都響のダイレクトメールで、5月11日の出演者及び曲目変更というお知らせが公演前日の10日に届きました。ピアノが予定していたマリアム・バタシヴィリが体調不良のため、アンヌ・ケフェレックに変更となり、曲目もバルトークからモーツアルトに変更するという内容です。以前からケフェレックのピアノはCDで親しんでいることもあり、これはチャンスと行ってきました。4月のN響定期公演で、演奏会通いもそろそろ見直す時期と思いつつも、やはり気になる奏者が出演するとなると、躊躇することはありません。
そのレポートを書くにあたり、ちょうど「国内オーケストラ公演」のページが、コロナ禍の2020年から丸4年経過していたため、2024年度で更新することにしました。当該記事によると、2020年から2021年にかけての公演は不定期かつ、代行運転みたいな感じでしたが、2022年度から予定どおりの開催になったようで、当時の混乱が偲ばれます。そのケフェレックのピアノ、CDで聞き馴染んだ繊細なイメージとは違って力強く、といってもガンガン弾くのではないものの、やや荒っぽいとも受け取れるモーツアルトでした。ただ、アンコールのヘンデルのメヌエットは従来のイメージ通りで、ケフェレックの真骨頂はこれだよな〜と思った次第。
当夜の指揮は尾高忠明で、曲目は武満徹の≪3つの映画音楽≫より、モーツアルトのピアノ協奏曲 第20番、休憩を挟んで、ウォルトンの交響曲 第1番。都響は2023年7月の公演以来ですが、その時感じたヴァイオリンの高域のきつさは今回は感じられず、弦楽合奏の武満作品は映画音楽らしい、心地良い響きでした。次のモーツアルトは、序奏からしてストレートな感じで、モーツアルトというより、ベートーヴェンのピアノ協奏曲のような雰囲気です。意外なことに、ケフェレックのピアノもそれに応えるかのように力強いタッチで、二短調という、この曲の持つやや暗く、思索的な印象とは異なります。もっとも、この曲については、内田光子がジェフリー・テイトと組んで、1985年に録音したCDを40年近く聞き込んできたことで、この曲に対するイメージが作り上げられてしまったのは確かです。とはいえ、この日の演奏は華やかで、ピアニスティックな曲という感じなのですが、その点ではオーケストラのスタイルとも呼応していて違和感はありません。カデンツァは初めて聞くものでしたが、優しさよりも力強さに力点を於いた演奏に相応しいものでした。ケフェレックは、来日していたところを急遽この公演に駆り出されたため、弾きなれたモーツアルトとはいえ、練習時間がほとんど取れなかったはずで、当夜の演奏スタイルはそのあたりも影響していると思います。意外というか、知らなかったというのが正しいのですが、特に第2楽章で顕著でしたが、装飾音を随所に入れていることで、これは即興的で新鮮な感じがしました。
ウォルトンの交響曲 第1番はBBCウェールズ交響楽団の音楽監督だった尾高の得意な曲のようで、さすがに統制の取れた、しかも豊かな抑揚のある音楽を聞かせてくれました。その点では初めて聞く曲にもかかわらず、構成が見えるような演奏でしたが、曲自体があまり魅力あるものではなく、大音量で迫る場面はあっても、それが感動には繋がりません。CDで聞いたら、恐らくうるさいだけの音楽という印象を持ちそうで、都響の熱気ある演奏はライブならではと思いつつも、あまり面白さが感じられなかったのは残念です。(2024年5月)
正式にはSeiji Ozawa Matsumoto Festivalという名称ですが、そのオーケストラ・コンサートに行ってきました。目当てはもちろん、サイトウ・キネン・オーケストラですが、今年はB、Cプログラムをアンドリス・ネルソンスが指揮するというので、松本まで出かけることにしました。ところが、事務局から一週間前の8月14日に、ネルソンスが健康上の理由で降板するとのメールが届きました。健康上の理由なら仕方がないとはいえ、ネルソンスが初めて聴けるチャンス、と期待していた者にとってはショックです。代行者はBプロ(ブラームスのシンフォニー
第1&2)は沖澤のどか、Cプロ(同 第3&4)は第3番が下野竜也、第4番がラデク・バボラークとの連絡がありました。苦肉の策ということが見え見えの布陣ですが、いっそのこと沖澤のどかが、全部やってくれた方が良かったのにと思った次第。というのは、8月11日にテレビ放映された、N響第2014回定期公演が沖澤の指揮によるフランスもので、これが素晴らしい演奏だったからです。
しかし、実際に参加してみると、苦肉の策がかえって、演奏者や聴衆の共感を得たようで、期待以上に楽しむことができました。ところで、このサイトウ・キネン・オーケストラですが、果たしてこの「国内オーケストラ公演」というページに書き加えるのが妥当なのだろうかと思うくらい、外国人の演奏者が多く、その音もまた国内オケとは一味も二味もちがうものでした。
下野竜也の指揮で、ブラームスの交響曲 第3番が始まったとたんに感じたのは、演奏者たちが一緒に音楽をやるのが楽しくてたまらない、というの伝わってくるような熱気です。そのような熱気は当然、個々の演奏者の活気に溢れた表情に現れ、音楽の流れに乗って体が動く、いわば行儀の悪い演奏スタイル。こんな演奏に接すると、普段聞いているN響が、いかに整然としていて行儀の良い演奏であるかに気づかされます。外国人の演奏者が特に目立つのが金管群で、ホルンのラデク・バボラーク(この人が第4番の指揮を担当)、フルートのアダム・ウォーカー、オーボエのフィリップ・トーンドゥル、クラリネットのリカルド・モラレスなどなど。各人が普段はどこで演奏活動をしているのか知りませんが、その表情豊かな演奏を聴くだけでも、このオケの価値があります。加えて、弦楽器の方は圧倒的に日本人が多いのですが、管楽器群の輝かしい音色に負けない、分厚いハーモニーを聞かせ、これぞオーケストラの醍醐味というところです。そんなオケですから、つい前のめりになりそうなのですが、そこは下野がグッと引き締めていて、実に聞き応えのある第3番でした。
休憩を挟んで、後半は前半でホルンを吹いていたラデク・バボラークの登場です。このホルン奏者は以前から指揮もやっていたとはいえ、通常のオーケストラの演奏会では、このようなことはまずありません。ただ、第3番でメンバーの熱気を感じた視聴者の一人として、下野が両方ともに指揮するのではなく、下野と二人で代役を務めたというのは、急場を凌ぐ方策として、メンバーの結束力を高めるのに、良い選択だったのではないかと思います。
そのラデク・バボラーク、ちょっと意地の悪い言い方をすると、ただ腕を振り回しているだけじゃない、と言いたくなるような大らかさがあります。その観点は、まさにサイトウ・キネン・オーケストラの性格にも通じるところで、音楽を盛り上げていくところは活気があって楽しめる一方、陰影のある感情の表出や、精緻さを感じさせる表現は希薄な印象。そもそもオーケストラ自体が、短期間に集まって仕上げるという宿命があり、その上、今回のように指揮者も急遽代行となればいたし方ないところ。ただ、今回初めて松本フェスティバルに参加して感じたのは、これは文字通り「お祭り」であるということ。もちろん「音楽祭」ですから、いわゆるお祭り騒ぎと違うのは当然として、参加している聴衆もこのイベントを楽しんでいる様子が感じられ、会場全体に華やかな雰囲気があります。でもこのフェスティバルを最も楽しんでいるのは、言うまでもなくオーケストラを構成するメンバー達であり、それが、ここでしか出来ない自分たちの音楽を作ろうという、原動力になっているのは間違いありません。(2024年8月)
東京交響楽団は2015年にジョナサン・ノットの指揮で、マーラーの交響曲 第3番を聞いています。しかし、その後に聞いたシャルル・デュトアとN響の演奏とのあまりの違いに唖然として、もう公演に行くことはないだろうと思っていました。その東京交響楽団が12月にリヒャルト・シュトラウスのばらの騎士をやるというチラシを見て、CDでは聞き馴染んでいるものの、オペラはもとより、ライブは初めてということでチケットを確保しました。演奏会形式ながら、主な独唱陣は海外から招へいした豪華メンバーですし、オーケストラ・サウンドを楽しみたい者にはオペラより好ましい公演形式です。指揮は2015年の時と同じジョナサン・ノットで、来年度までの契約だそうですが、当時から10年間も音楽監督を務めているというのも驚きです。その東京交響楽団のばらの騎士、予想以上の素晴らしい演奏で、大いに楽しめました。やはり10年という年月を経て、ジョナサン・ノットの指導もさることながら、国立劇場でオペラの演奏をしていることが良い経験になっているようで、弾むような活気のある演奏はリヒャルト・シュトラウスの音楽を見事に表現していました。
独唱陣は元帥夫人:ミア・パーション、オクタビアン:カトリオーナ・モリソン、ゾフィー:エルザ・ブノワ、オックス男爵:アルベルト・ベーゼンドルファー、ファーニナル:マルクス・アイヒェ。なかでもオックス男爵が歌唱はもとより、演奏会形式を超えた、舞台を思わせる演技で盛り立てていました。元帥夫人のミア・パーションも良く通る声で、何よりも気品を感じる所作が印象的でした。このオペラの主役は実はメゾ・ソプラノのオクタビアンで、カトリオーナ・モリソンの、ホールの隅々まで届く深みのある声は圧巻でした。たまにCDで聞いているとはいえ、オペラのストリーを追って聞くことはないため、最初は話が見えず、戸惑いました。第1幕の元帥夫人とオクタビアンの愛の歌では、元帥夫人ではなく、ゾフィーと勘違いして、確か、ばらの花を届けた時にオクタビアンがゾフィーに一目ぼれするはずなのに、などと考えてしまいました。もちろん、その後の元帥夫人の独白で勘違いにすぐ気づきましたが、その理由は、元帥夫人役のミア・パーションが若々しく、かつ魅力的に見えたためです。歌唱力も素晴らしい故の勘違いですが、元帥夫人には、小太りで年齢を感じさせる体系が相応しく、ミア・パーションのほっそりした体系はゾフィー役でも十分成り立ちます。対するゾフィー役のエルザ・ブノワはパーションと比べると、声の浸透力がやや劣るものの、やはり初々しさがあり、納得できる配役でした。
演奏会形式といえば、東京・春・音楽祭のワグナー・シリーズが頭に浮かびますが、ワグナーということもあり、舞台の演技はほとんど気にしたことがありません。一方で、このばらの騎士は、特に第3幕のドタバタ劇など、演技の面白さがあってこそ、音楽も生きてくるような見せ場が多くあります。椅子やテーブルなど、ワグナー・シリーズでは見られない小道具があったのも、その一例です。思わず笑いを誘うような演技もあって、演奏会形式で、ここまで楽しめるというのは予想外でした。CDではともすれば、第3幕の三重奏のみに焦点を当てがちですが、ワルツの舞踏シーンや、複雑な心の葛藤の表現など、全体を通して見てこそ味わえる楽しさがあります。そういったシーンをバックで盛り立てたのが東京交響楽団で、会場がサントリー・ホールということもあり、N響より良いのではないかと思える、豊かで美しい響きが楽しめました。マーラーで表情が乏しいと思ったのは過去のことで、今やオペラの表現力も身に着けたオーケストラに成長したことを実感した演奏でした。(2024年12月)