN響を指揮するのは今年が最後になるかもしれないと思いつつNHKホールに行ってきました。今年で91歳になるブロムシュテットですが、杖を使うこともなく指揮台に向かい、立ったままこの大曲を指揮をする姿に、その思いはまったくの杞憂でした。
さて、10月のN響定期公演ですが、モーツアルトの交響曲 第38番 プラハとブルックナーの交響曲 第9番。これ以上ないと言う組み合わせですが、何よりもオーケストラを生で聞くということが、オーディオのあり方を追求するうえで、いかに大切なことであるかを再認識させられた演奏会となりました。というのは、演奏会通いからずっと遠ざかっていたことに加え、今年実施したオーディオ専用の電源工事で、ようやくコンサートホールらしい音が出せるようになったということもあり、かつてオーケストラの音を自分のオーディオにおけるリファレンスにしていたことなどすっかり忘れてしまって、オーディオという閉ざされた空間で、オーケストラをそれなりに雰囲気良く再現することにのみ心を奪われていた自分に気づいたという次第です。
そんなわけで、最初のモーツアルトを聞いてまず思ったのは、やはり拙宅のオーディオのことで、音の透明感や各楽器の存在感、そしてオーケストラのスケール感も、我がオーディオシステムはそれなりに再現できているということでした。やはり電源工事をやって良かったと改めて思った次第です。しかし、その思いは休憩後のブルックナーで無残にも打ち砕かれました。まずは金管群の音の厚み、そして弦楽器も、演奏者の数から当然ながら分厚い、かつ力強い響きが聞こえてきて、そのスケールや重厚感はオーディオでは決して得られる世界ではなく、オーディオは所詮、箱庭という絶望感。ただただ音の洪水に圧倒されたわけですが、やはりブロムシュテットのブルックナーは素晴らしい。モーツアルトは、そもそも小編成のオーケストラですから、受ける印象は相当違いますが、ブロムシュテットの場合、いわゆる古楽器を思わせる軽快な響きではなく、現代の楽器の特徴を生かした豊かな響き。だからと言って分厚い音を聞かせるのではなく、優美さよりもシンフォニーとしての構成を明確に提示するような演奏です。
ところで、当夜のチケットは定期公演なのでS席はすでに売り切れで、確保できたのは右寄りのA席で7,000円。このHPでも報告しているように、昨年までは主に来日オーケストラを聞いていたのですが、ウィーンフィルやベルリンフィルは特別としても、一流と言われるオーケストラのチケットはやはり3万円程度。確かにいつもN響ですと、たまには違うオケも聞いてみたくなるのは自然なことですが、このようなリーゾナブルな価格で質の高い演奏会を定期的に楽しむことこそ、本当の音楽愛好家の姿ではないかと思った次第。
モーツアルトとブルックナーで、その音圧の圧倒的違いを肌で感じて思うのは、CDの再生レベルの問題です。小規模な室内楽と大規模編成のオーケストラサウンドがほぼ同じレベルでCDに記録されているのというのは不合理というか、正しい録音とは言えません。一方で、楽曲の編成に応じてCDの再生レベルが異なると、これまた再生上扱いにくく、CDごとにボリュームを変更しなければならないのも現実的ではありません。となると、現実的な解決策は、CDを再生する人が、再生する音楽の規模に応じて、客席で聞こえるであろう音圧を想定し、その音圧が得られるようにボリュームを設定することです。もちろん客席での音圧レベルと言っても、コンサートホールの場所によって異なるので、絶対的なものではありませんが、少なくともCDを再生するとき、オーケストラの規模にかかわらず、いつもほぼ同じレベルというのはあり得ないでしょう。今回の曲目でいうと、モーツアルトはいつもの音量とすると、ブルックナーは2〜3dBくらいボリュームを上げることになりますが、そこがオーディオの難しいところで、それだけボリュームを上げるとかなりの圧迫感が生じ、特定の音域にピークが出たりして、かえってホールの豊かな響きが損なわれることになりかねません。さらに、録音時にはリミッターの存在もあり、生に比べてダイナミックレンジが狭いことによる制約も当然考慮せなばなりません。
当夜の演奏会は久々の生演奏に接して、演奏よりもオーディオにまつわるいろんな課題に思いを馳せることになりましたが、どんなジャンルの音楽も、自分が聞いて心地よいと思う音量で、それなりに再生できれば良いという自己満足の世界から一歩踏みだして、本物のオーケストラの再現は無理としても、その雰囲気に少しでも近づけるためのオーディオを、原点に戻って追求してみようという気にさせられた演奏会となりました。(2018年10月)