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2014-2015 N響定期公演

2014年12月 定期演奏会

 例年、9月から始まるN響定期公演ですが、今年度からN響の会員は冬シーズンだけにしましたので、12月がその第一回目となりました。今月はパーヴォ・ヤルビのドイツ・カンマー・フィルの来日演奏会が、オペラシティであり、早々とチケットを確保して楽しみにしていたのですが、仕事の都合で行けなくなり、残念な思いをしました。この歳でまだ働けることには感謝しつつも、こういったことがあると、現役世代にウイークデーの演奏会はままならなかったことを思い出します。
 しかし、今月のN響演奏会はそんな思いを吹き飛ばすほど、素晴らしい演奏会でした。指揮はシャルル・デュトワで、曲目は武満 徹の弦楽のためのレクイエム、ベルクのヴァイオリン協奏曲、そしてドヴォルザークの新世界からというプログラム。ヴァイオリンはアラベラ・美歩・シュタインバッハー。久々のNHKホールでしたが、やはり響きが寂しいというのが第一印象でした。日頃、コンサートホールの響きの再現を追及しているオーディオマニアゆえに、より敏感に反応するのだと思いますが、そういったことを抜きにしても、やはり直接音が支配的です。この感覚で思い出すのは、ニューヨークのカーネギー・ホールです。あれは-19℃という、とんでもなく寒い日で、コートを着てもまだ寒く、よくあんな環境で演奏するなと思いつつ聞いていました。当夜はフィラデルフィア管弦楽団でしたが、音がステージの上だけで鳴っている感じで、客席の半分くらいまでしか響きが届かず、NHKホールもまさにその感覚です。このNHKホール、もちろん間接音もありますが、それが極端に少ないので、直接音ばかり聞こえるように感じるのだと思います。当夜の席は右ブロックの前から11列目という、かなり良い席でもそんな調子ですから、後ろの席はきっと耐え難いのではないでしょうか。

 さて、ベルクのヴァイオリン協奏曲はちょっとつかみどころのない曲ですが、よく聴くとベルクらしい抒情性豊かな曲のはずが、どうもしっくりきません。シュタインバッハーのヴァイオリンも浸透力のある音で、悪くないのですが、あまり楽しめませんでした。思うに、これは多分にホールのせいで、そういえばかつて、諏訪内晶子のヴァイオリンもあまり聞こえてこなかったのを思い出しました。あれもNHKホールでしたが、今回もそれを追体験することになってしまいました。(これどこかで書いたなと過去のページをチェックしたら、2010年11月の定期公演の時に同じことを書いていました。それも諏訪内だけでなく、庄司紗矢香も同じ印象でしたので、ホールの違いというのは極めて大きいということです) 特に、このベルクの曲は大ホール向きではなく、むしろCDの方が細部がよく聞こえて、調性の変化を楽しめる曲であることも、その一因ではないかと思います。
 その点、最後のドヴォルザークは文句なし。聞き馴染んだ曲ということもありますが、こういう演奏会受けする曲を聞いている分には、ホールの音響もまったく気になりません。デュトワの指揮はいつもながらドラマチックで、こういう類の楽曲にはうってつけなのですが、以前と違ったのは指揮に風格が出てきたこと。もちろんクライマックスに向かうエネルギーは健在ですが、ちょっと息を抜いた時の間のとり方や、抑制のきいた表現など、肩の力が抜けたというか、指揮ぶりに余裕があります。そういえば、以前は指揮台まで早足で歩いて来ていたのに、今回はゆったりとした動きになっていたことなど、単に年をとったという以上の変化で、そういった身のこなしも音楽の作り方に影響を与えているのではないでしょうか。確かにその業績は巨匠と呼ぶにふさわしいものがあり、特にN響への貢献は称讃に値するものという思いを強くしました。(2014年12月)

2015年1月 定期演奏会

 NHKホールの響きの貧弱さについては先月も書いたので繰り返しませんが、音楽よりも音にとらわれてしまう自分は、やはり音楽愛好家ではなくオーディオマニアであると、改めて認識した演奏会でした。2015年1月の定期公演はトリノ歌劇場の音楽監督のジャナンドレア・ノセダの登場で、曲目はリムスキー・コルサコフの組曲「見えない町キーテジの物語」、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲 第2番、そしてムソルグスキー(ラヴェル編曲)の展覧会の絵。今年のN響定期公演で、12月〜2月の冬シーズンを選んだのは2月に登場するパーヴォ・ヤルヴィを聞くことが目的で、シーズンチケットでなければ、今月はまず聞きに行くことはなかったと思われる曲目です。ところが、最初のリムスキー・コルサコフの組曲は、抒情的なちょっとワーグナーを連想させる曲想で、予想外に楽しめる曲でした。プロコフィエフはお馴染みの親しみ易い曲ですが、プロコフィエフの特徴である、切れの良さよりも優美さを前面に出した演奏。というよりも、この曲自体が抒情的で、後期のシンフォニーのような甘美なメロディーで構成されているということなのでしょう。ヴァイオリンはジェームズ・エーネスという、カナダのヴァイオリニストですが、バリバリと弾きこなすのではなく、どこか優美さを感じさせるのは、多分にノセダの控えめな演出も影響していると思います。

 ノセダについては2012年12月の定期公演で一度聴いていますが、それは今月の公演をレポートするにあたって過去の記録を調べた結果わかったことで、当夜は初めて聞く指揮者という認識でした。2012年2月のレポートでは、透明感のあるしかも分厚い響きが印象的と書いてあり、これまたホールの違いがもたらすものと言って間違いないでしょう。今回は細部に至るまで非常に気を使っているということが伝わってくる一方で、あまりに整然とし過ぎて、もう少しドラマチックに迫ってくるようなところが欲しい感じがしました。そういう点では先月のシャルル・デュトアの派手なイメージとは正反対です。イタリア出身というと、すぐイタリア人らしい楽天的なキャラクターを連想しますが、昨年聞いたルイージも実に緻密な音楽をやる人で、指揮者にとっては、お国柄よりも人柄がより支配的ということなのでしょう。
 そんなわけで、プロコフィエフまでは控えめな指揮者という印象が強かったのですが、最後の展覧会の絵はまさに本領発揮という感じで、大いに盛り上がりました。この原曲はピアノ曲ですが、後に編曲したラヴェルのオーケストレーションの見事さはすでに定評のあるところですが、残念なのは冒頭述べた通り、多彩な楽器を駆使した大編成のオーケストラらしい響きが感じられず、平面的で、やたら大音響というイメージが強かったことです。今回の演奏が、先に引用したサントリー・ホールでの印象とまるで違ってしまったことは、オーディオで言えば、録音の悪さで本来の演奏の良さが表現できていないということに通じるものがあります。(2015年1月)

2015年2月 定期演奏会

 今年度のN響は冬シーズンのみとしたので、3回目の今月で終了となります。冬シーズンを選んだのは2015年9月から主席指揮者となるパーヴォ・ヤルヴィが登場するからですが、今月はその前座としての客演公演。その演奏は期待を上回る素晴らしいもので、先月まで気になっていたNHKホールの音響のこともすっかり忘れてしまいました。このパーヴォ・ヤルヴィですが、手兵のドイツ・カンマーフィルを連れて、昨年の12月に来日しています。12月のN響定期公演のページに記載したように、仕事で外出となり、開演に間に合わず、聞き逃してしまいました。実は今回の公演も出張の可能性がありましたが、幸い中止となり、ようやく生の演奏を聞くことができた次第です。
 当夜の曲目はシベリウスのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィッチの交響曲 第5番という、N響の定期公演でも何度も登場した曲目です。ヴァイオリンは庄司紗矢香。この人は個人的には久々の登場ですが、あのNHKホールかと思われるほど、音がよく響き、かつ浸透力のあり音に、まずはびっくり。そして何よりも演奏がゆったりした、神経質なところがまったく感じられないことで、以前は気づかなかったのか、あるいは本人が進化したのか、恐らく後者と思いますが、かつての線が細いと感じた印象はまったくありませんでした。そういう演奏スタイルはパーヴォ・ヤルヴィにも共通で、一聴淡々と流していくように聞こえるのですが、実は表現の幅が広いというか、奥深いというか、シベリウスがこの曲に込めた思いが伝わってくるような演奏でした。
 以前、プリアンプをC-3800に代えた直後の演奏会で、その音がC-3800の音を彷彿とさせると書いたことがありますが、今回は1週間前にパワーアンプをA-60からA-70に代えたばかりで、その音が陰影を感じさせる奥深いものとなった記憶がまだ生々しく、今度もパーヴォ・ヤルヴィの演奏でそのことを思い起こすことになってしまいました。A-70については、近々レポートをアップする予定ですが、いつものことながら、オーディオと結びつけてしまうのはいかがなことかと思いつつも、マニアにとっては致し方ないことかもしれません。

 さて、当夜のオーケストラの配置はいわゆる古典的配置で、右側に第2ヴァイオリンが来て、ヴィオラ、チェロと並び、コントラバスは第一ヴァイオリンの後方、つまり左側となります。シベリウスでまず感じたオーケストラの音の透明感はこの配置にも起因していると思いますが、チャンバー・オーケストラであるドイツ・カンマーフィルのCDで感じる軽さというのは、さすがフルオーケストラですので、まったくなく、むしろ内声部がきちんと聞こえてくる演奏という印象でした。後半のショスターコーヴィッチも、そういった基本的な印象は変わりませんが、フレーズの表現はより多彩で、この曲のスケールの大きさを十分に堪能できました。実際、楽器の構成もハープ2台、ピアノとオルガンなど、多彩かつ大編成ですが、こちらはフル・オーケストラならではの響きの豊かさが印象的です。パーヴォ・ヤルヴィといえば、はつらつとした音楽をやる人という印象が強いのですが、今回はより基本的なところ、繊細な表現からクライマックスに至るまで、ハーモニーを丁寧に積み上げていった結果ではないでしょうか。シべリウスとショスタコーヴィッチという異なる性格の音楽で、この指揮者のレパートリーの広さがよく表れていて、後半はシュスタコーヴィッチの世界というよりも、この曲が持つドラマチックでパロディーな世界を強く印象づけられる演奏でした。いずれにせよ、今年の最も印象に残った演奏にノミネートされるのは間違いないでしょう。(2015年2月)

2015年12月 定期演奏会

 昨年に続いて今年もN響は冬シーズンのみにしましたので、12月が今年度最初の定期公演となります。年9回あるN響の定期演奏会ですが、そんなわけで私にとっては、今年2月の公演から10ヶ月ぶりの定期演奏会となりました。従来は年度ごとにページを分けていましたが、このコンサートのレポートも次第に増えてきて、あまりページを増やしたくないという思いもあり、昨年のページに追記することにしました。
 その12月の定期公演、N響もNHKホールも今年度初と思っていたら、今年は4月の東京・春・音楽祭でワグナーのワルキューレを聞いていました。あの演奏会も素晴らしかったのですが、今回も期待にたがわぬ出来で、当夜の12月にしては温暖な気持ち良い日だったことと相まって、久々に幸せな気分になった演奏会でした。

 当夜はシャルル・デュトアの指揮で、マーラーの第三番。実はこの曲、9月に東京交響楽団の定期演奏会で、ジョナサン・ノットの指揮で聞いています。そのページに書いたように、その時の演奏がやたらと金管楽器が目立って、しっくりこなかったこともあり、是非N響で聞き比べをしたいと思ってました。その結果はある意味安心したのですが、比較にならないくらいの差がありました。この曲、第一楽章はちょっと思わせぶりな、力強い曲風で始まるのですが、その第一楽章の中でさえ、暗い影を感じさせる部分や、パロディー風なところなど、とにかく表情が豊か。まずはこんなに多彩な曲だったんだということを知らされます。もちろん、東京交響楽団で感じた金管群が一本調子になるようなことはなく、あの時と同様力強いホルンでしたが、その存在を際立たせることはなく、ハーモニーを保っていることは大きな違い。しいて言えば、トロンボーンにもう少し余裕を感じさせるところがあればと思いましたが、それは求めすぎでしょう。N響のチケットを買うときに、何でN響に人気が集中するのかといつも思うのですが、これだけの違いを目の当たりにすると、やっぱりそれなりの理由があると納得せざるを得ません。第二楽章はおだやかなメヌエット、そして第三楽章のスケルツォを経て、清らかな合唱と終楽章の晴れやかな曲で終わるのですが、それぞれ異なる曲想が聞かれるのは当然として、共通して感じられるのはリズム感。メリハリのある表現は元々シャルル・デュトアの得意とするところですが、この躍動感というのは聞いていてとても気持ちが良いものです。

 そんなわけで、表情が豊かで多彩なマーラーを楽しめたのですが、もう一つ気づいたのは、とても凝縮された音楽であるということ。これは小さくまとまったまとまったという意味ではなく、濃い音楽。まさにいろんな要素がぎゅっと詰まった感じですが、N響がそういう音楽をやるということこそ、デュトアの真骨頂なのでしょう。そういえば大編成のオーケストラと合唱団も、ステージの中央に寄った感じを受けました。NHKホールのステージはそう広いわけではないので、意図的ではないのでしょうけど、こじつけではなく、オーケストラもあえてそういう配置にしたのかと思った次第。
 第4楽章のアルトはヒルギット・レンメルトという、ドイツ出身の歌手。前回の藤村美穂子の時は人の声というよりも一つの楽器という感じでしたが、この人は逆に人の声そのもの。その分、とても表情が豊かでまさに肉声を聞いている感じでしたが、どちらかといえば、宗教曲よりもオペラに向いた印象を受けました。
 この長い曲で睡魔に襲われることもなく、全曲聞き終えたのはそれだけ良かった、いや中身が濃かったということですが、当のシャルル・デュトア、最後の振りを終えたとことで、しばらく顔を手で覆って動きません。一時間以上の大曲なので、疲れるのは当然としても、そういえば顔色もあまり良くありません。盛大な拍手に何度も応えてましたが、健康具合がとても気になりました。(2015年12月)

2016年1月 定期演奏会

 2016年の幕開け、といっても定期演奏会は6月までが年度のシーズンなので、会場もそういう雰囲気はありません。その1月の公演はトゥガン・ソヒエフの指揮で、ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲、休憩をはさんでベルリオーズの幻想交響曲というプログラム。このHPの記録をすべて調べたわけではありませんが、いずれもN響で聞くのは初めてと思います。ブラームスの二重協奏曲はそう頻繁に取り上げられる曲ではありませんが、かの有名な幻想交響曲はちょっと意外な気がします。先月のシャルル・デュトアなぞ、いかにもやりそうな曲ですが。
 トゥガン・ソヒエフはすでに3回くらいは聞いていると思いますが、まず気づくのはその模範的ともいえる指揮のスタイル。音楽のファンダメンタルなところがとてもしっかりしているので、聞いていて安心感があります。ヘレヴェッヘとシャンゼリゼの演奏評で、「どこに打点があるのかわからないような指揮」というくだりがありましたが、このトゥガン・ソヒエフはそのあたりが的確で、幻想交響曲の例の鐘の部分など、素人でも簡単に合わせられるのではないかと思えるほど、明快な指示を出していました。もちろんその指揮ぶりが曲全体に及ぶわけではないものの、そのめりはりのある指揮こそが、どんな楽団でも見事に統率し、自分の音楽を表現できる術ではないかと感じた次第です。

 さて、最初のブラームスですが、ヴァイオリンとチェロの独奏は、かのウィーンフィルのコンサートマスターとチェリスト。そういうバックグランドはこのページを書くにあたって当夜のプログラムを見て知ったわけですが、とてもしなやかで柔らかい響きと、オーディオでいう温度感のある音色と演奏でした。そういう独奏に対して、オケの音色はややクールで、シンフォニックな、力強いイメージを印象づける方向。そういう違いというか二面性は、実はこの曲自体の持つ特質かもしれないと思いつつも、もう少し力を抜いて、アンサンブルを楽しむことに徹した方が、よりこの曲を味わえるのではと思ったのも事実。もう久しく聞いていませんが、アンドレ・プレヴィンなら、まさにぴったりの演奏をするのではなどと思いつつ、いつしか心地よい睡魔に襲われるうちに終わってしまいました。

 幻想交響曲はオーディオでもよく取り上げられる曲で、かつては第5楽章の鐘の音にのみに注目した解説もありました。この曲、まさにオーディオ向きの曲であるものの、やはり生で聞いてみると、ユニークな楽器編成に加えて、普通の楽器もいろんな弾き方をしていて、これぞオーケストラ・サウンドという醍醐味が味わえます。CDで漫然と聞いていると、終楽章に向かって一直線に盛り上がる音楽という印象が強いのですが、実はオーケストレーションという点で当時としては斬新な試みをしていて、それがドラマチックなメロディーと相まって、一連の物語を作りあげているということが良くわかります。トゥガン・ソヒエフの、ブラームスで感じたクールで知的な印象というのは、この曲でも基本的には変わりませんが、やっぱりトロンボーンが加わって、圧倒的な音量になっていく断頭台への行進あたりから、がぜんエキサイティング。それは指揮ぶりにも表れてきて、テンポを刻むのはやめて腕を振り回したり、オーケストラの自発性に任せることが多くなりました。その点ではN響の演奏も同様で、最初はちょっと堅い表情でしたが、終わってみれば、トゥガン・ソヒエフのもとで、実にまとまりのある演奏を聞かせてくれました。(2016年1月)

2016年2月 定期演奏会

 以前、年間会員だった頃は多いと思った定期公演も、さすがに冬シーズンだけですと、アッという間に終わってしまいます。そのシーズン最後の演奏は、昨年の10月から主席指揮者を務めているパーヴォ・ヤルヴィ。当夜のCプログラムの曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲とニールセン(プログラムでは”ニルセン”と記載)の交響曲 第5番。パーヴォ・ヤルヴィは最近、フランクフルト交響楽団とニールセンの交響曲全集を出したばかりで、好きな曲なのかもしれません。
 ブラームスのヴァイオリン協奏曲の独奏は、もう何度も聞いているジャニーヌ・ヤンセン。ジャケットの写真ではわかりませんが、ものすごく長身の人で、ヤルヴィと並んでも高いくらい。そのブラームスですが、まさに至福の時間という感じで、N響との絶妙なアンサンブルが楽しめました。特に何か目新しいことや発見があるという演奏ではないのですが、狭い座席でもくつろいでブラームスの世界に浸れるといった、心地よい演奏です。ヤンセンのヴァイオリンはいつもながら十分美しい音色で、それでいて力強さというか、思いを込めた弾きぶりで、ブラームスのこの曲に込めた物語が浮かんでくるような演奏でした。N響のバックで感じたのは、とても自然な音楽の流れ。先月のソヒエフはいかにも音楽という構造物を構築していくような印象を与えるのに対して、すっと心に響いてきます。もっとも細部にこだわって、音楽を作り上げていくスタイルはパーヴォ・ヤルヴィも同じなのですが、それを聴衆に感じさせない流麗さがあります。

 当夜のオケの配置は第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが対向する、いわゆる古典的配置。去年はどうだったのかと、昨年12月のレポートを見たら、やはり同じ配置でした。コントラバスが左に来るので、CDなどで聞き馴染んだ、右側から低音楽器が聞こえてくるのとは反対になるので、ちょっと違和感があります。意外だったのは、ホルンの奏者のうち2名が女性だったこと。それも若い、今風の女性なので目立ちます。後でメンバーリストを見たら、ホルンには女性らしい名前は見当たりません。もしかしたら、インフルエンザが流行っている時期なので、エキストラ出演だったのかもしれません。
 休憩をはさんで、ニールセンの交響曲 第5番ですが、この5番に限らず、どうもニールセンは個人的に馴染めず、当夜もその点では変わりませんでした。ブラームスがアンサンブルの楽しさとすれば、こちらは重厚な分厚い音で圧倒する迫力が持ち味。恐らくニールセンの交響曲として、最高水準の演奏なのでしょうが、ブラームスと違って音楽にすっと入っていけないもどかしさが付きまといます。まあ感性の違いと言ってしまえば、それまでですが、同じ北欧の作曲家のシベリウスとは対極で、ショスタコーヴィッチを思わせる戦闘的なイメージで、そのあたりが個人的というか、日本人の感性にはしっくりこないのではないでしょうか。

 パーヴォ・ヤルヴィがN響の首席指揮者に就任して、N響がどう変わっていくか、非常に興味のあるところです。当夜、まず感じたのはオーケストラの音が以前より色鮮やかになってきたということ。そういう色彩感を感じさせるというのは、確実にステップが一つあがったということですが、そのあたりはシャルル・デュトアの時代から身に着けてきたものなのでしょう。パーヴォ・ヤルヴィが就任時のインタビューで、N響をアメリカの一流オーケストラに匹敵する力量と言っていたのを思い出しますが、そういう色彩感は、個々の奏者が洗練されていて、そのうえで見事なアンサンブルができてこそ可能なことです。N響が世界に通用する、聞いていて楽しめるオーケストラとなり得るかどうかは、まさにそういった特質をどう育んでいくかによるわけで、そういう変化を知るのに、この冬シーズンだけというのは良い選択と思います。(2016年2月)