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2021 N響定期公演再開

2021年9月6日 N響 名曲コンサート2021

 昨年度のN響定期公演はコロナ禍で中止となりましたが、2020年の9月頃から主催公演として、国内の指揮者をメインにして開始されました。2021年度もまだ緊急事態宣言が継続していますが、2021-2022の定期公演は例年通り9月から再開となりました。個人的には2009年から2013年まで定期会員、2014、2015はシーズン会員でしたが、仕事を止めて時間的に自由になったのを機会に、今年から再開することにしました。従って、この「再開」の意味はN響としてはもちろん、また個人としても当てはまることになります。
 定期公演の再開とはいえ、2021年9月現在はまだ緊急事態宣言中で、海外からの入国には14日間の隔離が必要です。計画では、9月の指揮者はトン・コープマンとパーヴォ・ヤルヴィでしたが、案の定、トン・コープマンは来日不可となり、代わりに鈴木秀美となりました。もう一人は沼尻竜典で、指揮者は予定通りですが、クラリネットのオッテンザマーはやはり代行となりました。

 定期公演としては、9月10日が初日ですが、表題の通り、9月6日に明電舎提供のN響 名曲コンサートがあり、服部百音のヴァイオリンで、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とサン・サーンスの交響曲第3番という文字通り「名曲」がパーヴォ・ヤルヴィの指揮で聴けるというので、行ってきました。週二回、それも同じN響ということで、ちょっと躊躇しましたが、ヤルヴィもあと何回登場するかわからない状況ですし、N響の定期公演のメンバー特典の割引もあり、チケットを購入した次第です。
 しかし、結果的には聞き飽きたとは言わずとも、良く知られた名曲を堪能することができて、久々に幸せな気分になった演奏会でした。(表題の写真はこの演奏会のもので、N響のTwitterアカウントから)

 ヴァイオリンの独奏は、服部百音。1999年生まれですから、まだ22歳の若いヴァイオリニストですが、この世界では10代から舞台に立っている人も多く、珍しくはありません。すでにオーケストラとの共演も何回か経験しているようですが、当夜はN響とパーヴォ・ヤルヴィとの共演ということで、とても緊張しているように見受けられました。そんなわけで、最初の音はとても神経質で、突き刺さるような感じでしたが、さすがに後半は馴染んできたようで、太い音が聞こえるようになりました。それを見守るヤルヴィがまるで保護者のようで、対照的だったのですが、金管が出っ張るのを抑えるようなしぐさで、暖かく包み込むような演奏だったのが印象的でした。服部百音は、まさに手に汗するという感じで、用意したタオルで両手はもちろん、顔や首のあたりを盛んに拭っていました。そういう緊張が聴衆にも伝わってきて、最初ははらはらする感じでしたが、だんだんと本領を発揮してきたのはさすがで、終わってみればチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の持つ甘美な、かつドラマチックな楽曲を、オーケストラの好サポートで楽しませてくれました。

 休憩をはさんで、サン・サーンスの交響曲第3番も、美しい旋律と迫力あるオルガンで知られた名曲です。N響の管楽器の名手達の力量が発揮された演奏でしたが、パーヴォ・ヤルヴィの指揮は、これまで聴いてきた国内の指揮者に比べ、どこか華やいだ、都会的な雰囲気があります。ヤルヴィの指揮自体は、テンポや節回しに特徴があるわけではなく、あ、ヤルヴィの指揮だとすぐわかるような違いは感じません。でありながら、そういった雰囲気の違いはどこから来るのか、よく聞いていると、オーケストラの響きの美しさにあるようです。CDで知った頃から、内声部が良く聞き取れる、切れのある演奏に注目していましたが、N響を振るときも、混濁しないアンサンブルを心がけているのではないでしょうか。そういう積み重ねが美しい響きをもたらし、心地よさをもたらしているように思います。(2021年9月)

2021年9月10日 N響9月定期公演(第1936回)

 今年はNHKホールが改修工事のため、A・Cプログラムの会場は、池袋の東京芸術劇場となりました。加えて、コロナ禍での公演のあり方を踏まえてということでしょうか、Cプログラムは休憩なしの1時間強のコンパクトな公演です。そのため、金曜日の開始時間は日本では珍しい、19:30の開始となっています。これは仕事帰りの人にとっては歓迎すべきことと思います。
 ということで、今年はそのCプログラムの会員となりましたが、第一回(定期公演としては1936回目)公演が9月10日に行われました。曲目はバルトークの組曲「中国の不思議な役人」と管弦楽のための協奏曲という意欲的な組み合わせです。管弦楽のための協奏曲はエッシェンバッハのCDで馴染んでいますが、中国の不思議な役人は始めて聴く曲です。バルトークの作品は馴染みにくい曲も多いのですが、この中国の不思議な役人はその一つでしょう。とても前衛的な曲で、この曲にちなんだ物語があるようなのですが、それも理解できないうちに終わってしまいました。後半の管弦楽のための協奏曲はスケールが大きく、構成もわかりやすいのですが、当夜は久々に眠気に襲われ、残念ながらパーボ・ヤルビのバルトークについて云々できるような状況ではありません。
 仕事帰りならともかく、ここ最近はなかったことなので、少しばかりショックでした。前日までは雨で気温が低い日が続いたなか、当日は急に暑くなり、おまけに午前中にジムに行ったので、疲れがでたのかもしれません。そんなわけで、不本意ながら記念すべき今年度初の定期公演は、行ったという記録だけになってしまいました。(2021年9月)

2021年10月22日 N響10月定期公演(第1940回)

 前回は不本意な演奏会でしたので、今回もいささか気にしつつ東京芸術劇場に向かったのですが、杞憂に終わりました。当日は10月なのに、12月並みの寒さでおまけに雨。最悪のコンディションでしたが、演奏はそのハンディを吹き飛ばすような好演でした。指揮はお馴染みのブロムシュテット。1927年生まれですから、今年で94歳。歳もさることながら、このコロナ禍で果たして来日するのだろうかと思っていたら、予定通りとのこと。さすがにいつもと違って、練習時間も十分でなかったと推察しますが、そんな心配は無用で、従来の演奏に勝るとも劣らない充実した内容でした。ブロムシュテットとN響との付き合いは40年になりますから、お互いの意思疎通は十分で、今回のような限られた時間でも納得できるレベルに仕上げることが可能なのでしょう。

当夜の曲目は、グリーグのペール・ギュント組曲とドヴォルザークの交響曲第8番。グリーグのペール・ギュント組曲といえば、中学生の頃に聞かされた曲で、音楽の教科書に出てくるようなイメージの曲です。いわゆる組曲ですので、オリジナルは戯曲で、それゆえ親しみ易い曲なのですが、一方で舞台がなく音楽だけだと物足りない感じが付きまといます。ブロムシュテットはアメリカ育ちですが、両親はスウェーデン人だそうで、そういう生い立ちもあるのか、ニールセンやステンハンマルなど、北欧の作品もよく取り上げています。ブロムシュテットの演奏はこういう曲でも正攻法というか、舞台を想像させるようなイメージではなく、あくまでオーケストラ作品として捉えたアプローチです。演奏会としてはそうあるべきと思う一方で、こういう曲ではもう少し遊び心というか、舞台を訪仏とさせるような演出があっても、と思うのは欲張りで過ぎしょうか。

 その点では、ドヴォルザークの交響曲第8番は文句なし。ブロムシュテットといえばブルックナーというイメージが強いのですが、パンフレットによれば、N響では初めて取り上げる作品とのこと。それにしても、94歳になる人とは思えない、若々しくかつダイナミックな音楽。NHKのクラシック音楽館の番組で、歴代の指揮者に対するN響メンバーのコメントがありましたが、ブロムシュテットについて、とにかく前向きという話があったのを思い出しました。ペール・ギュントほどではないけれど、ドヴォルザークの交響曲第8番も親しみ易い曲ですが、そこは交響曲ですからスケールも大きく、本格的なオーケストレーションが楽しめます。
 ブロムシュテットの第8番を聴いていて思ったのは、べートーヴェンの田園シンフォニーで、第一楽章なぞ「田舎に到着したときの晴れやかな気分」がそのまま当てはまるような印象でした。もう一つ感じたのはトゥッティに移行する時のちょっとした間。ベートーヴェンの交響曲で良く引用される、いわゆる「ため」が効いていて、これが音楽に深みとダイナミックさを感じさせる要因と思います。
 年齢的にも、今回がブロムシュテットの最後の来日公演になる可能性は大で、そういう共通した思いがあったからでしょうか、聴衆が最後まで総立ちで拍手をしていたのが印象的でした。  

 ところで、今シーズンの芸術劇場の座席は前から8列目で、右ブロックの中央から3つ目という、比較的良い席です。過去の芸術劇場での公演で何度か感じたのは、オーケストラが飽和することですが、音響空間としては十分な広さなのですが、ステージが狭く、しかも奥が塞がれていることに要因がありそうです。パイプオルガンの前面をパネルで覆ったのは、その点を配慮したのだと思いますが、オーディオ用語でいう「抜けの悪い音」という感じです。今回のオーケストラの配置は第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが対向する古典的配置でしたが、第一ヴァイオリンの後方に配置されたコントラバスがあまり聞こえてきません。定期公演のメンバー特典で、日にちの変更ができますので、座席を変えて確認するのも一考かと思っています。(2021年10月)

2021年11月19日 N響11月定期公演(第1943回)

 今月はファビオ・ルイージの指揮によるブルックナー。当初の予定では、今月の最初の定期公演である11月13日からルイージが登場する予定でしたが、目論んでいた隔離期間の規制が緩和されなかったためか、Aプログラムは沼尻竜典に変更になりました。幸い、BとCプログラムについては間に合ったようで、久々にルイージの情熱的かつ重厚なブルックナーを聞くことができました。
 ところで、このルイージですが、来年度のシーズンからN響の主席指揮者に就任するとのことですが、以前の講演会のレポートで、そういうケースを想像をしていたことを思い出して、我ながら驚いた次第です。あれは2014年1月の定期公演で、この時もブルックナーの交響曲 第9番でした。今回は第4番ですが、当時のレポートで「地響きのような金管群と、粘る弦楽器群にいきなり打ちのめされました。私の知るかぎり、N響からあれだけ分厚い音が聞こえたことはありません。」と書いたことがそのまま当てはまります。金管群が張り出すのはブルックナーの交響曲の特徴ですが、ルイージの場合、それが直接的ではなく、まるでオルガンのような深い響きを感じさせる鳴り方です。これに見合う弦楽器群の響きを出すのは容易ではないと思いますが、決して管楽器群が浮き立つことなく、あくまで弦楽器とのハーモニーを保って提示されるところに、この指揮者の真骨頂を感じます。
 普段、拙宅のオーディオでブルックナーを聞いていると、フルオーケストラの迫力よりも抒情的な旋律に酔うことが多く、演奏会ではやたらと金管楽器がうるさい音楽に聞こえがちですが、その点、この指揮者のブルックナーはとてもバランスが良く、ブルックナーに対するイメージが壊れるようなことはありません。もちろんオーディオでのブルックナーとは比較にならないほどスケールが大きく、かつ重厚な響きなのですが、それが別次元ではなく、こうあって欲しいというイメージの延長線上にあるというところが、何とも心地よい演奏会でした。
 とはいっても、やはり短時間で仕上げるのは厳しかったのか、あるいはルイージの指揮がそういうものなのかわかりませんが、本番でも結構細かく指示を出していたのが印象的でした。オーディオと演奏会との大きな違いは、音楽を作っていく過程が見えることで、巨大なシンフォニーといえども、結局一つ一つのフレーズを重ねていって、大きな流れを形作るという、一つの作品に対する制作過程を垣間見たような印象を受けました。今後コロナ禍による隔離も緩和され、ルイージとN響との関係がより緊密になっていく過程で、そのあたりがどのように変化していくのか楽しみです。

 なお、今回の演奏会では、音が飽和することもなく、先月感じたコントラバスの音が聞こえにくいということもありませんでした。先月と異なり、コントラバスが右奥に配置されていたのが要因と思いますが、先月のレポートを見て、そういえばと。。思い出した次第です。前回との違いはオケの配置によるものというより、バランスの問題と思いますが、この点についてはもうしばらく様子見というところです。(2021年11月)

2021年12月10日 N響12月定期公演(第1946回)

 12月のCプログラムはワシリー・ペトレンコが指揮する予定でしたが、11月29日に発表された「オミクロン変異株に対する水際措置の強化」により外国人の新規入国が停止となり、チェリストのダニエル・ミュラー・ショット氏とともに、来日が不可となりました。(ワシリー・ペトレンコは2013年の来日コンサートで聞いていますが、この時はチラシの表記に従い、「ヴァシリー・ペトレンコ」と記しています。"Vasily"なので、英語読みとロシア語読みの違いなのでしょうか。)国内のコロナ感染者がこのところ減少し、N響の定期公演もやっと軌道にのってきた矢先の対応で、今後の感染状況が気になるところです。
 代役として、一週間前のAプログラムを指揮したガエタノ・デスピノーサが出演することになりました。チェロの方は、定期公演に初出演という佐藤晴真に変更となりました。二人とも予定していなかった曲目と思われますが、代役ということはまったく感じさせない見事な演奏でした。ペトレンコは、もともとCプログラムのみ登場する予定で、密なスケジュールでの来日だったものと思われますが、この時期にしては無理があったのではないでしょうか。

 当夜の曲目は、チャイコフスキーのロココ主題による変奏曲、およムソルグスキーの展覧会の絵(ラヴェル編曲)です。合計1時間足らずの、Cプログラムらしいコンパクトな演奏会。ロココ主題の変奏曲はチャイコフスキーらしい親しみやすい曲ですが、チェロの独奏があり、協奏曲のカデンツァのような独奏部分を多く取り入れた曲です。(機関紙によれば、チャイコフスキーとモスクワ音楽院で同僚だったチェリスト、フィツェンハーゲンの手も入っているようで、さもありなんという感じです)佐藤晴真は初めて聞くチェリスト(というより、チェロの独奏はあまり聞いていません)ですが、弦を擦る音や当たる音がまったく聞こえて来ず、とびきりの美音を聞かせます。当日はNHKが録音していたので、そのあたりがどのように聞こえるのか、後日チェックしてみようと思います。
 そのチェロよりも、まず気づいたのがテレビの音との違い。たまたまですが、NHK音楽祭で録画したテレビの音を立て続けに聞いていたこともあり、テレビの音と生の音との余りの違いに唖然としました。今更ですが、弦楽器が空気を揺るがすような響きとか、管楽器の透明感とか、ホールの空間感というものが、テレビではまったく伝わりません。別物と言ってしまうのは簡単ですが、優れた録音のCDではホールの響きや余韻が感じられますが、テレビの音はそのあたりが希薄です。かつてSACDが市場に出た時、CDとの違いとして会場の空気感ということが話題になりましたが、それを追体験するようなものです。もっとも最近はCDの再生能力が向上して、SACDだからということは言われなくなりましたが、テレビはまだスピーカが鳴っているというレベル。せっかくのライブ録音ですから、NHKにはテレビの音質にもっと拘ってほしいところです。

 当夜は演奏自体はそっちのけで、そんなことに気を取られていたのですが、二曲目の展覧会の絵もまた楽器の音色の再現という意味で、生の音とテレビとの違いを追認することになりました。この曲は一度聞いたら忘れられない、アラブ的なイメージのメロディーが耳について、あまり聴こうという気にならないのですが、今回はそれだけで終わらない面白さを感じました、第二曲でサクソフォーンが登場するのですが、そのさびれた音色がとても印象的です。
 指揮者のガエタノ・デスピノーサはイタリア出身で、当夜の機関紙によれば先月登場したファビオ・ルイージの勧めで、ドレスデン国立歌劇場のコンサートマスターから指揮に専念したとあります。さもありなんと思われるのは、各パートへの指示を与える指揮ぶりが、ルイージとそっくりだったからです。終曲に向かって盛り上げていくよりも、各曲の特質を出すことに注力した演奏で、それがラヴェルの意図した色彩感や物語性をよく表現していたと思います。(2021年12月)

2022年1月21日 N響1月定期公演(第1949回)

 今シーズンのN響定期公演は、例年通り海外から招いた指揮者や独奏者で計画されていましたが、昨年の12月から始まったオミクロン株への対応で、12月と同様、代役の登場となりました。ただし、当夜の指揮者はどいういきさつか知りませんが、予定されていたトウガン・ソヒエフに代わって、アメリカ生まれのジョン・アクセルロッドの登場となりました。当夜のパンフレットによると、京都市交響楽団の主席客演指揮者を務めているようで、その関係で来日していたのかもしれません。ついでに、来月の定期公演も、すでにパーヴォ・ヤルヴィから鈴木雅明への変更に加えて、演奏曲目の変更もアナウンスされています。話は跳びますが、2021年11月の定期公演のAプログラムもファビオ・ルイージから沼尻竜典に変更になりましたが、演奏曲目は変更せず、テレビで見る(実際には聞く)限りではリストのピアノ協奏曲 第2番、フランツ・シュミットの交響曲 第2番ともに見事な演奏でした。得意でない曲の場合もあるのでしょうが、この時は代役の指揮者も、インタビューで新たな曲の魅力を知る機会になったと言っていました。

 当夜の曲目は、予定通りブルッフのヴァイオリン協奏曲 第1番とブラームスの交響曲 第3番。ちなみにヴァイオリンの独奏者はワディム・グルズマン(ウクライナ出身ですが、詳しくは知りません)の予定でしたが、去年の9月にも登場した服部百音が代役を務めています。ブルッフはいつもながら心地よい、気軽に楽しめる曲で、言わば誰がやってもそれなりに聴けるという感じの曲です。その意味では服部百音のヴァイオリンも前回よりはリラックスして聴けたのですが、やはり出だしが恐る恐るという感じで、あそこまで弱音にしなくてもよいのではないかと思いました。さすがにオーケストラとやり取りする場面では、ダイナミックさも見られるものの、オーケストラを相手にするには物足りなさも感じました。そのあたりはアクセルロッドのスタイルもあるのでしょうか、パーボ・ヤルヴィなら、もう少しヴァイオリンに寄り添うのでしょうが、気にせず突っ走る感じで、対比がより鮮明化されたきらいはあります。

 その点、後半のブラームスはアクセルロッドの姿勢がより先鋭化されたようで、いわゆる整った古典的ブラームスではなく、もっと生々しいというか自由な発想のブラームスでした。ここでもぐいぐい進めるやり方が顕著で、細部には拘らず、抑揚のある、生きの良いブラームスを聞かせます。この指揮者についは、予備知識はまったくないのですが、オペラでも活躍しているようで、その経験やアメリカ育ちという経歴も影響しているのでしょうか、定番とも言える渋いブラームスではなく、楽天的で明るいブラームスでした。
 最近、演奏会の後半でもうろうとすることが多くなり、この日も同様でしたが、コロナ禍なのに、芸術劇場の換気が良くないように思います。東京都が誇る会場なので、そんなことはないと思いつつも、明らかに温度が高いままで、外気が入ってくる気配を感じません。眠いのではなくぼんやりしてくる感覚は、密閉された空間に長くいると生じる現象なのでそう思った次第で、杞憂ならよいのですが。(2022年1月)

2022年2月11日 N響2月定期公演(第1952回)

 今シーズンも、すでに全公演の3分の2を終えることになりますが、N響広報誌のシーズン開始時の「満を持して」という歌い文句とは裏腹に、すでに3か月続けて代行の指揮者による公演となっています。聴衆はもちろんですが、主催者側も意に沿わない事態ですが、年明けからのコロナ感染者が急増している状況では止む無しというところでしょうか。一方で、日本の鎖国政策ともいうべき状況には内外の批判も多く、現在の入国制限は2月末で停止されることを願うばかりです。と書いたところで、2月13日の朝日新聞に3月から制限緩和のニュースが出ました。3月の東京・春・音楽祭のワーグナーシリーズのマレク・ヤノフスキはじめ、歌手陣の来日も気になるところです。
 そんなわけで、今月の定期公演もパーヴォ・ヤルヴィから鈴木雅明に変更となりました。パーヴォ・ヤルヴィの選曲はリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲で、これを鈴木雅明がやるのは想像しがたく、当夜の演奏曲目は、ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」と「ペトルーシカ」に変更となりました。とはいえ、鈴木雅明がストラヴィンスキーを振るのも珍しく、その点では興味深い演奏会となったのは、さすがN響の調整力いうところでしょうか。ただ、鈴木雅明は昨年も一か月間のプログラムを全て担当したこともあり、代行を探すのも、これまた大変な作業であることは想像に難くありません。

 ストラヴィンスキーといえば「春の祭典」というイメージが定着していますが、かつての前衛的と思われたこの曲も、今日では随分と身近な音楽になっています。今回のプルチネッラとペトルーシカですが、年代順ではペトルーシカ、春の祭典、そしてプルチネッラとなり、ペトルーシカは春の祭典より前に完成しています。その観点で、ペトルーシカは春の祭典と同類で、極彩色のオーケストレーションが楽しめる曲ですが、プルチネッラは小編成で、曲想もロマン派的な印象で、これがストラヴィンスキー?という感じで、とても親しみ易い曲です。ペトルーシカからプルチネッラとの間は約10年。この間にどういう心境の変化があったのか知る由もありませんが、エキサイティングな春の祭典を知った者には、いささか物足りない印象もあります。
 一方のペトルーシカは初版から30年に渡っって何度が改定されたようで、初版は聞いたことがないので、比較のしようもないのですが、より前衛的な作風になったようです。当夜の機関紙によれば、旧作を次々に改定したのは印税が入らないためとのことで、春の祭典のような効果を期待した印象を受けます。ちなみに、今回演奏されたペトルーシカも、1947年の改訂版です。

 鈴木雅明のストラヴィンスキーを語るほどの見識はない、というよりもストラヴィンスキーをあまり聞いたことがないのですが、東京芸術劇場で時に感じる飽和した感じは今回、まったくありませんでした。あれだけの大編成で、しかも派手な曲なのに、意外な感じですが、そのあたりにオーケストラをコントロールする手腕があるように思います。強いていえば、当夜の楽器で、やや聞こえにくかったのはハープで、それ以外はピアノも含めて、管楽器は言うまでもなく、分厚い響きと極彩色のオーケストラサウンドにもかかわらず、それぞれの楽器はその存在を存分に主張していました。
 その点では、小編成のプルチネッラこそ、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いる鈴木雅明の得意な曲と思われます。ステレオサウンドの218号(2021年春号)の「評論家の音の聴き方」特集で、小野寺氏が、試聴ソースの一つに、このプルチネッラを取り上げています。その理由として、「小編成のオーケストラなので、全ての楽器が何を行っているのか、音色・質感的にも、空間的にも把握できるような再生が好ましい」と述べています。このオルフェイス室内管弦楽団のCDは、まだ手に入れていませんが、当夜の演奏で、まずそのことを思い出しました。ただしこの日の演奏については、プルチネッラは初めて聞く曲ということもあり、後半の派手なペトルーシカの方が印象に残る公演でした。(2022年2月)

2022年4月15日 N響4月定期公演(第1955回)

 オミクロン株の感染者は高止まりの状態ですが、ようやく3月から入国制限が緩和され、今年の東京春祭では、実に5年ぶりに来日したマレク・ヤノフスキ―による、極上の「ローエングリン」を楽しむことができました。3か月連続で代役が務めた、このN響定期公演も、4月は予定通り、クリストフ・エッシェンバッハによるマーラーの交響曲 第5番の公演となりました。当夜は4月とはいえ雨の寒い日で、おまけに数日前から腰を痛めてまともに歩けない状態でしたが、そんなことも忘れるくらい素晴らしい演奏会でした。
 当夜のパンフレットによれば、エッシェンバッハは2020年1月の定期公演に登場しており、コロナ禍を考えれば、比較的短期間で来日した方でしょう。ただ、来年度のシーズンでは公演の予定はなく、その点は残念です。もっとも、過去のN響定期公演でエッシェンバッハの指揮は記憶がなく、以前から定期的に出演している指揮者ではないようです。
 エッシェンバッハは2019年からベルリン・コンツエルトハウス管弦楽団の主席指揮者を務めており、その指揮ぶりは、TVでも放映されています。このビデオ公演ではソリストにヴィキンガー・オラフソンが登場しますが、二人でモーツァルトを連弾するなど、サービス精神満載のプログラムとなっています。個人的に気に入っているのは、フィラデルフィア管弦楽団との一連の録音で、チャイコフスキーの交響曲や、このHPでも取り上げたバルトークのオーケストラのための協奏曲などは録音の良さもあり、愛聴盤となっています。

 当夜のエッシェンバッハは、そういった録音で受ける印象がそのまま当てはまるような演奏でした。とにかく真面目な指揮ぶりで、その点では同じくピアニストから指揮者に転向したアシュケナージと似ているかもしれません。ただ、アシュケナージは良くも悪くも健康的な音楽をやる人で、聴いていてハッピーになるものの、物足りなさが常に付きまといます。エッシェンバッハは感情をそのまま表出するのではなく、それを内に込めたような音楽をやる人で、一聴、淡々とした音楽の流れの中に、そういう感情が湧き上がるような瞬間が、音楽をとても魅力的なものにしています。
 当夜のマーラーの交響曲 第5番は、そういうエッシェンバッハの持ち味が存分に発揮され、私にとっては間違いなく今年一番の演奏会でした。この第5番、第4楽章のアダージェットが有名ですが、全体的には明るい曲です。もちろん、そういう明るさをそのまま表現した演奏も、この曲自身が持つ美しさを十分堪能させてくれます。エッシェンバッハは、余計な演出はなく、いつものクールな演奏なので、マーラーらしい高揚感が足りない印象も受けます。しかし、この曲が嬰ハ短調であることも影響しているのでしょうか、決して暗くはないのですが、冷静さを保った演奏がとても印象的でした。そういった効果が最大限に発揮されたのが第4楽章で、過度にロマンチックになることもなく、とても味わい深いものとなりました。
 当夜の公演で特筆すべきは管楽器群の演奏です。目立つ冒頭のトランペットよりも印象に残ったのは、主席奏者である今井仁志のホルン。エッシェンバッハの抑えた音楽にまさにぴったりの音色で、N響の管楽器群は上手いと思わせる演奏は多いのですが、指揮者の目指す方向の音色を感じさせたのは珍しいことです。(2022年4月)

2022年5月20日 N響5月定期公演(第1957回)

 今月は2022年度から主席指揮者に就任するファビオ・ルイージ。しかも、ピアノはアレクサンドロ・メルニコフという豪華メンバー。ルイージは昨年の11月の定期公演にも出演していますが、メルニコフは2011年以来のN響登場とのことで、ようやくコロナも落ち着いきて、こういう企画が予定通り行われるのは嬉しい限りです。当夜の曲目はモーツアルトのドン・ジョバンニ序曲、ピアノ協奏曲 第20番、ベートーヴェンの交響曲 第8番という、良く知られた曲ながらも、さほど演奏会では取り上げられない演目です。

 最初のドン・ジョバンニ序曲で、まず思い至ったのはアマティのことでした。先月の定期公演時には、すでにスピーカをアマティに代えていましたが、そういうことはなく、恐らくここ一か月ほどアマティの音の変化を追っていたことが要因と思います。明らかにB&Wの方がオーケストラの音を正確に再現していると思う一方で、アマティは、楽器の音色や弦楽器の響きを、それらしく聴かせる、つまりオーケストラの雰囲気を伝えるという点でB&Wより優れていると確信しました。その昔、オーディオは生の音をそのまま再現するのが理想といった議論がありましたが、小編成ならいざ知らず、フル・オーケストラでははじめから無理な話で、そこにオーディオならではの再現性という観点が存在する所以です。

 メルニコフのピアノ演奏を生で聴くのは初めてですが、CDで感じるように、とても繊細で、細部まで神経が行き渡った演奏です。モーツアルトでは装飾音を多用し、内田光子の演奏に馴染んだ者にはちょっと異質な感じもありました。一方、ファビオ・ルイージの方は小細工のない直球型で、変化球の多いメルニコフとは必ずしも息がぴったりという感じではありません。もっとも、ルイージも緻密な音楽をやる人ですから、その点では相通じるものがありますが、オケとのやり取りでも気になる部分があり、モーツアルトを寛いで楽しむという気分になれなかったのは残念でした。
 その点、最後のベートーヴェンの交響曲 第8番は文句なし。早いテンポでしかもとてもリズミカルで、第8番がこんなに生き生きとダイナミックに響く演奏はめったに聴けません。うがった見方かもしれませんが、モーツアルトで抑え気味にしていたのが、オーケストラのみを相手にして、ようやくルイージらしさをフルに発揮したという感じです。今月は先月と違い、何故かあまり音楽に集中できず、コメントを書く言葉が出てこない状況で、モーツアルトで感じたことも、そういった事情が反映していたのかもしれません。(2022年5月)

2022年6月17日 N響6月定期公演(第1960回)

 今シンーズンは出だしこそ予定通りでしたが、12月から2月まではオミクロン株の蔓延で、中止とはならなかったものの、代行による公演が続き、4月から再び予定通りの指揮者による公演という、依然としてコロナの影響を受けたシーズンとなりました。また、今シーズンはNHKホールが改修工事のため、AプロとCプロは芸術劇場での公演となりましたが、来シーズンからはNHKホールに戻ります。従って、座席は総入れ替えとなりますが、Bプロのサントリーホールは変わらないので、優先権があっても、サントリーホールに変える場合は、あまりメリットがないことになります。N響への思い入れはないので、シーズンメンバーではなく、アラカルトで確保する手もありますが、それも厄介で、少なくともあと1年は続けようかと思っています。

 今月の指揮者はステファヌ・ドゥネーヴという、フランス生まれで、現在はセントルイス交響楽団とブリュッセル・フィルハ―モニックの音楽監督を務めているとのこと。まったく予備知識のない指揮者ですが、曲目もまたプーランクのバレエ組曲「雌鹿」とオルガン協奏曲、ガーシュインのパリのアメリカ人という、どれも初めて聞くというか、定期公演に取り上げられなければ、まず聴くことのない曲ばかりです。その点では新鮮だったのですが、ライブならではの面白さは十分感じられたものの、CDを購入してまた聴きたいと思うような曲ではありません。

 最初のバレエ組曲は、いかにもバレエ音楽とい感じで、軽やかで楽しい雰囲気。その割には楽器の編成が大きく、管楽器はもちろん、多彩な音色が楽しめます。一方で、その大編成のオーケストラの音色を楽しむ以上の内容はないように思われました。同じプーランクによる次のオルガン協奏曲は、冒頭のオルガンの力強い響きに圧倒されます。ちなみにオルガニストは同じフランス出身のオリヴィエ・ラトリー。長身で颯爽と現れ、弾きまくる姿はいわゆるオルガニストのイメージとは対極で、即興演奏の名手と言われている(当夜のパンフレットによる)のも納得できます。この曲は先のバレエ音楽と違って、心地よいだけではない、精神的なものも感じさせる音楽で、構成はオルガンと弦楽器とティンパニーという、珍しい組み合わせなのですが、これがとても効果的でした。芸術劇場のオルガンはだいぶ上部にあって、オケとは物理的に離れているのですが、オルガンとの協奏部分についてはまったく違和感なく、あたかもオルガンが管楽器の代わりを務めるかのような響きが楽しめました。

 最後のガーシュインのパリのアメリカ人は有名な曲ですが、個人的には初めて聴く曲です。フル・オーケストラの音色を楽しむという点では、プーランクの雌鹿と同様ですが、こちらの方がオーケストレーションが冴えていて、はるかに楽しめる音楽となっています。トランペットの奏でるブルースが印象的で、ドゥネーヴも長谷川氏のトランペットに賛辞を送っていました。この曲で特に感じたのですが、こういった曲はN響も、もう少し楽しい雰囲気で演奏して欲しい気がします。日本人の特性なのでしょうが、ドイツ物と同じ表情でやると、聴く方も真面目に聴かないといけないみたいな気分になるものです。指揮者のドゥネーブについては、どれも馴染みのない曲ですので、コメントのしようがないのですが、アメリカ仕込みなのでしょうか、とてもサービス精神に溢れていて、また気配りもあって、好感が持てました。(2022年6月)