昨シーズンは全9回の公演のうち、私が行けたのはこのページで記載した6回分となりました。毎年のことですが、どうも秋のベストシーズンを逃すことが多いので、少し残念ではあります。それでも定期会員を続けられるのは幸いですが、1席を夫婦で共有する状況があと2シーズンは続きそうです。今シーズも初回の9月の公演が出張と重なり行けなかったのですが、当日は台風の影響で交通機関がストップし、どちらにしても同じことでした。あの状態では公演は中止かと思ったら、予定通り強行したようで、さぞかし聴衆は少なかったものと思います。しかし、さすがのNHKもその後救済措置を取らざるを得なかったようで、10月と11月の公演への事後振替を通知してきました。
そんなわけで、今シーズンは10月の公演が最初となりました。6月以来ですから4ヶ月しかたっていないのですが、それ以上開いた印象です。というのは、7月にCDプレーヤをK-01に交換した結果、音が随分と滑らかになり、少し美しくなり過ぎた感じがして、早く生の音を早く聞いてみたいと思っていたからです。どうも音をいじっていると、だんだんとバランスが狂ってくるようで、やはり定期的に生の音との比較しないと自分では気づかない誤りに陥りがちです。結果は良好で、バランスは十分で、足りないのは空間的広がりと透明感でしょうか。それもリスニング環境を考えれば致し方ないところでしょう。
さて前置きが長くなりましたが、当夜はアンドレ・プレビンの指揮で、曲目はショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第1番、休憩を挟んでモーツアルト交響曲第36番、そしてリヒャルト・シュトラウスのバラの騎士組曲。ヴァイオリンはチェ・イェウンという、韓国出身の人で何度か来日しているらしい。しかし、よほどの音楽ファンでない限り、演奏会に通うことで演奏家を知るのは少数派で、CDを通じて知るのが一般的でしょう。そのチェ・イェウンですが、音が豊かで、神経質なところがなく、スケールの大きな演奏を聴かせてくれる演奏家です。ただし当夜はショスタコービッチの1番という、馴染みにくい曲であまり楽しい印象はありません。第1楽章はまるでお経、ではなく祈りというべきか、いずれにしても心地よい音楽とはいえません。第2楽章でようやくショスタコービッチらしい快活な楽想になり、第3楽章では美し旋律も聞かれますが、総じて重苦しくて暗い曲です。ただし長大なカデンツァに代表されるように、シンフォニーと言ってもよいくらい奥深さを感じさせる曲で、演奏家にとってはやりがいのある曲に思えますし、もう少し聞きこんだらその良さが感じられるのかもしれません。
休憩を挟んで、モーツアルトは一昨年感じた室内楽という感じではなく、こちらはシンフォニックな音楽でした。ゆったりしたテンポ、ハーモニーの美しさなど、この人らしい親しみの持てる音楽ですが、いわゆるサロン風の音楽になってしまい、あまり印象に残りません。近頃はこういうモーツアルトをやる人は少数派なので、よけいそう感じるのかもしれません。
なんといっても当夜の真骨頂はバラの騎士組曲。この曲はCDもあり、得意な曲という背景もあるのでしょうが、まず楽器が増えたことによる音数の多さ。この音数という言葉はオーディオ用語で、演奏会では多彩さというべきですが、どうもオーディオと比較してしまうのは悪い癖です。そもそも生演奏で楽器の音色が聞こえるのは当たり前のことで、再生するからこそ、音数の多さが一つの尺度になるわけです。アンドレ・プレヴィンは前回に比べて歩行が困難な様子で、控室から指揮台まで歩行器が必要な状態でしたが、そんな年齢を感じさせることもなく、涙を誘うほど美しく、また優美なシュトラウスを聞かせてくれました。それにしてもこんなにウキウキした気持ちにさせられるのは久しぶりのことで、まあこの一曲だけでも、うんざりする帰りの満員電車も我慢しよういという気になります。(2011年10月)
今月も出張で、ほぼあきらめていたのですが、ちょうど帰国した日の14日に定期演奏会があり、いささかしんどいなと思いつつも行ってきました。そういえば12月は第九のシーズンで、そのため今月の定期演奏会は通常より早い日に設定されています。しかし、やはり2週間という出張生活の疲れが出て、当日はほとんど朦朧としてしまい、ここに記載するのも演奏者に申し訳ないと思うほど、ひどい状態でした。とはいえ、このHPは一個人の日記のようなもの(最近はブログと言うらしいが)で、そういう記録を残しておくのもまた一興ということで、ともあれ書いておくことにしました。
今月はシャルル・デュトワ。結論から言えば、やはりこの人はすばらい指揮者だと思います。一聴派手な演出なので、反感を持つこともあるのですが、やはり音楽をドラマチックに、そして楽しく聴かせるという点では超一流でしょう。当夜はヒンデミットのウェーバーの主題による交響的変容、プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番、そして休憩を挟んでバルトークのオーケストラのための協奏曲という組み合わせ。最悪のコンディションで、個々の曲をコメントするほど記憶が残っていないのですが、この選曲はまさにシャルル・デュトワならではという感じです。ヒンデミットはあまり馴染みなく、大して面白い曲とも思えませんが、プロコフィエフの三番と同様、切れの良い演奏は快感です。N響との長い付き合いのもたらす効果でしょうか、オーケストラがそれに見事に応えていました。でも圧巻は最後のバルトーク。聞き馴染んだ曲ということもありますが、この人の演奏は深刻さはなく、まるで映画音楽のように一つのドラマを構成しています。だから第三楽章もバルトークの苦悩に思いを馳せるというのではなく、悲劇の物語として聞こえます。N響という生真面目なオケから、バタ臭いドラマを作り上げる能力を引き出したことはとても大きな功績ですし、こういう指揮者の存在はその音楽スタイルの好き嫌いは別にして、高く評価されるべきものと思います。(2011年12月)
今月はレナード・スラットキンという、アメリカの指揮者。1944年生まれですから、今年で68歳、N響のガイドブックによると、セントルイスルイス交響楽団の音楽監督を長年務めたとのことですが、CDなどであまり取り上げられないせいか、予備知識はまったくありません。それに加えて、演奏曲目はロッシーニのどろぼうかささぎ序曲、ルトワスキーのチェロ協奏曲、休憩を挟んでショスタコービッチの交響曲第10番と、ほとんど馴染みのない曲で、先月に続いてあまり印象に残らない演奏会となりました。
ロッシーニは整った歯切れの良い演奏で、アメリカの指揮者という先入観もあってか、オペラの序曲にしてはややクールな演奏と感じました。次のルトワスキーはいかにも現代音楽という感じで、まさに不協和音の連続。一つ一つのフレーズはウェーベルンのように短いのですが、それがブツブツと途切れるのではなく、不協和音がつながって、音楽の流れを作っていくという感じでした。それに加えてハープ、ピアノ、そしてオルガンと、これがチェロ協奏曲だろうかと思うほど、音色が多彩で、壮大な物語を意識させる音楽ではあるものの、やはり親しみ難いというところはまさに現代音楽です。こういう馴染みにくい音楽ですと、チェロの独奏も判断のしようがないのですが、弾いている本人も珍しく楽譜を見ていたので、やはり自分のものになり難い音楽なのではないかと思いました。
最後のショスタコービッチはまさに力演でした。さりとて感銘を受けるというのとは少し違い、あえて引き合いに出すと、アシュケナージ指揮を聞いた時の印象に近いでしょうか。これは多分にショスタコービッチのシンフォニーという、個人的にあまり馴染まない曲であることも、その要因と思われます。スラットキンの音は、伝統的なオーケストラで聞かれる粘っこい音ではなく、よく整ったすっきり系の音で、そういう点ではやはりアメリカの指揮者という印象です。さりとて、ポップスオーケストラという感じではなく、音楽そのものは正攻法、かつ緻密な印象で、各パートの音が明瞭に聞こえていました。特に木管楽器は素晴らしい響きで、いつもながらN響の管楽器のレベルは高く、そういう点も含めて、N響はスラットキンの目指すシンフォニックな音楽の要求によく応えていたと思います。(2012年1月)
今月はジョナンドレア・ノセダというイタリア出身の指揮者で、シュスタコービッチのチェロ協奏曲第2番と、ラフマニノフの交響曲第3番という、いずれもロシアの作曲家の作品。イタリアとロシアといいうのはあまり結びつかないのですが、当夜のパンフレットによれば、この人はあのゲルギエフが芸術監督を務めるマイリンスキー劇場の主席客演指揮者だったこともあり、ロシア音楽とは長い付き合いらしい。
N響の定期演奏会は12月以来どうも調子がでず、このページに書くのもはばかられるくらい朦朧としてしまうことが続いていたのですが、当夜は時間も余裕があり、久々にじっくりと聴き込んでみようと出かけました。ところがシュスタコービッチが始まったとたん、またしても睡魔に襲われ、一曲目はほとんど印象に残っていません。こういうことが続くと、そもそも音楽に対する感度が落ちたのではないかと思われ、いささか心配になりました。まあ先月から馴染みのない曲が続いたこともその要因でしょうが、丸一日勤務した後に演奏会に出かけるということが、若い時に比べて負担になっているということもありそうです。
ところが二曲目でいきなり透明感のあるしかも分厚い響きが聞こえて、一気に目が覚めました。かつてN響からこういう音を出した指揮者は記憶になく、ラフマニノフという、心地よい音楽ということもあるのでしょうが、その透明な響きが、さざ波から大波まで質感が変わらずに保たれるというのは、極めて稀有なことと思います。そもそも波を思わせること自体が、音楽のダイナミズムを表現している証拠ですが、これだけオーケストラの音そのものが魅力的に響くということは、それを意識した音づくりをして初めてできることではないでしょうか。この音を聞いて真っ先に思ったのは、これはまさにオーディオマニアの理想とする音だということです。演奏会の音がオーディオで理想とする音だったいうのは、本末転倒に聞こえるかもしれませんが、オーディオマニアは生より良い音を出したいと思っているわけで、イメージしている音がいつも演奏会で聞かれるということは決してありません。一方で、こういった質感の違いがオーディオで再現できているかは疑問で、オーディオでは捉えきれない生の音の魅力というものが存在することも事実です。
そんなわけで当夜は音にばかり気を取られてしまいましたが、そもそもラフマニノフの音楽は映画音楽のように美しさしか印象に残らない曲なので、致し方ないところでしょう。それにしても、よりダイナミックに、ドラマチックな音楽をやる指揮者は多くいますが、こんなに音そのものの美しさを追求し、表現する指揮者は少ないのではないでしょうか。しかしまさにそのことが、この指揮者の美意識というものなのでしょう。(2012年2月)
もう一年もたったのかという感じですが、今月は再びあのロジャー・ノリントンの登場です。N響の定期演奏会もこうして同じ指揮者が同じサイクルで登場すると、懐かしさとともに、また一年過ぎたという感傷が生まれます。さて、今月はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番と、ブラームスの交響曲第2番という、ノリントンのイメージにはそぐわないカップリング。ところが、当夜のノリントンは昨年と違って、あまり遊びの要素は感じられず、極めて真摯で、かつオーソドックスな指揮ぶりでした。とはいえ、昨年の演奏会での軽妙かつノリの良いイメージは健在でした。でも当夜の主役はノリントンではなく、ピアノの河村尚子。この人はCD評はじめ、いろんなところで、すでに高い評価を得ているピアニストですが、その演奏は想像をはるかに超えた素晴らしいもので、かつてN響で共演したソリストのなかでも、最も印象に残る演奏でした。
その河村尚子のピアノは、時にはシューマンのように、そしてカデンツァはジャズのように、ベートーヴェンらしい崇高かつ、格調高い音楽というイメージを全く塗り替えるものでした。でも、それはピアニストが意図したものではなく、楽譜から読み取ったイメージをそのまま音にしていったら、結果としてそういう音楽になったというところがユニークなところです。聞きなれたフレーズがまるで取り立てのフルーツのように、みずみずしく全てが新鮮でした。音の美しさはいうまでもありませんが、久々に音のことは忘れて音楽に没頭した時間を過ごすことができました。恥ずかしながら、あまりの素晴らしさに感激するあまり、周りを気にしながら、鼻水をすする状態となってしまいました。
当夜のオケは、いわゆる古典的配置で、左右にヴァイオリンが対置し、一番奥にコントラバスが並ぶというレイアウト。でも、それだけではなく、小編成のオケがさらにピアノを取り囲むように配置し、まるで室内オーケストラのよう。こういうところは古楽器オケを専門としていたノリントンらしいところ。真ん中に配置されたピアノも蓋は外し、しかもピアニストは聴衆に背を向けて演奏するというスタイル。見た目通り、凝縮された音が聞けましたが、音楽は上述したように、形式にとらわれない新鮮なものでした。ノリントンもこの人らしい、一緒に楽しんでいるかのような乗りの良い演奏で、実はこの二人なかなか良い組み合わせと認識した次第です。
休憩を挟んだ後のブラームスは通常のフルオーケストラ編成で、これも立派な演奏でした。ノリントンの指揮に立派なという表現はまったくそぐわないのですが、当夜はどうしたことか、ノリントンの極めて真面目な指揮ぶりが印象に残りました。ただ、ブラームスの交響曲は個人的にあまり関心がなく、しかもその前にあまりに興奮したせいか、また睡魔に襲われてしまいました。ベートーヴェンではこれぞ演奏会の醍醐味とばかり感激し、定期演奏会通いを続けることへの思いを新たにしたものの、終わってみれば、帰りの満員電車はやはり苦痛で、億劫な演奏会というイメージを覆すには至りませんでした。(2012年4月)
5月の定期演奏会は準・メクレルの指揮で、ドビュッシーとラヴェルというフランス物。しかし選曲はユニークで、ドビュッシーのバレエ音楽「カンマ」から始まり、サクソフォンとオーケストラのための狂詩曲。休憩を挟んで、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌ、またドビュシーの前奏曲集のピアノ編曲、続いてアンセルメ編曲の「古代のエピグラフ」、最後はラヴェル「ラ・ヴァルス」という、ラヴェルを除けば、めったに聞くことのない曲ばかりでした。さすがに定期演奏会のメンバーも戸惑ったようで、曲の終わりは現代音楽ほどではないものの、いささか拍子抜けした拍手でした。
ただ、今月は体調が戻ったようで、最初のカンマはいつものお休みモードだったものの、それ以降は久々にオーケストラを楽しんだ一夜となりました。ほとんど記憶のないカンマと、その後のサキソフォンとオーケストラのための狂詩曲はいかにもドビュシーらしい響きの音楽ですが、いずれもあまり印象に残らない曲。やはり本領は休憩後の前奏曲集で、ピアノでは聞き馴染んだ曲が、圧倒的な音色で迫ってくるところは圧巻で、こんなに色鮮やかな曲だったのかと思いました。この編曲は作曲者ではなく、C.マシューズという、イギリスの現代作曲家で1946年生まれというから、筆者とほぼ同年代の人。当夜のパンフレットによれば、全曲が完成しているとのことで、当夜は第一巻、第二巻からそれぞれ2曲でしたが、これだけ聴き映えのする編曲なら全曲演奏会も楽しいのではと思った次第。
準・メクレルという指揮者の名前は良く聞くものの、演奏を聞いたのは当夜が初めてで、最初は風貌とか指揮ぶりから軽薄というと言い過ぎですが、選曲からして軽快な音楽という印象だったのですが、聴き込むにつれ実は緻密でよく練られた音楽をやる人だということがわかりました。フランス物ということもあり、思い浮かんだのはシャルル・デュトワで、デュトワならもっと派手な聴きごたえのある音楽をするだろうなと思う一方で、こういう誠実さを感じさせる指揮者のフランス物もまた良いものです。
メクレルの特徴は何よりも各声部がよく聞こえることで、管楽器は当然として、弦楽器もそれぞれがしっかりと存在を示し、そして音楽全体を形づくっていうという、まさにオーケストラのあるべき姿を示すような演奏でした。そういう姿勢だからこそ、こういった一聴雑然とした音楽でも秩序が明示されるわけで、前奏曲集など、その特徴が最大限に発揮され、フランス物に良く感じられる聴いていて楽しい音楽だけではなく、実は知的な音楽であるということを教えられる演奏でした。そういった長所が最も良く発揮されたのは最後の「ラ・ヴァルス(ワルツ)」で、この曲は演奏が難しい曲が多いラヴェルの中でもとびきり難しい曲で、なかなかワルツらしい優美さが伝わってこないのですが、メクレルの知性が感じられて、以前から抱いていた、フランス物には音としての面白さはあっても、知的な音楽という感じがしなかったのは実は偏見で、表面だけでは捉えられないものがあると思い知らされた一夜でした。(2012年5月)
N響もすでに3年目となり、6月といえばアシュケナージと、プログラムを見なくても思い出します。ただ、どうもアシュケナージにはあまり良い印象がなく、今度こそはいう思いも虚しく、また睡魔に襲わてしまいました。曲目はすべてシューマンで、マンフレッド序曲、ヴァイオリン協奏曲、そして休憩を挟んで交響曲第4番と、馴染みのある曲ばかりです。ただし、ヴァイオリン協奏曲は初めて聞いた曲で、ピアノ協奏曲と比べてあまり話題にならず、CDも多くはないのではないかと思われます。しかし曲自体はシューマンらしく親しみやすいもので、美しい旋律にあふれています。ヴァイオリンはアナ・チュマチェンコというイタリア出身の人。音量はさほど大きくないのですが、とっても美しい音を出す人で、ヴァイオリンで良く聞かれる、弓が弦に触れる音などの雑音がまったく聞こえてきません。まるできれいにお化粧されたCDを聞いているよう。生演奏というのは、CDでは聞こえてこない、いろんな雑音が聞こえてきて、それが演奏の雰囲気を作り出すのですが、そういう音は一切聞こえませんでした。
こういうきれいな音で思い出すのは、オーディオマニアが演奏会で好む場所は一階のステージに近い5列目あたりという、柳沢氏の話です。一般の音楽愛好家に好まれるのは二階の最前列あたりで、全体が俯瞰できて、かつ直接音と間接音が適度にミックスされる位置ですが、オーディオマニアにはそれでは物足りないというわけです。まあ、そのあたりは演奏される曲や演奏家によるところも大きいでしょうが、当夜のようなきれいな音を聞かされると、柳沢氏の話も納得できます。考えてみれば、この場所もすでに2年たったわけで、ステージから5列目は前過ぎるにしても、もう少し直接音が強い場所が良いかなと、そんな思いもします。サントリーホールは比較的場所による音の違いは少ないホールではないかと思いますが、やはりそれは実体験してみなければわからないわけで、年会員となって、年間同じ場所で聞くというのは、便利なようで不便な制度です。
最後の交響曲第4番もよくまとまって、しかも迫力に満ちた演奏。改めて聞いてみると、この曲の管楽器はいわゆる独奏が極めて少なく、いつ目一杯鳴っているという感じです。シューマンなら、管楽器の独奏で、はっとするような美しいフレーズも良いだろうなと思う一方で、まるでブルックナーのシンフォニーを聞いているかのような、オルガンを思わせる分厚い響きがきこえてきたのは新たな発見でした。シューマンのオーケストレーションについては、どちらかというと未熟という批評が多いのですが、こういう音をきくと、やはり今までとは違うオーケストラの響きを出そうとしていたのではないかと思います。
生演奏ではCDで聞き馴染んだ場合と違い、しばらくは指揮者の音楽に馴染むまで時間がかかるのですが、アシュケナージはそれがありません。何の違和感もなく、その奏でる音楽に入っていけることで、良くも悪くもそれがこの人の特徴ではないかと改めて思った一夜でした。(2012年6月)